「私」とは「身体を乗りこなす騎手」である

1.「私」とは「身体を乗りこなす騎手」である

何をやるにも「私が私の意志でやっている」と思い込むと充分なパフォーマンスが発揮できない。疲れやすくなる。さらに間違うことが多くなる。なぜか。
簡単だ。「私」という奴がしょうもないからだ。どうしようもない視野狭窄。不平不満、不安に満ちて冷静な判断ができない。
おれは、重要な判断をするとき、「私」などというしょうもない奴のことは放っておく。心身の片隅に追いやっておく。
さて、しかし「私」が頼りにならないとなると、「誰」に頼ればいいのか。「身体」である。

何かを成そうとするとき、「私がやる」と思うと、意識が強張って張って疲れてしまう。
おれはいつも、その何かに「身体を向ける」とイメージするようにしている。

「私がやる」のではない。「私」は「身体の手綱を握る」のだ。
「私がやる」と思うと意識が張りつめるが、「私は身体の手綱を握るだけ」とイメージすると、むしろ意識は緩んでいく。
乗馬の要領だ。意識は弛緩しつつ、「馬」からのフィードバックに対する集中力は高まっている。この状態を維持することが、何かを成すために最も高いパフォーマンスを発揮できるのである。
「強い意志を持つ」というとき、多くの人は、意識を張り詰めることで身体の多様な要求を抑え込むことだと思っている。
それでは疲れるだけだし、たいしたことはできはしない。
「意志する」とは、意識による身体の抑圧ではなく、身体の諸要求に方向を与え、協働的に作動させることなのである。

さて、「馬」を乗りこなすには、「乗馬法」を覚えなくてはならない。「身体」もまた、人間社会において「方向づける」ためには、そのコツを覚える必要がある。
「私がやる」とは「私が主体として自由意志を持っている」と錯覚することだ。「身体を乗りこなす」とはこうした「妄想的な自我肥大」を抑制し、「私」に相応しい役割を与えてやることを意味する。「私」に相応しい役割とは、つまり「身体を乗りこなす騎手」としての役割だ。

ごく日常的な場面から、「身体を乗りこなす」実例を挙げてみよう。
例えば、朝起きて今日やるべき仕事が山積している、という状態を想像してみる。
「私」に任せておくと、「私」は焦燥にかられ、すぐにでも仕事を始めようとすることだろう。仕事に着手しても、「大丈夫かな」という「無駄な未来予測」、「どうしてもっと早くやっておかなかったんだろう」という「無駄な後悔」に苛まれ、なかなか集中することができない。
そんなときは、はやる心を一旦保留して、まずお茶をいれ、リラックスして、身体への集中力を高めていくのである。
その状態で仕事の段取りをイメージすると、「私」が考えているのではなく、あたかも仕事の段取りがオートマティックに組み上がっていくかのようなモードになる。
簡単に言えば、仕事に集中しているモードになる。集中するためには、まずリラックスしなければならない、という基本的な身体の生理を、焦る「私」が忘れてしまっている。まず、そのことを思い出すために、「お茶を飲む」のである。もちろん、「お茶」じゃなくても、「煙草を一服」でも「深呼吸」でもいい。
「私」に急かされて、いきなりアクセルを踏み込んでも、エンジンをふかすだけだ。まず一杯のお茶を飲むことも仕事のうちである。走り始めたら、交通状況を読みつつ、慎重に速度を上げ、高速に乗ったら一気に突っ走る。
「身体」は固有のリズム、時間を持っている。「私」は、抽象的な空間のなかで、リズムー時間を捨象して考える癖をもつが、身体はつねにリズムー時間とともに現れていることを忘れてはいけない。

2.リラックスして意識を「身体」に向ける

「私」が「身体を乗りこなす」とは、つまり意識を外界や他者に向けるのではなく、いったん身体に向けるという態度を取るということだ。
それが難しく感じられるとすれば、それは「外界や他者という脅威」に対して、無防備になってしまうと感じられるからである。
リラックスするためには、無防備になっても安心していられる安全性が担保されている必要がある。

「私」とは、そもそも外界や他者への防衛機制としての役割をもつ。
言わばセンサーのようなものだ。外界や他者の脅威に対抗するために、未来に不安を覚え、様々なタイムスケールで予測的なシミュレーションを作動させる。
つまり、「私」とは「不安に思うこと=安心しないこと」をその役割とする防衛機制なのである。

この防衛機制は、本来、危機のセンサーとして必要なものだが、人が外界や他者の脅威を過度に見積もることで、言わば「暴走」してしまう。
「私」が「主体」という過分な地位を獲得することで、外界や他者は、妄想的な脅威として形成され、人は過剰に防衛的な態度を取らねばならないという気分に駆り立てられる。
特に、人前に出たり、仕事にかかっているとき、リラックスできなくなってしまう。病的になると、親しい人といるときや、ひとりでいるときにすら、リラックスの仕方を忘れてしまうのである。

リラックスして、「私」を外界や他者から、自分の身体へと向けなおすこと。そのためには、身体からのアプローチと、「私」からのアプローチの二つの方向が考えられるだろう。

「私」からのアプローチとは、つまり、人間関係において、身近な人との間で相互に「安心」を与え合うコミュニケーションを覚えていくということである。
身近な人といて、「緊張が解けない」「心が通わない」環境にいると、「私」という防衛機制は過度に強められ、度を越せば暴走し始める。
人間関係がこじれてしまっているなら、その人間関係を修復するか、それも難しければ解消する、或いは“別の関係性のなかで”緊張を解除することを覚えていくしかない。

「身体」からのアプローチとは、先に例を挙げたような「お茶を飲むこと」、例えば散歩に出る、海や山に行く、ストレッチやヨガ、スポーツをする、犬や猫とじゃれ合う、楽器を練習する、絵を描く、陶芸をする、何でもいいが、言わば強制的に身体に意識を向けざるを得ないような状況を作り出すということだ。そのとき「私」は、身体の生理、そのリズムー時間に向けられざるを得なくなる。

「私」から、強張った主体の地位を剥奪し、新たに「身体の騎手」としての役割を与えること、換言すれば、「リラックスしつつ集中するというモード」を覚えるということ。
これは、闘争的な人間関係から対話的な人間関係に移行するということでもあり、同時に身体感覚を錬成していくという広義の「修行」の問題でもある。とても拡張性の高い問題系なので、多様な切り口から何度も反復的に書いていきたい。

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