ケチャップが嫌いである

自分の嫌いという気持ちについて、あまり深入りすることがなかった。好きなものを探求し、嫌いなものは関わらない方がだいたいうまくいくのだ。嫌いなものは嫌いだと思った瞬間から距離を置く生活をしていた。

たとえばケチャップ。ケチャップが昔からどうも嫌いである。独特の甘さ、トマトです〜という顔をしながらもトマトから野生を全て奪い取ったような角の立たない味、食べるたびに「ワイはトマトが食べたいんじゃ!」という気持ちを彷彿とさせてくるのだ。

たとえばチキンライス。チキンと名乗るからにはチキン味であれ。なぜあれはケチャップ味のライスの癖してチキンの仮面を被っているのだ。チキン味のライスは、チキンとご飯が好きな人間ならだいたい好きな味であってくれ。名前を見てワクワクしたところに突然現れるあのケチャップの勢いはなんなんだ?

たとえばオムライス。いや、オムライスは好きだ。ただし私にとっては難関が二つあるのだ。一つは上にかかるものがなんであるか。もう一つは中に入るものがなんであるか。ここまでくれば容易いと思うが、ケチャップのかかったオムライスが好きではない。そしてライス部分がチキンライスのオムライスが好きではない。この二つの条件をクリアしないと私はオムライスを進んで食べたいとは思えないのだ。

食に関しては誰の迷惑にもならず、ただ自分の好き嫌いを無責任に言うことができる。私がいつかケチャップを好きになろうが、このまま嫌いであろうが誰も知ったこっちゃないのだ。無責任って、最高!

つまりこの好き/嫌いという感情は、私だけのもので、私が100%ジャッジできるものなのだ。私にとってケチャップは、考えるまでもなく「嫌い」なのだ。


だが最近、ある「嫌」という感情が自分の中に現れた。しかもこれは考えれば考えるほど、自分だけのものではなく、社会のもろもろやそれを好きな人、色々なものが絡み合って生じる問題であった。

ケチャップと違って、無責任に批判はできないなと思う。

しかし、私の抱いた「嫌」という感情は胸中に封じ込めておかねばならぬものでもないのではないかなと思う。そしてその感情は「嫌いだから嫌い」という理由で説明するのではよろしくなく、なぜ嫌いなのかを順を追って考えなければならない。

なんでケチャップをタイトルにしたかといえば、同居人に「トマトパスタ作るよ〜」と言っておきながら家にトマト缶がなかったからである。結局適当な味付けの和風パスタになった。

味覚は自分だけのものなので、すごく安心している。他者と共有するのがめんどくさいなと思うこともある。私だけか?

また1記事書けた。これからも続けられるだろうか、頑張ろ〜。


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