幸福度について思う事。
「楽しく暮らす人を増やす」という目的の合同会社ハハハをやっていたり、
「健康に暮らす人を増やす」という目的の合同会社フフフを始めたりしていると、最近よく耳にする「幸福度」とか「well-being」という単語たちをどう取り扱うのか、問われている気になる。
「うーむ。なんだかなー」とやっぱり唸る気持ちになってしまうので、今日はこの辺りについて思うことを残しておきたい。
今日の言いたいことは、
なんでわざわざ幸福度を数値化して測ったり、国別のランキングを付けたりする必要があるんだろう?
ということに尽きる。
そもそも「幸福」という単語が自分は苦手だ。使いこなせる気がしない。日常会話でも「幸福」なんて言葉は使わないし、文章にも「幸福」なんて単語を書くこともない。
ギリギリ「幸せだなー」とふと漏らす瞬間があるくらいで。なので、せめて「幸せ」だったら感覚はまだ取り扱いやすい気もする。
みんなも同じような感覚を持っているんじゃないかという気がしているのに、なんですんなり「幸福」なんて言葉を受け止められるんだろう。
ただ、今回言わんとしていることは「幸福」じゃなくて「幸せ」だったらいいという言葉尻の問題ではない。
「幸福」も「幸せ」も、どちらも主観的に感じる感情を取り扱っている。
主観である以上、「わたし」の感じている幸福と「あなた」の感じている幸福は決して同じものであることはない。
育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めないはず。つまり夏がダメだったりセロリが好きだったりする以上、同じ項目で評価することもできないし、その度合いを他の人と比較することもできないのではないか。そんな風に感じてしまう。
そんな感覚でいるので、毎年ランキングが発表される「幸福度ランキング」で日本が下位にいる!とワーワー騒ぐ方々がいるのがとても残念に感じていたりする。ランキングで騒ぐ必要なんてある?
「World Happiness Report」による世界幸福度ランキングは以下の項目を中心に計測されているらしい。
ヨーロッパの観点でまとめられるが故、彼らの価値観を大いに反映して項目が選択されている。なので、日本は健康寿命は世界一なものの、人生の選択の自由度と寛容さが低いため、ランキングは下位となっているらしい。
もうランキングは本当にどうでも良い。
幸福を数値化して上がった下がったとその結果に一喜一憂するものではない。自分と他人、自国と他国を比較するものではないし、ランキングを付けるものでもない。
自分が幸せと感じたら幸せという、主観的で瞬間的なものとして取り扱った方がいいと思う。
いつからか、ロジカル旺盛な世の中にシフトして、何でも数値化していこうという流れが起きてしまった。その流れの中で何でも計測して数字にし、客観的に把握しようと捉えられるように世の中が動いている感じがする。
もちろん数値化の全てを否定するわけではない。
ただ、「幸せ」みたいな人間の感覚的な部分にまでそういったものを潜り込ませることが、人の感覚を鈍くさせている気がする。
心と身体が何を感じているのか、じっと耳を澄ませているような、そんなスタンスを取っていたい。
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