目的は何もしないでいること

目的は何もしないでいること
そっと背泳ぎを決めて 浮かんでいたいの
行動はいつもそのためにおこす
そっと運命に出会い 運命に笑う

フィッシュマンズ「すはらしくて NICE CHOICE」

端的に、誰もが、忙しすぎるのである。単純に、まずは、忙しさを手放すことから始めねばならない。そうは言っても、もちろん、生活から離脱するわけにはいかない。さて、どうすればいいだうか。

ひとつの答えは、無駄なことに心を開く、ということだ。
何でもいいが、何か無駄なことをやった瞬間、そこにぽっかりとヒマが現れる。
朝、起床前、ベッドで雨の音を聴けば、そこにヒマが現れる。
通勤時、一駅前に降りて歩いて会社に行けば、そこにヒマが現れる。
ほんの一分でもいい。無駄のコツをつかめたら、あなたはもうヒマ人だ。
やることがたくさんあっても、ヒマ人になることはできる。逆に、やることのない休日ですら、何もやらないまま忙しくしている人間もいるだろう。恐らくは、今のあなたがそうではないか?

いいだろうか。忙しさからは何も生まれない。何かを始めるためには、まず、ヒマ人にならなければならない。
ヒマ人は、ヒマだから、ヒマだな、と呟く。
「ヒマだな」ーそれが自分自身の声だ。ヒマ人になれば、自分自身の声を聞くことを覚える。
そのうち、自分自身は、いろんなことを話しはじめるかもしれない。
それが、あなたの「やりたいこと」だ。
「やりたいこと」は、自分で見つけようとしても、けして見つからない。「やりたいこと」は、自分自身に教えてもらうしかない。その声に耳をすますしかない。

でも、自分自身は、ただ黙ったままでいるかもしれない。そうであれば、しめたものである。あなたは「なにもやりたくない」のだ。
いいではないか。べつに、なにもやらなければいいのだ。なにもやらないでいることは、けっして虚しいことではない。

自分というのはたったひとりです。
自分が生まれる前にも、自分が死んだあとにも、どこにも自分はいない。私だけが自分です。
そう考えると、自分というのはあまりにも特異な存在なわけですが、その自分を感じられるのはどういう時かというと、私にとっては散歩している時なのです。
明けていく空を見たり、木を見あげたり、花が咲いたり枯れたりするのを見たり、雨や雪や強い風を感じたり、誰か歩いてくるのを見たり、犬がいて、家がだんだん古くなり、人もだんだん年をとって行く。
歩きながらそれを見ていると、ほんとうに自分を感じます。

いがらしみきお

散歩することは、いつも、たったひとりで宇宙を散歩することだ。この感覚が身中に溢れている限り、おれは、All OKだと感じる。
金を稼ぐのも、本を読むのも、言葉を吐くのも、誰かを愛するのも、この感覚を常にリアルに身体化していたいがための人生のパズルのようなものだ。「目的はなにもしないでいること、行動はいつもそのために起こす」のである。

無駄なことをする。有用なことは「必要最低限」に控える。そして、できるだけ物を持たない。お金なんかは「右から左に流すもの」と考えよう。
例えば、江戸時代、江戸っ子の基本は『三無い』だったという。「持たない、出世しない、悩まない」。
忙しいのは自慢にならない。

良い日々というのは有情の日々、情けのある日々というのはイコールひまな日なんですね。忙しくなると乾いてきて、情けなんて構ってられなくなる。情けないもんだと。

杉浦日向子

ヒマなとき、退屈なときにしか感じられない有情の揺らぎ。
基本、退屈していればよい、というのが、「江戸」の価値観だった。
江戸の市中にいる年寄りの考え方で「七五三」というのがあるという。「七味」「五悦」「三会」。大晦日に振り返り、七回美味いものを食い、五回楽しいことがあって、三人いい人に会えたら、その年は良い年だった。
そのペースでいいのだ。そんな感じで、宇宙のなかを散歩して、森羅万象に触れて情を揺らすことができれば、人間の生に、それ以上の何を望むと言うのか。

私は怠けものです。怠けものというよりは、どんな場合でも楽な姿勢をとりたい性質です。近頃そうなったのではなくて、生まれつきそうなのです。しかし楽な姿勢といっても、日向に寝そべっている猫のような、あんな無為は好きではありません。
少年の頃見たことがあるのですが、風の吹く枝に逆さにぶら下がっている蝙蝠のような形。あんな形が好きです。また早瀬のなかで、流れに逆らって静止している魚の姿。あの蝙蝠や魚は、風や水を適当な刺戟として感じながら、自らの姿勢を保ち、且つ楽しんでいるに違いありません。

梅崎春生

怠けるためには、フォームが必要なのだろう。
江戸は、そのフォームを洗練させたカルチャーだったと言えるだろう。
現代に生きる我々は、それぞれが、怠けるためのフォームを創造せねばならない。うっかりすると、忙しくしてしまうのが、現代人の悪癖である。つい、生産性なんてことに心を取られてしまう。そうして、無駄なことの愉しみを見失い、気づけば「情」が枯渇したゾンビのような生を生きる羽目になる。

子桑戸・孟子反・子琴張の三人が、ともに交わりを結ぼうとして話しあった。「交際ぬきで交際し、協力なしで協力する、そんなやつがいないかなあ。天に昇り霧の中に遊んで、限りない空間を経めぐり、この生を忘れて、無窮の世界に生きる、そんなやつがいないかなあ」。
三人は顔を見あわせて笑いながら、心が通いあい、そのまま友だちになった。
しばらくは何ごともなく過ぎたあと、子桑戸が亡くなった。その葬儀の前に、孔子が聞き知って、子貢を手伝いに行かせた。子貢が来てみると、孟子反と子琴張は(…)声をそろえて歌っていた。

ああ桑戸よ
ああ桑戸よ
君は真の世界へ帰っていったが
我らはなお人間をつづけている
ああ

子貢は帰って、孔子に報告した。「あれはいったいどういう連中なんでしょう。礼儀もわきまえず、なりふりもかまわず、亡がらを前にして歌をうたい、平気な顔をしています。何ともいいようがありません。あれはいったいどういう連中なんでしょう。」
孔子「あれは規範の枠外に遊ぶ者で、この私は規範の枠内に遊ぶ者なんだよ。規範の内と外は交わることがないのに、お前を弔問にやったのは、私の迂闊だった。彼らは造物主と肩を並べて、天地の気に遊ぼうとしているのだ。
彼らは生をコブやイボ同然のよけいなものを見なし、死をできものがつぶれたぐらいにしか思っていない。そんな人間には、死と生の先後のけじめなど知ったことじゃないわけさ。種々の異なったものを借りて、一つに寄せ集めたものを肉体と考え、五臓の存在も、耳や目のはたらきも忘れてしまっている。
寄せては返し、終わっては始まり、始めも終わりも知らばこそだ。何思うこともなく俗世の外に彷徨し、無為のいとなみに気ままに身を任せている。そんな人々がどうして煩わしい世俗の礼を行って、世人の耳目を楽しませたりするものか。」

『荘子』内篇 大宗師篇六より(福永光司/興膳宏訳)

何であれ、あるものが、それ自体として、あるべくしてあるのは、例えば樹は絶え間なく樹になろうとしており、雲は刻一刻と雲になろうとしているからだ。人も瞬間ごとにその人になろうとしている。
無為とは、じつのところ、雲が雲になろう、樹が樹になろう、人が人になろうとする意志が漲った状態のことである。「情」とは、そのエネルギーのことにほかならない。

人が生活していくには、もちろん「作為」も必要だろう。だが、「作為」はつねに「無為」と“釣り合いが取れて”いなければならない。
生のフォーム、正しく怠けるためのフォームとはそういうことである。何かをやるとき、それは何もしないためでなければならない。「目的は何もしないでいること、行動はつねにそのために起こす」。

さて、書き連ねてきたが、つまるところ、今日の食い扶持が確保できてるなら、あとは寝て散歩して踊って過ごしてりゃいいんだってことである。
明日の食い扶持は?、明後日は?、…と余計なこと考えるから詰む。
今日一日、生き延びるということは、当たり前のことではない。事故にも遭わず、寒暖をしのげて、捕食もされず、食い扶持に恵まれるというのは、当たり前のことではない。
個体が生き延びるというのは、常に僥倖である。それが本質なのだ。
生きているだけで丸儲けと覚悟すること。そして、僥倖を、十分に味わうこと。僥倖を十分に味わうことの適うだけの、怠け者のフォームを制作すること。。

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