お便り、つぎはぎの石


パッチワークの絵を描くようになったのは、2年前の油絵が最初。
このつぎはぎのシェルターを描くことは私にとてもしっくりきた。それがはじまり。

版画に進んだ今、最も好きな版種はリトグラフ。

とりわけ好きなのは石版画。かつて石版印刷が主流だった時代があったこと、何も知らなかった私だけど、表現の手段として、こんなにしっくりくることってなかった。私は版画に救われてる。

パッチワークの話に少し戻そっか。
私がパッチワークの絵を描く理由はいくつかある。
ひとつは単純、元々パッチワークが好きだから。

あとはちょっとドライな理由だけど、描き込みに飽きたら次の描き込みに移ればいいから…とか。

私はかなりの飽き性なので、ずっとずっと同じ描画が出来ない。スイッチが切れたら、もう何も手につかなくなる、細密描写とかあたしゃ出来ない。
でもパッチワークなら、絵の中にいくつもの小さな支持体を作れる。細密に飽きたら、次はラフな絵柄でパッチワークのマスを埋める。やる気が戻ってきたら写実的なマスにしてみる。もはやただの模様にしてみる、とか。

あとはそうだな、小さい物語を作ってそれを埋め込むことができるのが大きい。

頭の中のお話を絵に反映させようとするスタンスは高校生くらいからずっと変わらないんだけど、パッチワークにすれば、小さな物語をいくつもいくつも詰め込める。

作品自体が大きな本だとするならば、その中の挿絵を集めたものが最後には大きな景色となる。

閉じられた、ちいさな居場所がいくつもある。

この居場所の心地良さを最近は鍋に見出したんだけど(これは今度別の機会に書くね。)、鍋は小さな宇宙だと思ってて、その小宇宙と小さな物語を詰め込んだ、小さくも大きなとっておきの居場所を作れた時は、本当に、本当に安心できたの。
きっとこれからも、パッチワークもお鍋もたくさん作る。他にも自分で見つけたシェルターが増えたりするかもだし、小さなお話が増えていけば、守られる。どこへも行けるから。

石版画の話にまた戻るね。
アルミ板と違って、石は削ることができる。
削る時、陰影も気にするけど、心のわだかまりも削れるような気がして。あとは少し失敗しても、削って誤魔化せるところが素晴らしい。
(こんな大雑把でおっちょこちょいな人がよくリトグラフやれてるなって自分でも思う。変態。)

これは人によって好み分かれるらしいんだけど、石の縁が出てくるところが私は大好き。
石の輪郭にインクが溜まったまま刷るのは本当は良くない状態らしくて、だから研磨の時点で縁を少し削るか、刷る直前に縁のインクを拭き取るかがベターらしいの。

わかってる、わかってるけど、私はそれでも石の輪郭に救われた。四角くなくても、ぐにゃぐにゃでもよくて、何も手入れされてない、マロマロとした支持体に、私の小さなお話が詰まってて、それがアルミ板じゃなくて、石でやる理由。

自分で形を作るのは粘土でできるけど、そういうのじゃなくて、自然のまま、版画でこういうことできるんだ!って思って。
四角くなくても大丈夫なことに、私は救われた。


ずっとずっと手紙を書いている。
頭の中のお話を意識しすぎると、逆に緊張して空回りしてしまい、上手く考えられなくなる。
だから、程よく本能のままに描いてる。

製版がややこしいから、いざ刷ってみると想像と全然違うこともある。そこが版画の面白さで、また、救われるところ。
リトグラフなんかは特にそうで、私が描いたもののはずなのに、製版という壁を挟むことによって、本当だけど少し嘘なものが刷り上がる。
だけど、その、少し嘘なものを本物に出来ちゃうの。そこが曖昧に行き来できるところ、版画の心地良さってそこにあるから、私はリトグラフを選んでる。
自分の正直に描いた絵が、ちょっと苦手だから。

だから想像と違うイメージが出ると、あちゃーってなると同時に、少しほっとしてしまうんだ。

石版やってるとき、心はずっと、誰かに手紙を描いてるような気持ちでいる。
宛先はこの世に存在しない誰かだったり、実際の大切な友人だったり、過去の自分だったり。
わたしはずっと、誰かに手紙をかいている。
心の中で。たまに出してるフェイク新聞のトンガリ通信もそれの一環なんです実は。

小さな手紙を、何枚も何枚も重ねていけばそれは本になる。

私は、私の石版画作品自体を大きな本として、
取っておきの居場所を作りたい。

石とたくさんの大切に程よく愛をこめて。


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