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広島に行ってみたい

被曝ピアノを演奏することとなる女子高生のニュースを見た。そうだ、8/6は広島に原爆が落とされた日だった。いつの間にか8月も1週間が経過していた。

前期の講義では、広島の学びが多かった気がする。


国会議事堂の今の形は、1936年である。日本といえば、この国会議事堂の前面を連想する人が多いと思うが、もうすぐ100年。長くその顔が変わっていないこととこれまでの経済・社会を見比べると、やはり変わらないなぁとつくづく感じる。


ただよくよく思い返すと、国会開設の詔は1881年。実は1936年までは仮議事堂が使われていた。しかも1891年には一度全焼している。

しかしこの後起きたのが、日清戦争。1894年。
この段階で大本営及び仮議事堂が広島へ移され、天皇も広島に移動している。

この段階で広島へ移された理由は、当時は東京も危ないと噂されていたからとも言われているが、山陽鉄道(現:山陽本線)が開業していたのが広島までだったかららしい。

もともと毛利輝元によって築城された広島城が、天皇のはいる広島大本営となる。ここまではただ歴史を連ねただけである。


広島大本営設置以後、広島は陸海の軍事都市として栄えた。
もちろんこれが、原爆が落とされた理由の一つとなるだろう。

つまり、もし山陽本線がもっと延長され、首都機能が広島へ移っていなかったら。他の場所に落とされていたかもしれない。


原爆投下後、椿山ヒロ子氏の以下の発言で永久保存が決められたのは有名なところである。

あのいたいたしい産業奨れい館だけがいつまでもおそるげん爆を世にうったえてくれるだろうか。

この書き残しの日記は1960年のことであるが、平和を発明したとも言える丹下健三の「広島平和記念公園」は1955年である。

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平和記念公園の資料館・慰霊碑の軸線状に原爆ドームを据えるあの公園を、「近代建築史」の先生は「平和の発明」と呼んだ。

卒業設計の特徴は、ル・コルビュジエ的であるということだけではなく、中心における空虚性です。その後の丹下の計画では、建築は何かの額縁のようで、その真ん中が空いている、そんなイメージの計画があるのですが、それが既に卒業設計でも見られるというわけです。
そして、この空虚性が最大限に表現されたのが《広島平和記念公園》(1954)です。この計画で重要なのは、原爆ドームです。丹下は原爆ドームをビスタの中心に置くように、新しい建物や公園や広場を整備したのです。ピロティで1階が吹き放たれたコンクリート打放しの《広島平和記念資料館》(本館、1955)の建築は、同時にゲートでもありました。そのゲートを潜ると、原爆ドームが広場に設えられた慰霊碑を照準のようにして、その視点の中心に定位します。この視覚体験によって、広場全体が緊張感のある、意味をもった高い象徴性を確保しているのです。原爆ドームが平和の象徴として蘇りました。まさに丹下は建築デザインによって、平和の象徴物を再定義=発明したのです。
『実況 近代建築史講義』中谷礼仁著 p.159-160より


少し期間が空き、太田川工事事務所から篠原修先生経由で中村良夫先生に太田川の水辺づくりの相談が入ったのが1975年。篠原修先生、中村良夫先生両氏は景観工学を作り上げた先生である(中村良夫先生:景観の定義、篠原修先生:景観把握モデルは有名どころ)。以下は景観の定義で用いられる中村良夫先生の言葉。

景観とは人をとりまく環境の眺めである。しかしそれは単なるながめではなく、環境に対する人間の評価と本質的な関わりがあると考えられるのである。

この中村良夫先生が広島平和記念公園周辺の水辺空間(魚見台、鎮魂のテラスなど)をデザインした。

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これに対して、以下のように記されている。

広島の水辺デザインのハイライトは、原爆ドーム前面の水辺を鎮魂の広場に編み直すことでした。広島平和記念資料館のピロティから原爆ドームへ向けてまっしぐらに走る祈りの丹下軸線が、戦後の平和都市・広島の背骨になりました。この祈りの造詣が元安川とまじわるところは、以前から原爆忌の灯籠流しが行事化されていました。ここに、都市の魂になる水の広場をつくりたい。こうしてデザインされたのが、灯籠を配した左岸の魚見台、そして右岸には長い鎮魂のテラスです。ここで、くり広げられる原爆忌の灯籠流しは、人類の痛恨と慰霊、そして、平和を祈念する夏の風物詩になりました。戦後七十余年、広島市民は忌まわしいあの日の阿鼻叫喚を厳粛な人類の神話に育て上げたと言えます。
『都市を編集する川』中村良夫担当章「はじめに」より


もし原爆が広島へ投下されていなかったら、つまり丹下軸線とその後の流れが生まれていなかったとしたら。
もし忌まわしい歴史を封じ込めることができなかったら。

と考え、何かを感じる8月6日。

広島への投下がなかったとしても、歴史は変わらなかったかもしれない。


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その中でも、大学からの学びに何かを感じる夏。




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