夢を見ている彼は決して考えようとはしない。存在しようとするのだ。

1.一切の主体が考えようとはせず、存在しようとする

塚本昌則『目覚めたまま見る夢 20世紀フランス文学序説』(岩波書店)に添いつつ、夢と思考と存在の関係を追っていく。

ヴァレリーは、夢を見ているとき、私と事物は等しくなる、と書く。それは、考えることと存在することの間の区別がなくなるということでもある。
考えることが事物を生みだし、その事物が私に働きかけ、私のあり方を根源的に変えてしまう。

ヴァレリーは「夢を見ている彼は決して考えようとはしない。存在しようとするのだ」と書いている。
塚本は、この夢における「私=事物の体系」という視点について、さらにフーコーの論説を引用する。
フーコーは、夢の中の一人称は特定の誰かではなく、視界に現れるもの全てである、と説く。

夢の主体とは、<私>と言っている人物のことではなく、実際には夢全体、夢内容のすべてをふくんだ全体のことなのだ。
夢のなかではあらゆるものが<私>と言う、物や獣たちでさえ、空虚な空間、幻想をみたす遠く奇妙な物たちでさえそうだ。
〜ミシェル・フーコー

夢の世界は、「一切の事物が思考を分有する主体として語り始める魔術的世界」であり、「一切の主体が考えようとはせず、存在しようとする実在論的世界」である。

2.ヴァレリーの「方法」/思考=存在

さて、しかし、この「思考=存在」のあり方は、夢見に特有のものだろうか。覚醒時の「思考」においても、少なくともその原基には、この「思考=存在」が作動しているのではないか。
むしろ、「思考=存在」の「魔術的世界」がデフォルトなのであり、覚醒時の、主客が分離された世界、「存在=思考」が再帰的に主体に回収されることで、「存在」と「思考」に断裂した世界こそが、ある意味ではフィクショナルなものではないか。

覚醒時の「現実」が如何にフィクショナルなものか。
例えば、再帰性の主体として位置づけられる「意識」は、一見連続した流れを保ち続けているかに見えるが、その連続性は見せかけにすぎない。覚醒した意識と睡眠下の意識は、画然と区別されているわけではない。
日常生活の至る所に覚醒と睡眠の「境界領域」が存在し、じつのところ、人は自分でも気づかないうちに、しばしば「目覚めながら夢を見ている」のである。

一瞬ごとに、われわれは夢を見ている。というよりもむしろ、どんなわずかな一瞥からでもーどんなわずかな予期されない感覚からでも、夢は形成されるのだ。ただちに一種の作り事がわれわれのなかを駆け巡るのだが、それはあまりに素早く、あまりに虚しいものであるために、その作りごとは生まれるやいなや、まるでかすかな火矢のようにー水面を走る波のようにーただちに消滅する。それが通過する際、錯綜体をなしているような火薬庫に火を放たない限りは。
ポール・ヴァレリー

実際は、覚醒時の思考であっても、夢と同じ「自律するイメージの作動」に身を幾分か“明け渡す”ことでしか、駆動されないのである。

さて、だとすれば、如何にして明晰さを保ったまま夢を見ることができるのか。この問いは、覚醒時に即座に恒常的に働いてしまう再帰性の抑圧を、如何に解除すればいいのか、と深められることになるだろう。
ヴァレリーによれば、この再帰性の作動、つまり「現実が現実であるという感覚」は、身体を参照軸とすることで成り立っている。

一回ごとに違う状況ではなく、あくまでも同じ世界を「再び見出す」ため、「なにかしら同一のもの、不変のものーあるいはそう思われるもの」が存在しなければならない。心的活動によって変質しない、恒常的な参照物が存在しなければ、何かある対象を見出そうとしても、そのたびに対象は変質してしまうだろう。覚醒時とはつねに「参照物と突き合わせをしている状態」でもあるのだ。
ポール・ヴァレリー

したがって、夢を見るためには、身体を、その参照軸としての機序を、一旦解除する必要がある。実際、眠りのなかでは身体がその諸特性を失い、≪液体状≫になっていて、同じ事象を「再び見出す」ための足場ではなくなっている。
つまり「眠り」とは、身体という参照体系との不断の突き合わせの「切迫」がなくなり、身体が≪液状化≫する事態であるということだ。
≪液状化≫した身体とは、イメージがその本来の自律性を回復する溶媒として機能する身体である。

植島啓司は、その聖地論で、宗教の根源には「いのる」より以前に「こもる」ということがあったのではないか、と論じている。この「こもる」ということもまた、外界を遮断して、身体を≪液体状≫にする仕儀ということになろう。

明晰さを保ったまま夢を見るとき、つまり絶え間ない主体化の切迫を抑え、イメージの自律性に身を委ねるようにして思考するとき、時空の枠はその効力を失う。時間と空間は座標系としての参照体系ではなくなる。つまり時間は瞬間でしかなく、起こることは一切が一回性のものとなる。

ひとが瞬間と呼ぶ時間は、単に短い時間というだけでなく、その時には現実と思えたことが、後になるとどうしても再現できなくなるような、ある強度を備えた時間のことである。
眠りのなかで、意識は「自分が出発した地点を探している」が、その地点を「再び見出す」ことができない。(…)
恒常的な参照体系が存在しないために、自分が現在どのような地点にいるのか計測することができないのだ。
塚本昌則

覚醒している意識は、凡ゆるイメージや刺激を、身体感覚という参照体系と不断に突き合わせることによって成り立っている。そうだとすれば、その条件を反転することで、明晰なまま夢を見ることができる。ヴァレリーの「方法」とは、つまり、この「明晰夢の思考」を招来する方法論だったと言いえる。

3.プルーストの「方法」/頼りない「私」

プルーストもまた、覚醒時の「私」の不確かさを敢えて際立たせることで、その自明性の呪縛を解除しようとする。
具体的にプルーストが取った方法は、『失われた時』の語り手=主人公を、「一定の時期が過ぎると別人のように変わる人物」として描くというものだった。

ある時期が来ると、語り手はまったくの別人となり、それまで苦しんでいることにもはや悩まない人間になる。
一人の女性への愛情は、あくまでもその相手が自分のうちに引きおこしたものと思われるのだが、その感情の真実がある時決定的に失われてしまう。すると特定の女性に注がれていたはずの感情が、今度は別の相手に振りむけられる。
塚本昌則

ベンヤミンは、この不実であやふやな語り手を、「陳列用の偽物の自我」と呼ぶ。
プルーストは、「偽物の自我」によって語ることを選んだというのだが、しかし「物語」を支えるだけの一貫性を持たない自我を「偽物」と言うのであれば、そもそも我々の「自我」は一切「偽物」である。
プルーストは、「現実」を支えるはずの自我を、そのような頼りないものとして描くことで、「現実」があやふやなものでしかないことを暴き、覚醒よりもさらに深い覚醒としての「夢」の実在性へと降りていく。
その場合の「夢」は、もはやいわゆる「夢」ではない。一切の事物が、どんな主体にも再帰的に回収されることのない、言わばイメージ一元論的な事事無碍の世界像とでもいうべきものとなる。

4.一元論的思考

直観は主として非常に複雑な性質をもった無意識的な過程に基づいている。この固有の性質をもつため、私は直観を「無意識を経由する知覚」と定義した。
C・G・ユング

直観や夢は、「数千年の単位で生きている」無意識による理性とは別様の状況判断の様態である。

無意識の協力は賢明で目的にかなっており、たとえ意識と反対の態度をとっているときでも、その表現はいつでも聡明なほどに補償的であり、まるで失われた平衡をふたたび回復しようとしているかのようである。
C・G・ユング

古代、政治的な決定において卜占や夢見を重要視したのは、けっして「未開性」による迷妄ではなく、むしろ、共同体の命運を「共同体より古い無意識の智慧」に委ねるという意味で、近代的な合理性よりずっと確実な基盤をもつものだった。

これは古代のシステマチックな占術の話にとどまる話ではない。現代においても、例えば人生において重要な決断を下すときは、考え抜いたうえで、あるときその合理的な思考を手放して、直観の動くままに任せる、という方法論が有効になる。
夢を頼りにしてもよい。その方が、より包括的な判断ができるはずだ。思考の突き詰めと、その表裏としての思考の放棄、その按配を習得せばねばならない。

あるいは、集中力とは、一定時間、ある種の夢見の状態から覚めないでいる力と言えるかもしれない。夢を見続ける力=集中力。
集中力を持続させるには、「私」の介入を阻止せねばならない。「私」とは神経症的な「不安の抑圧」のことだ、と捉えてみる。「私」の介入を退けるには、「不安」に侵食されない「結界」を張ればよい。

空間と時間に「結界」を張る「個人的な儀式」を開発すべきである。
雑事が溜まっている、仕事の〆切が迫っている、心配なイベントが控えている、どうにも落ち着かない。
そんなときでも、例えば、一時間なら一時間、時間と空間を、「私」から切り離して、集中力を発揮することはできる。
私の場合、まず、行きつけの喫茶店に行って、コーヒーを頼む。ヘッドフォンでバッハをかける。コーヒーの香りとバッハの楽曲が、「私」から離脱する結界の役目を果たす。そうしておもむろに一冊の本を取り出して、読書に没頭するのである。
「私」から解放される、ある三昧境に入る、忙しいときほど、心がけた方がよい。日々、植木に水をやるように、魂に夢を与えるのである。

5.「表現」とは一元論的思考である

表現とはある「場」において自らを媒質として作動させるということだ。「私」が表現するのではない。「私」は「場」に憑かれ従うのだ。
「場」とは、人や物や概念や言葉や出来事が、ある結びつきの濃度をもって、磁力のような力が発生している時空のことを言う。
「私」が行うことは、その「場」に至るまでの段取りをたどることでしかない。天才とは、いついかなるときも、即座に、その「場」に赴くことのできる者のことを言うのだろう。

人は、主体意識を変えること、つまり自らを中心にするのではなく、「私」を多様なアクターのひとつとして捉えることを通して、その「場」に参入する立場を獲得する。
逆から見れば、人が「私」を多様なアクターのひとつとして捉えることで「場」が生成される。
ごくシンプルなことだ。私を世界の中心から外して、諸物との相互作用のなかに置き直すこと、それだけでよい。
私を世界の中心としてメタ化するのではなく、私と諸物の相互作用を「メタ認知」するのである。
「私と諸物の相互作用をメタ認知する」というのは、夢見に近い意識状態だ。
夢に現れるイメージは自律性を持っていて、任意の制御は効かない。
だが、夢を見ているというのは、ただ受動的な状態でもない。私の実践に応じて諸要素の布置が変わり、そのことで私自身も変容する。つまり、あらゆる表現とは、明晰さの極みにおいて、夢を見続けるということなのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?