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エンジンを、自分でかけるとこうなるのね

ヤマハ発動機出題の、エンジンのかかった瞬間というテーマでお送りいたします。過去のことを思い出しながら、私なりの「エンジンのかかった瞬間」をお送りいたします。

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元彼のうちの一人は、バイクが大好きだった。

私の亡くなった父の職場は、いわゆる交通ルール関係といえばで有名な職場の、事務を担当していた上に、実用的なこと以外にお金を使うのは好まなかった人物だった影響があり、私はたとえ生まれ変わってもバイクに乗ることはきっとないだろうと思うくらい自分にとっては無縁の物体だと思っていた。

二十代半ばまで。その頃は父はすでに他界していたが。

元彼とは彼のバイクの後ろに乗せてもらうこともなく、別れることになった。

説明の順序がまるで逆だが、付き合うかどうかの話の際、私のコメントは「付き合っていつか別れるようなことになったら死ぬほど悲しいのでお断りしたい」だった。そもそも家族との永遠の別れが重なり、その家族のうち一組のカップル(要は両親のこと)は片方がなくなった後に若い頃の恋愛事情を口にしだしたりその母(要するに私の祖母)は「はじめから結婚には反対だったのに、子供ができたから、、、」と23年前のことを昨日のことのように蒸し返すのだからわけがわからない。だいたい、母も危篤連絡を受けた後に配偶者に「悪い奥さんでごめんね」と言ったと、父には涙ながらに聞かされた私。

結婚、何なのよ。で、私がそのバイク好きな元彼と深い中になるかならないかというその年齢のとき、母はすでに3人の子持ちであった。結婚意識しないわけがない。

この元彼、何を隠そう私の(隠そう、って、ぶっちゃけてるが)、中学時代のあこがれの人でもあった。人前でひょうきんながらも人をまとめる力があり、頭のキレる愛嬌のある人だった。インターネット上で再開して、ひょんなご縁があり、成人してから、ただの仲の良い、地元に帰省したときだけの、飲み友達として数年過ごしていた。気が付くと、もしかすると、生涯の伴侶になるかもしれない立場に格上げされていたのだったが、家族に疲れ、仕事に疲れ、人間に疲れていた私は、盆と正月プラスα以外の飲み会で会う以上の関係になることは自分をさらけ出す必要があり、当時のメンタル的には耐えられないと思っていた。彼は彼で、東京の某所で高学歴をゲットしたものの、周囲の頭のよさに井の中の蛙を思い知らされたと同時に初めての挫折からの若気のいたりな話を聞かされたが、社会に疲れ、人間に疲れ、人恋しくなっていたようだった。

そのうちに彼の問いにイエスと言ったのも、何かの縁。物語はキチンと続きがある。

この元彼との付き合いは勿来の関以南(北関東)とみちのく、奥の細道の遠距離であり、仕事の忙しさやあちらの人間関係上の付き合い(合コン誘われてディズニーにいったと。良いですなあ。遠い目。)、趣味への考え方の相違(バイク新車に180万円て!)、私にとってはおそらくはこれが決定打であっただろう、新車バイク購入の話に良い顔をしなかった。結婚資金貯めてくれな心境であった。また、これには裏話があり、大学時代に付き合っていた彼女というのはバイク乗りであったそうだから、元彼からすれば「何、なぜだめなのよ」であったに違いない。

遠距離を良いことにますます距離を取られて最後にキチンと振られた私であった。

価値観の相違がほかにもいくつかあった。

当時2つ下の弟はニートと職安そして、職場をいったりきたりのグレーな引きこもりだった。精神科に行って「知的にみると(グレーな78だったか)通常の職場は難しいでしょう」という検査結果であった。じゃあなにか手立てありますかというと手立てどころか居場所もグレーだった。障碍者手帳申請できず。大人になってからは、経験がものをいい、ある程度の判断という名の自己主張もできてしまうので、イエス・ノーもはっきりしている。そんな弟の話題を、元彼は異国の人の話を聞くように、そして雰囲気的にも嫌がっているのは感じられた。頭の良い人はこうなのかとも考えたが、おそらく元彼は身近に、弱者が居た経験がない人だったのだろう。「大人だから本人次第」と。しかし私は本人次第だとしても、親族として実の弟を孤独死させる事態になってはたまらないと思った。参考書籍は「コンセント」著者田口ランディ氏。

ちなみに元彼のバイクのローンは、組まれていた。
いちおう、断っておくが他人なもの同士のローン、基本的に口出しの範疇にないと考える。しかしその前に彼の方から「結婚するなら」のキーワードがとびだしている。新年が明けて少し経った冬のある日、元彼と連絡がつかなくなった。
着信拒否、というか無視である。コールしかならない。
いい加減にしてくれ、生きてるのかどうかものすごく心配した。しかし心配と言いつつこれはもしかしたらフラッシュバックだったのかもしれない。親しい人に何かあった過去の自分が、悲しんでいるという。

どうしても会いたかったが元彼は
「もう、合わない方がいいと思う。」理由を聞くと、私を傷つけないようにするためか、遠回しに「戻ることはないから」ということを言われた。人は簡単に裏切るのか。
…もう恋愛はいい。やっぱりこうなった。どうして私ばっかり…などとは思わず、振られたのが悲しいのか、両親をみおくった時の悲しみをふさいだ分、今泣いているのか。(両親が他界したころは、泣いたら負ける、崩れると思って泣かなかった。)なんでこうなるんだろう?と、若干頭の中にクエスチョンマークが飛んでいた。

それにしても、生きているっていうのに、死別じゃなくても。こんなに悲しいことがあるんだなあ、と思った。そして、翌朝は、思い切り顔がお岩さんになっていた。初めて失恋で仕事を休んだ。もちろん理由は体調不良である。それにしても身体無茶苦茶だるかった。数日は、「寝たら、現実世界に行ける。起きている間は、夢なのだ」と言い聞かせて過ごしていた。
彼はいなくなったが仕事もあるし、体も丈夫だ。とりあえず日常を送ろうと、淡々と過ごした。
親が死んだときは泣けなかったが、彼氏に振られて泣いた。しかし、振られて泣いたのか、「こんな家族がなければ幸せになっていたのに」という理由だったのか。とにかく泣いた。しかし途中で「家族は変えられない。それをないものとして思考し後悔するのはばかげている」と私は気がついた。

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その頃の私の職場はブラック企業業界と言われ、いまでもブラックに違いないが、当時、自主的に残業記録をつけたら忙しい時期にはひと月平日で100時間超えた時期があった。残業だけでである。土日出勤もあることもあるので、計算するのをやめた。繰り返すが平日のみである。
暖かい季節になり、どうやら自分はこのままだと、職場と家の往復しかしないで年月をつみ重ねそうだということに気が付いた。たまに早く仕事が終わってもやることがない。そりゃそうだ。習慣が人を作る。仕事しかできなくなっていた。やばいよ。
そこで、荒療治にでた。
自宅から2キロのところに、バイクの免許が取得できる教習所があった。そこに通うことにした。思い付きである。でも、もしかしたら「治療」したかったのかもしれない。
父親の価値観を外せ。
元彼をいつまでも見上げるな。見下せ。…見下す必要はないのかもしれないが自分に発破をかけるため。
私の人生、エンジンを、本気でかけた瞬間があるとしたら、絶対この時だ。

それくらい価値観180度回転させたと思っている。
他の免許所持者からすれば、なんのことはないかもしれないが。

初めて教官の後ろに乗せて教習所のコースをまわる日、泣くかと思った。
「元彼の後ろには乗れなかったが教習所で乗っている…」感慨深かった。しかしそれも、早く終了した。坂道で教官がエンストこいたのだ。思ったより重くてごめんなさいね。

結局、2,3時間オーバーしつつも免許は無事取得した。そして、「私は一括で買ってやる!!」と奮起した。バイク店も見て回った。…どれを買っていいかわからなかった。でも、買うと決めていた。なぜなら、買わないと乗れないからだ。試乗会にも行った。スポーツランドSUGOというところで、モータースポーツの試合会場にもなるおそらくはスゴイ場所である。
そこで私は免許を取ってから初めてバイクをまたいだ。
エンストした。後ろの人に迷惑をかけた。恥ずかしかった。
しかし、それでもやはりバイクを買うことにした。
本を買い、ネットで探しまくり、ゼロから調べた。

自分で納得して選んだ
運命の1台。
ガソリンタンクのカラーは
クリームがかったホワイトをベースにブルーのアクセント。
ビラーゴ250。美しかった。
Viragoとは、「じゃじゃ馬娘」「口やかましい女」「お転婆娘」
であるらしい。
Virgo=おとめ座とは1字違いだが読みはヴァルゴとかヴィルゴというらしく
おとめ座生まれの私にとって、これ以外の選択肢はもはやなかったのである。堅実なおとめ座らしく、中古車とした。
ああもう、この子と一緒に、素敵な時間を過ごせるのねと思うとドキドキした。その後しばらくの間、一人ツーリングを実行する。バイク友がいなかった。それに、バイク友がいたところで、残業100時間となると天気も見据えて時間を合わせることは、ほぼ不可能である。じゃじゃ馬な相棒ができただけで生活に潤いが生まれた。少し煙たく埃っぽいうるおいだが。

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元彼はホンダ乗りだった。速い飛ばせるやつが好みだといっていたなあ。私は、速いの乗ったら事故る自信があったというか乗りこなせる自信がなかったので、アメリカンでゆっくり乗ろうというのを決めていた。ホンダのアメリカンはデカすぎて置き場的にも無理だった。無理だったのである。
時々はその元彼のことを思い出しつつ、ビラーゴに、バイクに乗ることもあった。
そのうち、また彼氏ができた。今度は、バイク乗りだ。
元彼のおかげというか暴露療法的な失恋の埋め合わせのために次はバイクの有無は関係なくなった。
今度は嫌な感じがしなかった。これは、自分がやってみないと、経験してみないとわからない種類の感覚だった。

バイクに詳しい彼。すごいねえ、何台持っているのと尋ねた時、2台と返事が返ってきた。
そして気まずそうに「すぐ走れるのは」と言った。
すぐ走れないバイクってあるのかと思った。よくわからないのでとりあえず話を流した。
「ふーん」まあいいや、仲良くなったらメンテナンスお願いできるかも、なんて。
初めて一緒にツーリングに行った。
顔がほころんだのは私。
一緒に来たのは青いヤマハのバイクだったからだ。
意図せずバイクがお揃いだった。こっそりうれしかった。
少ししてから分かったが、この彼はバイクをたくさん持っていた。
そして、すぐ走れるバイク、組み立ててあるバイクは2台、今あって、
あとはばらしてあり、組み立てると全部で7台くらいになると言われた。
4台でも7台でももはや違いはなさそうだ。
彼の職業はエンジニアだった。
(なるほど、今思うと、エンジンがなりわいに入っている…。そりゃエンジンたくさん持ってる…)

バイクが無茶苦茶スキらしかった。

さて、元彼、バイク好きな彼の話もここでおしまい。

次は旦那の話。
旦那もバイクが大好きで…なんて、
バイク好きな彼は、バイク好きな旦那になった。

なんということか、
出会う前に買っていたお互いの持ち物のうち、
バイクの他には
ノートパソコンがソニーのVAIOであったり、しかも同じ機種のランク違い
スキー板がメーカーと色がお揃いのドイツ製という
何の因果??と思うような不思議な現象、偶然の一致があった。
上記のそれらを選ぶとき、私はめちゃくちゃ悩んだことを覚えている。
安いかどうかよりも性能や用途に見合っているかを重視して
そのものを、理解しようとした。 

なんだかわからないけれど、これじゃなくちゃいやだ
という感覚で選んだモノたちだった。

ホンダ乗りの元彼に振られて感謝している。

自分というエンジンを、自分で思いっきり回してみれば
自分の人生、なにがあってもきっと乗りこなせる。