フェルメールとの旅1

死ぬまでに旅をしながらフェルメールの作品をすべて見たいと思っている。あるとされているのは、37点か、もしかしたら違うかも、と34点とか32点とか言われている。いろいろな街の空気を吸いながら、ただ絵を見つめていたい。けれども、イザベラスチュワートガードナーの美術館のものは盗まれてしまっているし、コロナで再び自由に飛び回れるのは、また先の話なのだけれど。そんな中、向こうから日本に来てくれるのはありがたい。

というわけで、フェルメールの作品が修復を終えてやってきている上野へ。学生時代、ネーデルランド絵画(という言い方いまもしているよね?)をみっちり学ぶ授業を取っていたこともあり、他のアートに比べると思い出も一緒に浮かんでくる。「フェルメールと17世紀オランダ絵画」という展覧会の名前にあるように、フェルメールだけでなく、たくさんの風景画や静物画が展示されていて、そのときのあの国の暮らしにタイムスリップしたような気持ちになる。その一方で、一枚ずつ見るたびにちょっとずつ夕方の階段教室の景色が心の片隅にちらつく。

少しずつ、少しずつ、何かを掘り起こしていくような気持ちになったときに、お目当ての「手紙を読む女」が飾られた展示室にたどり着いた。記憶の中の画集やスライドや、そのほかの印刷物を通して見てきた、あの絵。窓辺に向かって手紙を手にした女性がたたずんでいる。窓から入る光がやわらかくあたりとその横顔を照らす。よい知らせなのか、悪い知らせなのかわからない、さびしげにも見える女性の面差し。とても静かな、完全に閉じられた世界。それはとてもフェルメールらしい、はずなのに、目の前にしたときに「えっ? 鮮やかなんだけど?」というのが最初の印象。18歳のとき初めて見たナショナルギャラリーの「天文学者」だって、やや暗い室内にひっそりと掲げられるフリックコレクションの「兵士と笑う女」だって、いつも目にしてきたのは、古いニスに覆われた状態のものだった。だから私の中のフェルメールはいつも少し濁った蜂蜜のような色味をまとっていて、それが画家の持ち味だと思っていた。けれど違うのだ、本当は。今回、日本に来た作品は、修復されて本来の色の上に新たなニスをまとっている。それによって当時描かれた色合いに近くなっているのだろう。それが、第一印象の「こんなに鮮やかなの?」という驚きにつながる。

そう考えると、私が感じていたフェルメールのすばらしさ、は時を纏っているからなのかもしれない。時間の流れが薄く、本当に塵となって積み重なっているから生まれたもの。表面が衰えてきたからこそ、見えているもの。時間が形になってすべてを覆っているもの。絵画って物理的にも時の流れを目にできるのだから、すごいものだ、と思う。


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