二種類の孤独

二種類の孤独がある。寂しい孤独と華やかな孤独。膠着する孤独と創造的な孤独。閉回路としての孤独と、開放系としての孤独。自分自身に閉じ込められた孤独と、時空を超えて万物に開かれた孤独。アトムとしての孤独と、モナドとしての孤独。
ここに書きつけられているのは、その後者、「華やかな」「創造的な」「開放系の」「時空を超えて万物に開かれた」「モナドとしての」孤独をめぐる断想である。

1.<社会>と<私>からのドロップアウト -ヘンリー・D・ソローに倣って

孤独になるためには、現在から逃れなければならない。私自身にも近寄らないようにすることだ。
ヘンリー・D・ソロー

孤独とは、一般にそう思われているように、「<社会(他者)>から切り離された<私>への執着」ではない。真の孤独者は、<私>からも切り離されている。
真の孤独者は、社会の騒めきとは無縁になるが、その代わり、彼/女の世界は、ソローが残した文学からも明らかなように、<野生>の響きに満たされ、絶え間なく賑やかに、歓びと畏れに晒されることになる。

おそらくもっとも驚嘆すべき、なによりも真正な事実は、けっして人から人へと伝えられることはないであろう。私の日常生活がもたらす真の収穫は、朝や夕暮れの色合いと同じように、触れることも言葉であらわすこともできない。いわば捕らえられた小さな星屑、つかみとった虹のひとかけらである。
ヘンリー・D・ソロー

ヒトもまた肉体において生きる者である限り、<野生>において孤独に立つ存在物であることに変わりはない。
他者との関係、二項関係において言葉がインフレーションを起こす、その閉塞から脱すること。端的に、ドロップアウトしてしまうこと。そこに身体が<野生>と触れ合う領域が開く。

世のなかには無数の神秘があるだろう。だが自然にさらされたわれわれの生命そのものこそ神秘だー日々、物質にさらされ、物質と接触している生ー岩、木々、頰を撫でてゆく風!堅固な大地!このいまという世界!本能的感覚!接触!接触!私たちは誰なのか。私たちはどこにいるのか。
ヘンリー・D・ソロー

ソローの言葉は、常に<野生>に開かれ、その寡黙に牽引されて紡がれる。<野生>は、自律的な秩序を有しており、猫や鳥や星と「模倣する≒交わる≒変身する」ことで、その秩序を識ることができる。「空が鳥という身体を得る」…自然はそのように秩序を実現する。

砂そのもののなかに、植物の葉の出現が予感されているのである。大地が、内部にそうした理念をはらみ、精を出して働いている以上、外部において葉のなかに自己を表現しようとするのは少しも驚きではない。
ヘンリー・D・ソロー

例えば、あなたが寂しいのだとする。毎日何か物足りないのだとする。
ひとりでいるからだ、誰かが傍にいれば寂しさは消え、安心感に満たされるだろう、あなたはそう考え、共同性を夢見るようになる。
だが、そうではない。近代社会が用意する「物語」にそそのかされてはならない。近代社会が用意する「物語」はあなたを寂しさ、物足りなさから解放することはない。むしろあなたが寂しい、物足りないと感じている方が近代社会にとっては都合がいい。あなたは死ぬまで収奪されるだけのことである。

いいだろうか、あなたが抱える本当の問題は「ひとりでいること」ではなく「空虚」なのだ。あなたが考えるべきは、「寂しい」「膠着した」「自分自身に閉じ込められた」「アトム」としての「閉回路」を、どのように「華やかな」「創造的な」「時空を超えて万物に開かれた」「モナド」としての「開放系」へと転回したらいいか、そのことなのである。

空虚は近代社会が供給する「共同性の物語」などに満たされることはない。むしろ社会的文脈を欠いた、高純度の何かだけがあなたの空虚を満たす。その「社会的文脈を欠いた高純度の何か」を、<野生>とみなそう。<野生>において立つことだけが、寂しさや物足りなさを解消し、ある意味、非-人間的な幸福へと、あなたを解放する。
非-人間的な幸福の享楽においては、痛苦と快楽の区別はない、毒と美酒はグラデーションで溶け合っている。なぜなら、自然とはそうしたものだからだ。痛苦と快楽、恐怖と安らぎ、死と生、それらは対立する二項ではない、ひとつのものの二極であり、あなたは、つねにスペクトラムのどこかに生きることになる。

「事実に関する最も豊かな親密さ」(ウィリアム・ジェイムズ)に到達するためには、「あなたが思っているように存在しているものなど何一つないということに気付かなければならない」(ソロー)。
風が吹く、星が光る、蜥蜴が走る、トンボが浮かぶ、病気になる、死ぬ、生きる、こうしたすべてが、「あなたが思っているよう」には存在していない。<野生>に開かれた孤独者だけが、そうしたものが、現実にどのように存在しているのか、学び始める資格を得る。

時は私が釣り糸を垂れる小川にすぎない。私はそこで水を飲む。だが飲みながら砂底を見て、それがはなはだ浅いことを知る。薄っぺらな小川は流れ去り、あとには永遠が残る。私はもっと深く飲みたいのだ。川底に星の小石をちりばめた、あの大空で釣りがしたいのだ。
ヘンリー・D・ソロー

2.ロマン主義的孤独

バーバラ・Ⅿ・スタフォードはその理論的主著『ヴィジュアル・アナロジー』で<ロマン主義的孤独>を批判している。
<ロマン主義的孤独>とは、私が前段で書いた<「寂しい」「膠着した」「自分自身に閉じ込められた」「アトム」としての「閉回路」としての孤独>のことだが、そもそも人はなぜこうした孤独に追いやられるのか。
いや、追いやられているというより、そこには、積極的にそうした孤独を享楽したいという神経症的欲望が働いているのである。

スタフォードは、同著で<ロマン主義的孤独>は「アレゴリー」の作動に基づく、と論じている。そして、アレゴリー/アナロジーの二つの概念を対置することで、「閉回路」を「開放系」に解いていく理路を示しているのだが、ここでは、その詳細は追わない。その代り、重要な個所を二箇所引用しておく。

個々の現象を創造的に、試みに撚り合わせる営みとしてのアナロジーは(ロマン主義によって)、原子論的差異の称揚に取って代わられた。
架橋不能の二項対立という妄念(オブセッション)、そして物質と精神、二つの領域は克服不可能な距離に隔てられているとする頭ごなしの主張に取って代わられた。
このロマン派の過剰な懐疑精神を、その分裂病と偏執狂の交代劇さえもろともに引き継いだのがポストモダニズムである。この懐疑精神によると、主体には異質な経験同士比べる力がないか、あらゆる事象をそれらを神秘的に等価にしてしまう非合理なロジックを通して濾す力を欠いている。
バーバラ・Ⅿ・スタフォード
ロマン派最高の徳たる共感(sympathy)がアナロジーの対蹠物であったのは皮肉である。(…)(人であろうと物であろうと)破断された部分間のどんな「友情」も結局は表象不可能とするこのグループの考え方がいかにアレゴリカルな基盤によってたっているかということだった。
バーバラ・Ⅿ・スタフォード

文脈の要請に応じて、スタフォードの問題意識をパラフレーズしてみよう。
ここで言われていることは、ロマン主義的共感(sympathy)とは、超越論的な孤独者同士の強烈な相互依存である、ということだ。彼/女は、その「共感(sympathy)」をこそ、唯一真なるものと捉え、そのことで、「二項=私たち」を特権化して、そのことが多項間の<繋がり>を非-本質的なものとして切断してしまう。事物との<友情>を抑圧、或いは収奪する特権的な二項回路-その神経症的な閉域を脱するには、「破断された部分」間の「友情」を新たに創造、回復せねばならない。

例えば、恋愛の場面を想像してみよう。「この世から逃げ出して、ふたりきりの世界に落ちていく」という、そのパッション。ラブソングの定型でもあるが、ふたりの間でだけ、唯一互いの孤独が通じ合うという「物語」が語られることになる。
ロマン主義的共感(sympathy)の典型がここに見てとれるだろう。ここでは、情念(passion)が相互の孤独を媒介にして、依存的閉回路を無限に強化していくよう作動している。だから、恋愛には依存(addict)してしまう(そこに作動しているのが閉回路の強化か開放系の制作かを判断する基準として、最も分かりやすいサインは、その状態に依存するかしないかということだ)。
互いの孤独が通じ合う、恋愛は確かにそのような体験だ。だが、人は、その体験を「物語る」ことに依存する。するとたちまち、閉回路へと閉じてしまうのである。
本当は、恋愛なら恋愛の情動を、二者間の閉域に閉じ込めてしまうのではなく、万物との交感に開いていく端緒とすることもできるはずなのだ。

3.<高次元>としての<野生>へ

90年代の初めに出版された中沢新一『東方的』に収められた諸論考では、「四次元主義」について多様な文化事象から論じられているが、特に「四次元の花嫁」という文章では、ポアンカレーピカソ-デュシャンをめぐって、「高次元の切断としての現実」について考察されている。
<高次元>について考えることは、そのまま<野生>について考えることであり、それは「寂しい孤独」から「華やかな孤独」への根源的な転回の体験と繋がっている。まず、中沢新一の一節を引用する。

高次元の知覚は、主体のアイデンティティというものを、この世界の中にではなく、つねに高次元的秩序の中にみいだそうとするので、孤独の感情を乗り越えることもできるのだ。
それぞれの個人は、高次元的実在が三次元の物質的世界と接触するその境界面に切り取られた「高次元のスライス」にほかならないわけだから、個人というものが意味をもつとしても、それはこの世界の内部だけではとらえられないことになるからだ。
中沢新一

ロマン主義的孤独のような依存的閉回路は、この<高次元>への回路を切断してしまうことにほかならない。
<高次元>の知覚とは、ただ数学的感性のことを指すのではない。<野生>との感応もまた、ひとつの<高次元>の知覚である。いや、数学的感性と<野生>との感応とは、じつは、同じ感性の表裏であると考えられるが、このことについては、ここではその指摘をするにとどめておく。

ここで、<ロマン主義的孤独>と、ヘンリー・D・ソローの孤独を対置してみよう。ソローは、「孤独になるためには、現在から逃れなければならない。私自身にも近寄らないようにすることだ」と書いている。
今福龍太は、「ソローの「孤独」solitudeは、けっして「さびしく」lonelyはない。ひとりであることの華やぎ。そのなかで、ひとりであるものたちが出逢い、交感する」と書いている。

ここで、「ひとりであるものたち」とは、<野生>において生きる者たち、言葉を持たない者たちである。山川草木、動物、天体。ーそもそも<野生>は寡黙であり、同時に、絶え間なくブンブンと振動し、休むことなく多項間でセッションしている。
<ロマン主義的孤独者>が、<私>への執着を手放せず、相互承認の閉域に閉ざされ、くりかえし語られる「愛の物語」に依存するのに対して、ソロー的孤独者は、<私>を手放し、そのことで言葉を持たないものたちと出逢い、都度「セッション」に参加する。

ソロー的孤独者は、<1なる者(超越論的孤独者)>でも<2の片割れ=1/2(ロマン主義的孤独者)>でもなく、<1よりは大きく、2よりは小さい者(高次元的孤独者)>である。孤独=<1><1/2>は、三次元の様相を見ているから、そう見えるにすぎない。孤独=<1よりは大きく2よりは小さい>が解ければ、どんな感情も、体験も、傷も、<私>という<物語>に累積することはなく、絶えず、常に、既にリセットされつづけるだろう。
高次元に開かれた孤独者は、世界を日々、最初から生き直している。

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