日記 22.3.26 土

近所の喫茶店に行くと、いつもいる爺さんが、コーヒーを持って、席を移動してくる。名前も知らない爺さんだが、おれは彼にとっての友達らしい。爺さんが何か話して、おれは適当に相槌を打つ。
やたらとやくざの話をしたがる一般人というのがいるが、爺さんがそれだ。もう引退したが、若い頃は組関係の関係者だったという。「組関係の関係者」という言い回しが味わい深い。よく考えると「無関係」ってことか。

喫茶店からの帰り道、降り始めの雨粒が額に当たる。雨の降り始め、ゲット。

手に持ったスマホを探す。最近よくスマホを手に持ったまま失くして慌てる。これからこんなことが増えていくはずだ。
自分に驚く。子どもの頃は日々成長するから毎日自分に驚いていた。大人になってそんなこともなくなったが、老化していくというのは、またその激しい変化のなかに入っていくことなのかもしれない。

好きな人と、すこしLINEする。その内容とは直接関係ないが、ふと思う、おれは、軽い人間だ。
ただおれの軽さというのは、関係が近い人にとっては、重いと感じられるのかもしれない。
ミラン・クンデラの小説に『存在の耐えられない軽さ』というタイトルがあったが、おれは耐えられてしまう、自分の軽さに。

自分の人生を生きることは、誰にとっても綱渡りのようなものなのかもしれない。おれにとってもそうだ。おれが渡っている綱はものすごく高いところに張られている。いつから、こんな高所にいるんだろう。
いや、ほかの人のことは知らないから比較はできないが、おれにとって、おれの歩いている綱は、ものすごく高い。
なんだよ、おれは、高所恐怖症なのに。風、吹くな。

今、不倫している女性のうちのひとりが妻と同じ名前で、名前を呼ぶと妻が連想される。苗字で呼ぶのもぶっきらぼうだ。それで、フルネームで呼ぶことにした。「なんか、変じゃない?」「なんか、変だな」

独楽をもらう。机の上で回してみる。意外なほど楽しい。澁澤龍彦があるエッセイに「屈託すると、独楽を回してみる」と書いていた。同じ文章の中で「独楽は、『独り楽しむ』という文字もいい」と書かれていたような気もする。独楽を回す人間が「独り楽しむ」のではなく、独楽自身が、自分軸を中心にしてくるくる回って「独り楽しんでいる」ような気がする。

「独楽、楽しいね」「楽しいね」「今度、凧、揚げにいこうか」「うん、行こう。海に向かって揚げるといいよ」「いいね」

おれは、人といるとき、しきりに「ああ、気持ちいい」と言うらしい。この間、同居人のSさんに指摘された。「Mの口癖だな。おまえがあんまり『気持ちいい』っていうから、暗示にかかってだんだん気持ちよくなってくる」今日もやたらと「気持ちいい、気持ちいい」と言っていたみたいだ。「そういえば、セックスのときはべつとして、日常であんまり『気持ちいい』って言う人いないよね」


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