誰にも愛されなかったじいさんの話

私の祖父の話をしようと思う。

私は両親ともに、祖父母に可愛がられた経験がない。
なので、優しいおじいちゃんおばあちゃんというのが物語の中でしか知らず、子供の頃祖父母に可愛がってもらったと言う話を聞くと羨ましくて仕方がなかった。


両方の祖父母ともにかなりキャラが濃かったのだが、中でも父方の祖父──じいさんは最悪だった。

まず、コミュニケーションが取れないのだ。

いつも声だけはデカイがモゴモゴしていて何を言っているのかさっぱり分からない。

じいさんは戦争に行ったせいで片目が義眼だったり耳が若干遠かったりすると聞いていたので、子供の頃はそのせいでうまく話せないのだと思っていたが、今思うとあんまり関係ない気がする。

そして常に妙な威圧感があった。昔の人にしては背が高い方だったのだが、それだけではないのだろう。

じいさんの家に行くと、いつも鼓膜が敗れるのではないかというレベルの大音量でテレビを流して一人でぽつんと観ていた事と、飼い猫をとっつかまえて頭を叩いていた事くらいしか思い出せない。頭をばしばし叩かれている猫は、ものすごく嫌そうに顔をしかめていた。
そんな光景を見て「どうして猫をいじめるんだろう、かわいそう」と思っていたわけだが、母に聞いたところ「じいさんは猫を撫でてるつもりなのよ」と言っていた。そんな馬鹿な。

たまに家にくるとお構いなしに煙草をぷかぷかふかしまくり、私の母を大変不愉快な顔にさせた。


そんなじいさんは周りにも嫌われていた。

じいさんは大工の棟梁をやっていたのだが、給料日になると飲みに行き、皆にぱーっとおごってしまうのでお金が全く残らなかったらしい。
別にきっぷが良かったわけではない。後で母から聞いた話なのだが、爺さんには全く友達がおらず、飲み代をおごることでどうにか周りがつきあってくれたのだそうだ。
要するに「友達料」である。
自分の祖父が友達料を払って他人に仲良くしてもらっていたなんて…と衝撃だった。

当然家にお金は入らない。祖母は野菜売りの行商をして、生活費と息子たちの学費を稼いだ。
超がつくほど貧乏で、息子である私の父は、子供の頃とてもみずぼらしい格好をしていたようだ。そのせいで学校でもいじめられていたと話していた。
そんな辛い思いをさせられたせいか、父はじいさんが大嫌いだった。

嫁である母は、さらにじいさんを忌み嫌っていた。
ある日じいさんの家から泣きながら帰ってきたことがある。じいさんが私に
ついてひどい暴言を吐いたのだそうだ。絶対に許さないと言う意思が、母の顔に刻まれていた。

孫である私も、じいさんはなんとなく怖かった。何を考えているかわからないし、いつ爆発するかわからない危うさを秘めている雰囲気があった。

じいさん自身も、たまに訪れる孫たちにどう接して良いのか分かりかねていたようだ。私たちの間にはあまり交流はなかった。同居していた私の従姉妹も、じいさんにはあまり近寄らなかった記憶がある。

しかしじいさんは出来が良い私の妹の事は好きだったらしく、妹が県内有数の進学校に合格したときにはうれしそうに「五万円の自転車を買ってやるからな」と繰り返していた。
なぜ五万円なのか、なぜ自転車なのかは謎である。
そして妹は結局、ブランドものの腕時計を買ってもらっていた。

・・・


私にとってのじいさんの思い出はびっくりするほど何もないわけだが、ひとつだけ覚えていることがある。

小学生の頃。親戚一同で夏祭りへ出かけたことがあった。なぜか私とじいさんがたまたま一緒に歩いていて、そこへ地元のテレビ局の撮影クルーが声をかけてきた。
「おじいさんがお孫さんに、屋台で何か買ってあげているシーンを撮らせてください」

きっと夏祭りに訪れた仲の良い祖父と孫の、心温まる光景を撮りたかったのだろう。

じいさんは了承し、目の前にあった屋台でわたあめだかなんだか、とにかくそういうお菓子みたいなものを買って私に差し出した。

するとテレビ局の人は困ったようにじいさんへ言った。
「すみません、もうちょっと優しく差し出してもらえませんか?」
そう、じいさんには「優しい仕草」というものがまるで出来なかった。
その時も「ブンッ」と風を切る音がしそうな勢いで、わたあめを私の目の前に突き出していたのだ。

じいさんは仕方なくやり直した。だが何度やっても同じで、私の目の前に正拳突きのごとく乱暴にわたあめが突き出されるばかりだった。
テレビ局の人たちはだんだん呆れたような顔になり「すみません、もう結構です」と言って私たちの元から去っていった。
そして私のもとには、特に食べたくもなかったわたあめが残された。
じいさんはぼんやりとその場に立ち尽くしていた。

・・・

高校生の時、祖母が亡くなった。心不全だった。

もともと心臓に持病があり、胸が苦しいと寝る前に訴えていたそうだ。
眠っている間に心不全が起こり、そのまま帰らぬ人となった。じいさんが起きた頃には、祖母の体はすっかり冷たくなっていた。

彼女は私の祖父母の中で一番まともな人だという認識の相手だ。
実質女手ひとつで息子二人を育て上げ、浪費家のじいさんの代わりに野菜売りで生計を立てて、自分たちの家と小さなアパートまで建てた。
実家は貧しくて、子守に追われて学校へ行けず字が読めなかったそうだ。
大人になってから独学でコツコツと勉強し、新聞が読めるようにまでなった。
努力の人だった。

祖母は無口だが優しい性格で、周りに慕われていたらしい。近所の人達に自分が栽培した野菜をお裾分けしたりして、交流を深めていたようだ。
そういえば私が志望校に落ちた時に唯一「○○(私が行くことになった学校)もいい高校だから」と慰めに来てくれた。そのせいもあって祖母の事は嫌いではなかった。
祖母のお葬式は盛大だった。自宅葬だったのだが、祖母の遺影の周りにはたくさんの花が飾られ、そして多くの人達が参列した。祖母の妹という人が、棺にとりすがって号泣していた。父も泣いていた。皆が祖母の死を惜しんでいた。

そんなこんなで、私が就職したかしないかくらいの頃だろうか。
更にじいさんが亡くなったという知らせを母から受けた。

末期の肺がんだった。
ヘビースモーカーだったじいさんの肺は真っ黒だったそうだ。
祖母が亡くなった後急速に元気がなくなっていたらしいので、気力が落ちたせいもあるのだろうか。
「のたうち回って死んだらしいよ」と何の感慨もない声で母は告げた。

じいさんに積年の恨みを持っている母は、断固として介護拒否を行っていた。
仕方が無いので父と兄である叔父が、主にじいさんの面倒を見たようだ。

そして、じいさんの葬式には誰も来なかった。
祖母の葬式の時に押しかけて財産をぶんどろうとしていた強欲なじいさんの兄弟も、誰一人として訪れなかったそうだ。
おそらく、じいさんには何もなかったのだろう。全て祖母が築き上げた財産だったのだから。
家族の生活を犠牲にしてまで捧げた飲み代も、全部無駄だった。おごってもらった人達はじいさんにご馳走になったことなんて、もう覚えていないだろう。

息子二人に見送られ、じいさんは寂しくあの世に旅立ったそうだ。


じいさんの人生って、なんだったんだろうなあ。

友達もおらず、実の兄弟にも、息子にも、孫にも、猫にすら嫌われて。
きっと孤独だったのだろうなあ。

その時はぼんやりとそう思っただけだった。

・・・

そしてそれからさらに十数年後。
私は発達障害の診断を受けた。

色々と問題を抱えていたが、特に私は手先が酷く不器用で、力加減が上手く調節出来ない。カラーボックスを組み立てるためにネジを回していて、あらぬ方向に吹っ飛ばしたりする。

これも発達障害の一種と知って納得するとともに、あっ、と思った。
じいさんも、そうだったのではないか。

猫を撫でているつもりが叩いている。
わたあめを優しく差し出したつもりが、正拳尽きのごとく突き出している。

それは、力のコントロールが思うように出来なかったせいではないのか。

おごってお酒を飲ませてなんとか仲良くしてもらわないといけなかったのも、発達障害ゆえのコミュニケーション能力の欠如からではないのか。

モゴモゴしてうまく喋れないのは、自分の感情を言語化するノウハウが育っていなかったからではないのか。そもそも話し声が聞き取りやすいよう口をうまく動かす力もなかったのではないのか。

そういえば父にもそういうところがある。私にもだ。私も父も、嫌になるほどじいさんに似ている。

思い当たるふしは山のようにあるけれど、大正生まれのじいさんに何が出来ただろう。

発達障害なんて概念はここ十数年で出てきたものだ。じいさんのあらゆる生まれついての欠陥は「性格」「努力不足」として片付けられていたと推測される。

じいさんの名前には「三」がついている。昔の人にしては良い名前だと思っていたが、「三」というのはきっと三番目に生まれた子供で、長男ではなかったのだろう。
時代背景からして良い扱いは受けていなかったと察せられる。

祖母同様、貧しかったじいさんがまともな教育なんて受けているはずもない。字が読めたかも怪しい。
手先が不器用なのに大工なんてやっていたら、怒られてばかりだったのではないか。私同様運動能力にも問題があったかもしれない。軍隊でどんな目に遭っていたのだろうか。

「こんな性格だから仕方ない」「貧しいのだから仕方ない」「努力が足りないのだから仕方ない」

そんな風に、あらゆる事を諦めていったのではないか。

じいさんは誰かに愛されたかったのかもしれない。けれど、愛し方が分からない人が何の見返りもなく愛されるほど他人も家族も慈愛に満ちてはいない。

考えれば考えるほど辛くなる。

じいさんがもっと遅くに生まれていて、きちんと療育を受けられていれば。
せめて知識を得られる環境であったなら。

じいさんはあんな寂しい最期を迎える事はなかったのではないだろうか。

相変わらずじいさんには何の思い入れもないし、同情出来るかというとまったく出来ない。発達障害だったからって何をしてもいいわけではない。周りに迷惑をかけまくったのは消えない事実だ。

けれど、年を重ねてじいさんの亡くなった年齢に近付きつつあるせいか、
そんな事を思う時間が増えた。

全ては想像でしかない。

じいさんが何を思って生きていたのかは、もう誰にも知る由がない。


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