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「親愛なる他者」からはじめる、「わたしの幸福」のための風景論

わかりづらいタイトルをつけてみた。
浅草のもんじゃ屋で議論した内容を、しっかりと議論できるレベルまで、時間をかけて押し上げたいと思う。

"幸福のための風景論"は、ボスの学会発表から出てきた言葉なのであまり言及できない。ただ、ここで考えるのは、あくまでも"わたしの幸福"だ。


議論の前提

以上,一つ目の話題のまとめとしては,風景体験をつくるのは視対象ではなく体験する私だ,ということである.

佐々木葉:風景体験の楽しみとレッスン、土木学会景観・デザイン研究講演集、2023

ここでは、以上の議論(の過程は吹っ飛ばしているが)を参照して、あくまでも「わたし」視点で考えたい。
いわゆる土木的・都市計画的な、正義感を持ち、神様の視点でこの世のこととかを考えたりはしないことにする(理由はそのうちわかってくる)。


着想元・考えたいこと

まずは着想をどこから得ているかをまとめておく。先に言ってしまえば、『PERFECT DAYS』である。

平山さん(=役所広司)の日常(ルーティン)と、日々のできごと。その中での平山さんの幸せが描かれていると勝手に解釈している。

ただ、この映画に出てくる無口な平山さんは、他者との交流によってその生活を支えられているわけではない。でも、幸せ(そう)なのである。

ここにわたしの幸福を考えるヒントがないか、というのが「親愛なる他者論」だ。

敢えて社会的側面からも、考えたいことを書き出してみる。

昨今のコミュニティや地域に生きる…など、他の人との繋がりや自身が取り組んでいることによって自己了解(=私はこういう人間だ)でき、それによって幸福を感じているという、流行的な現象のアンチテーゼを提示できないかという問題意識がある。
まちづくりを議論する本の中でも、「お母さんが店舗兼併用住宅で、子育てと並行して小商いをする」(PLANETS『2020年代のまちづくり』)とか言ってしまうわけである。そんなキラキラした生活をみんなができるわけないじゃないか、というモヤモヤを解消したいところもある。

ネガティブな視点からいうと、SNSの流行などで他の人と尺度を同じにして比較することが容易になってしまった。「わたしはこんなところがダメだ」「自分には何ができるのだろう」と思い込んでしまったり問われていたりして、結果的に自殺とかに追い込まれてしまう。グローバル化の多接続化した世界から切り離して、わたしの幸福だけを考えられる、わたしの世界を構築できないだろうか…。


「親愛なる他者」とは?

まず最初に、「親愛なる他者」を思いついた背後には、ある誤解がある。

2023年7月の研究室のゼミで、ある学生が「親密でない他者」という言葉を用いていた。これを誤解して「親愛なる他者」と捉えて覚えていた。

その経緯は置いておき、親愛なる他者を具体的な事例から考えてみたい。

『PERFECT DAYS』

毎日のルーティンとして、銭湯に行くシーンがある。
きっと毎日のように会うおじさんを見ながら、軽く会釈をする関係性。

行きつけのスナックでも、隣に座っている人はきっと知らない人。
でもママから離婚したこととかを教えてもらえる関係性である。

もしくは朝の目覚めしに聞こえてくる宮司のほうきはどうだろう。落ち葉掃きの音が聞こえるだけで、面と向かっていないのに宮司に想いを寄せる。そんな関係性。


『孤独のグルメ』シリーズ

井之頭五郎(=松重豊)が1人でご飯屋さんを巡り、その場での出会いが繰り広げられる物語。
そこで思い出すのはいくつかのフレーズ。実際のセリフは全く覚えていないので、モノマネ口調で出してみる。

「(店内の人を見ながら)あの人が頼んでいるの、美味しそう・・・」
「すみません、わたしもあれをください。」

こんなセリフがあった時、きっと松重さんはそのお客さんと会釈をしたり、目を合わせたりしているのかもしれない

もしくは隣にいた常連のおじさんから
「あんた、初めてかい。いいの選ぶねぇ。美味しいんだよ、それ。」
とか言われたりする関係性。

こんなシーンが孤独のグルメにはたくさんある気がする。


日常から

ゴミ捨て場にゴミを出しに行くとき、近所のあまり親しくない人もちょうど来ていた。その人との関係性。

通勤途中に少し遠回りをしてみると、家の前をほうきで掃除するおばさん。軽く会釈をする、そんな関係性。


親愛なる他者と、知人・友人と、無関係者(仮)

こうした自分以外の存在をどう分類できるか。

例えば一般的に「知人・友人」と呼べる人は、なんと呼べば良いのだろう。「親愛なる知人」とかか。

前に羅列したように、自分が勝手にその人との関係性を解釈する、実際には関係性は紡がれていないけれど。そんな感じで勝手に親愛な関係を解釈する他者を「親愛なる他者」としたい。

それに対して、例えばスクランブル交差点ですれ違う人は、もはや他者としても認識していないのではないだろうか。敢えて名前をつけるとしたら、「無関係者」みたいなものだろうか。


敢えて「わたし」だけを考える理由

では、なぜ「わたし」だけ考えるか。「わたしたち」でないのか。
ここに、また平山さん的ヒントがある。

たまたま見つけたこの記事では、ユクスキュルの環世界を引用して解釈を試みている。
自分も、映画を見終わったあとに連想したのが、環世界だった。

「環世界」とは、1900年代はじめ、ドイツの生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した概念だ。彼は、それぞれの種は客観的に把握される唯一かつ普遍的な世界を生きているのではなく、その知覚を通じて、各種に特有の主観的世界=「環世界」を生きていると考えた。近年、日本の哲学者・國分功一郎が、ベストセラーとなった著書『暇と退屈の倫理学』の中でこの「環世界」を重要な概念として取り上げ、注目を集めた。

本作にこの「環世界」の概念をより一般化し噛み砕いた上で当てはめてみれば、本作は、それぞれの環世界に生きる社会の様々な人々の「交わらなさ」と、しかし同時に当人がどう構えようが結局は社会的な存在であるがゆえにときに「交わってしまう」人々の生のありようを、静かに描き出しているのだと理解できるだろう。人間は、それぞれの環世界を完全に俯瞰することはできないが、ときに環世界同士を移動し、つなぎ、滲むように交わらせてしまうこともある(できる)のだ。それはしばしば私達にとって快くはない体験となるだろうし、國分の言葉を借りれば、人生の「退屈」に倦むことにもつながる。

上記記事より

他の人との双方的な合意ではなく、主観的な解釈によって幸せを感じる事ができるのではないかと思う。

その時に重要になるのは、世界の線引きである。

自身の世界にノイズとして、厄介な人が乱入してくることは誰しもが体験したことがあるだろう。
その人を「他者」として認識するか、「無関係な人」として認識するか人それぞれだと思う。

ただし、その線引き自体が幸せを支える重要なインフラであると思う。

例えば、昨今の流行に近くなってきた「弱き者」をどう考えるかである。

強弱というのは相対的なものであるから、例えば自身と関係を持つ世界が広い、いわゆる陽キャ的思考でいけば、弱き者まで思考が及ぶだろう。
では対極にある陰キャ的思考ではどうか。(どの軸で議論しているかは棚に上げて)そもそもその弱き者は"弱い"のか。もしくは、自身の世界の中で捉えられているのか?

積極的に他者との関係を紡ごうとする風景論とそのアクションを、学生の勝手な解釈として「陽キャの風景論」と陰で揶揄していた経緯があるのだが、その対立にある「陰キャの風景論」として、狭い世界のルーティン的な日常と偶発的に起こる環世界間の接続、そこで感じる幸せを考えられないか。


残された課題たち

先のように、他者の捉え方を3レイヤーに一旦分けることができるとして、これを幸福論として展開する上では、「無関係者」を「親愛なる他者」へと昇華することが重要な気がする。

  • では、そもそもこの3レイヤーで考えることが良いのか。無関係者と親愛なる他者、親愛なる他者と知人・友人の閾値は何処か。

  • 場合によっては3レイヤーではなく、例えば「親愛なる/疎遠なる」×「知人/他者/無関係者」のような2軸で捕えることも可能か。

  • もしくは人々の幸せを捉えるフレームワークはどんなものか。無関係者から親愛なる他者への昇華だけでよいか。

  • こうした現象の捉え方は何か。客体から観察するだけで解釈してしまうことの危うさはないか。

  • では、ファンダムや推し活はこうした「わたし」と「他者」の関係性からどう解釈できるか?満員電車の隣の人は?カフェや居酒屋での(空間的な距離も含めた)関係性は?

他方で、どこまでいっても工学的アプローチに思考が寄ってしまう。すなわち、実空間にどう落とし込むか、を考えてしまうわけである。

  • 親愛なる他者を認識するために、わたしと他者を媒介するアクティビティ・モノ・認識は何か。

  • そうした認識はどこで醸成されるか。

そんなことを少しづつ議論していけたら面白いのではないか。

むしろ、サテライトラボの前とか、某地域を含めた各地での中間領域の活用のあり方や、パークレットなどのキラキラした取り組み、とりあえずで進められる社会実験、などへと議論を発展させられないか。

修了の年度末にそんな変なことを考えている。


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