「2人組を作ってください」
学校に通っていて、一番嫌な瞬間はこれだった。
「 2人組を作って下さい」「 好きな人たちでグループを作って下さい」
私には友達がいなかった。だから一緒に組んでくれるクラスメイトなんているはずもない。
退屈な国語や算数の授業よりも、こういったみんなが喜ぶグループ作業や自由時間が苦痛でならなかった。
この瞬間をどうにかやり過ごすために、何とか仲良くしてくれる友達を探そうと頑張っていたように思う。
小学校高学年になってからは、漫画が好きな友達ができたのでこれでぼっちからは解放されると内心安堵した。
大人になってからもずっと、この呪縛にとらわれていたように思う。
もともとASDの気があり ひとりでいることを全く苦痛に思わなかったのだけれど、小学校1年生の時に初めての遠足に行って、1人でご飯を食べたと母に報告すると、ものすごくショックを受けていた。
その反応見て「あっ、 一人でいることっていけないことなんだ」 と刷り込まれてしまったのだ。
それでなくとも、「友達は一生モノ、 大切にしよう!」 といたるところで誰かが言っている。
確かに、全く一人ぼっちなのは寂しい。 たまには誰かとご飯を食べたり笑いあったり、いろんなことを話したいと言う欲求が私にもある。
でも、 どうやらそれが 普通の人に比べてものすごく薄いようなのだ。
半年〜三ヶ月に一度くらいが丁度良い。月1だとちょっとしんどくなる。
人と会うと楽しいけれど、神経がすり減るのか疲れ果てて翌日動けないし、一気に底へ堕ちてしまう。
それに気づかず、頻繁に会いたがる友達につきあっていたら、 限界が来て縁を切ってしまった。
1人の方が、自由に行動できて気楽だ。
私は気が散りやすく、道を歩いていてもちょっとした看板やショーウインドウなどに 興味を惹かれて近づいてしまうし、ふいっとお店に入ってあちこち物色してしまう。
1つのものを買おうかどうか何時間も延々と悩んだりするし、 展覧会などに行くと、気に入った絵を何度も何度も見てしまう。
他人といると、そういう行動を制御しなくてはならないし、次はどこへ行こうか、何を食べようかと考えなくてはならない。
映画も、昔は友達と一緒に観に行って感想を言い合うのが楽しかったけれど、今は1人でしみじみかみしめる方が合っているなと思う。
私の趣味はドールのカスタムや撮影なのだけれど、一人でああでもないこうでもないと試行錯誤していれば一日中楽しめる。
出来たものを見て欲しければ、インスタに投稿すれば誰かがいいねを押してくれる。それで満足だ。
創作もそういうスタイルなのが周りに気づかれているのか、私は合同誌やアンソロジーなどに誘ってもらったことがない。
そもそも、私は お金が儲からないものは書きたくないと言うスタンスだし、 作家同士のリモート飲み会で「エロ描写って技術ですよね」と口走り周りが凍ったこともある。
おそらくスタンスが周りと全然違うのだろう。 SNSなどでちょくちょく話す相手はいるけれど、一緒に何かをやろうという雰囲気になった事は無い。
駆け出しの頃はいろんな人と交流を持って人脈を広げ、仕事につなげようなんて野心を持って交流会へ積極的に参加していたけれど。
それもなんだか疲れてしまった。
作家同士で本を作ってイベントに出店だなんて楽しそうだな、 憧れるなあと思うけれど。
憧れているだけで、別にやりたくは無いのだ。
本当にやりたかったら、私の性格なら自分で主催している。
そして気づいたことがある。
私は、同人イベントに一人で参加するのが好きではない。
挨拶まわりや買い物に行くときに誰かいたほうが助かると言うのはあるけれど。
イベント中ぽつんと1人で店番をして、 アフターも一人ぼっちだなんて惨めだと思ってしまうのだ。
でもそれって、「遠足に行ってお弁当を1人で食べるのはいけないことだ」と感じた時と同じじゃないのか。
結局他人から見て自分がどう映るかを気にしているだけなのだろう。
「 友達は、辛いときに助けてくれる」
そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。
辛い時に欲しい言葉をもらえなくて、無神経な言葉を浴びせかけられてさらに傷ついたこともある。 言わなければよかったと何度思ったことか。
自分ばっかり誘っているなと思う時だってある。
友達というものに期待しすぎているのかもしれない。
夫がいなくなった後、自分は一人ぼっちになるのかなと不安になることがあるけれど。
どうせ死ぬ時はみんな1人なのだ。
そんなに常に2人組を作らなくてもいいじゃないか。
学校と違って、先生を困らせる事もない。もう誰も憐れんだりしないのだから。
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