漂流日記2020.08.19

メノ・スヒルトハウゼン『都市で進化する生物たち』(草思社)を読む。

2007年、全世界で歴史上初めて、都市に居住する人間の数が農村地帯におけるそれを上回った。
都市とはヒトという単一種に最適化された環境のことである。
ー「要するに、私たちの世界は人間が完全に支配する世界になりつつある」ということだ。
ヒトとは、この地球上においてもはや一つの生物種ではなく、あらゆる生物にとって避けられない環境因子のひとつとなったと考えるべきである。
ー「人間以外のあらゆる生きものが、直接的に、あるいは間接的に、人間と出会うことになる」。

都市は、例えばアリの巣のようなものと考えられる。アリは「生態系工学技術生物」である。それは、「生物的あるいは非生物的素材の物理的状態に変化を生じさせることによって、他の生物にとっての資源の有用性を調整する生物のことをいう」。
アリの巣の内部は、アリが運び込む食物という形でエネルギーが絶え間なく流入し、外界とは異なる全く新しい生態系をなしている。アリの巣ができると、そこにはアリだけでなく、一万種をこえる「好蟻性生物」が生息することになる。
好蟻性生物とは、アリの工学技術によって提供された生態系が提供する好機を利用するために進化した新しい種のことだ。好蟻性生物だけでなく、アリが変更を加えた環境の影響を受ける種も多い。例えば、アリの巣による土壌の窒素増加により、イラクサが育つ。
アリ以外にも多くの生態系工学技術生物が存在する。自分の身体規模をはるかに超えた構造物を創り出すアリ以外の生きもの、例えばサンゴやシロアリ、ビーバーなども、そうした生き物に数えられる。ヒトもまた、そうした生き物として捉えることができるだろう。
都市は、アリの巣やサンゴ礁がそうであるように、生物に多様性を促す様々なニッチを提供する。著者は、都市を自然と断絶した環境ではなく、自然過程に包摂されるものとして捉えている。

都市に見られる生物多様性の理由について、著者は四通りの説明を試みている。
第一は、都市の流動性の高さである。そこには様々な外来種が持ち込まれる。
二つめは、そもそも人が好んで定住し、後に都市へと発展するような土地は、しばしば最初から生物学的に豊かな土地だったということ。
三つめは、都市に隣接する田園地帯では、農業の高度化によって、むしろ自然がコントロールされすぎているということ。
そして、四つめ、都市が多様なニッチを準備する積極的な理由として、都市空間が、パッチ状に広がる生息地の多様性をもっているということが挙げられる。

人間の目で都市を見るとき、そこに見えてくるものは商店街、駐車場、街路、ビジネス街、歩行者専用区域などだろう。しかし頭上高く翔けていくハヤブサ、大通りに沿って飛行していくハナアブ、あるいはパラシュート降下中のふわふわのトウワタの種子にとっては、都市とは岩棚、湿った窪み、帯状に生えた苔、そして地下を流れる川がつきつぎと現れる万華鏡だ。このような生息地の小さなかけらの散らばりは、驚くほど変化に富んだ景域を形成しており、数多のニッチが相まって、ひどく断片化してはいるものの、豊かな生物多様性を支えている。

さらに、都市の「緑化」による公園から個人宅の庭まで、都市の断片的に散乱する生物学的ニッチは、近年ますます高まっていく傾向にある。
皮肉なことに、農業技術の高度化により、農業地区ではその存在を許されなくなった雑草の多くは、都市に新たな生存の活路を見いだしている。
興味深いのは、生物多様性について考えるとき、従来のように都市と自然という二分法では、線引きができなくなりつつあるということだ。
むしろ、都市において、生物多様性を支える環境の担保が模索される必要があるということ、それと並行して、やはり自然環境は自然環境として残さねばならない。
ヒトが、生物種のひとつという地位から、ほとんど地球上の環境因子となった今、都市と自然が明確に線引きされるのではなく、その境界構造をより立体的に考えるべきときが来ているということなのだろう。

この本では、都市における生物進化の事例が様々挙げられている。それが進化の条件を満たしているのか、この短期間の間に、そのような激しい進化が起こりうるのかということについても周到な議論がなされている。
一例、おもしろい事例を引く。毎年飛来する燕の、都市における進化についての事例だ。
1980年代、燕が道路脇の建造物に巣をかけ始めた頃は、翼の長さはほぼ同じで、約10.5cmだった。だが、10年後、交通事故で死んだ燕の翼の長さは、生きている燕の長さより平均して5mm長かったというのである。それに連れて、交通事故で死ぬ燕の数は90%も減少した。これは、どういうことか。
つまりこういうことだ。向かってくる車を避けるために、舗装道路から垂直に飛び立つのに都合のよい短い翼をもった燕だけがうまく難を逃れ、短い翼の遺伝子を遺伝子プールに拡散させることができた。長い翼の個体は旋回速度が遅く、路に亡骸を晒すはめになり、その遺伝子は遺伝子プールから排除された。
著者は人間の都市に特有の、例えば重金属の抽出による毒性の拡散などの事例を挙げ、それでもその「汚染」にすら適応する生物が存在することを例示し、生物が生存の為のニッチを探るポテンシャルの高さを示す。さらに都市は、そこで多様な外来種が出会う場でもあり、有り得ない共進化の可能性をも開く。

沼田朗『ドラ猫進化論』(三賢社)は、人間を環境因子とする環境に適応した動物として、「ドラ猫」をフィーチャーした本だ。農耕とともに始まった人と猫との共進化。リビアヤマネコがイエネコに進化していく過程から説き起こされ、主に日本の平安王朝、中世、近世の文献から人とネコの関わりの変遷を跡付け、明治から昭和、現在に至るドラ猫の生きざまが描出される。

飼い猫は自分が飼われているとは夢にも思っていない。「あくまでも人との同居という環境を自ら選び、自分のなわばりと認識して暮らしている。食料は飼い主から一方的に与えられているわけではなく、自らの狩りの手段を駆使して自力で腹を満たしているーと、猫自身はそういうつもり」で生きている。
例えば、あの「ニァアニャア」という猫の鳴き声、野生の猫はあんな鳴き声では鳴かない。あれは、猫が人と共進化するなかで、子猫が親猫に鳴く声を「人向けにカスタマイズ」した結果の鳴き声である。猫はそうして、人に向けて鳴くことで、餌にありつけることを学習した。
飼い主に向けて鳴きまくることが、猫にとっての新しい狩りのスタイルになったというわけだ。
飼い猫の狩りのスタイルはただ鳴きまくるだけではなく、多様性に富んでいる。

猫によっては鳴かずに「ただじっと見つめて、眼力で威圧して訴える」、あるいは「寝ている同居人を前肢でモミモミ踏んで起こす」、「上から腹に飛び降りてボディプレスを食らわせて起こす」、「奥さんよりもハードルが低いマヌケな旦那を標的としてセビりまくる」といった按配で、現代の「猫の狩り」のバリエーションは、猫の数だけ無限に存在しているのだ。

つまり、猫は飼い猫、ドラ猫問わず、「人を主要な因子とする環境」にうまく適応した「野生の猫」として生きているのである。
猫を飼うとは、だから、日々自らを野生の一部として再認識する機会を得ることでもある。
猫の猫らしい特徴、爪を研ぐ、熱心に顔を洗っては体中を舐め回す、糞を埋める、これらは全て本来は狩りのためために必須の行為だったのだが、“人間を環境として”暮らすようになって(以後、このことを「ドラ化」と呼ぶ)、今ではただ「その方が気持ちいい」程度の「ドラ行為」となってしまった。

ところで、ドラ猫と言えば、サザエさんである。お魚を咥えて逃走するアイツである。著者は、こうしたバイタリティに溢れたドラ猫は、明治以降の日本に特有の現象であるという。
明治維新以降、大正、昭和と激変する人間の生活環境が猫の持ち前の好奇心と学習能力に火をつけた結果、ドラが生まれたのだ。
猫には本来「新しい陣地を獲得してなわばりを拡大したい本能」が備わっている。なわばりを日々パトロールするのはどの国の猫でも同じだが、環境が一定なら猫も変わりようがない。日本の猫は急速に近代化、和洋折衷化していった混迷の時代をうまく乗り、自らも急速にドラ化していったというわけだ。
急速な近代化による町の変化に加えて、そもそも日本の建具は、内と外とが確然と区切られていない。町全体が、西欧の町に比較して、シームレスな構造になっている。だから、人家の台所に置いてあるお魚を咥えて町を走っていくドラ猫の生まれる余地ができた。
ドラ猫とは、言わば、日本の近代化されていく都市環境に特有の適応をした種族なのである。ヒトの存在も含めて環境因子と捉え、日本近代の都市構造を新たなニッチとして繁栄していった、野生の生物種としてのドラ猫たち。……

そもそも、ヒトという種が、都市をつくる以前、農耕という自然工学的環境を作り上げたところから、多様な生物種との共進化の歴史は始まっている。
ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(立木勝訳 みすず書房)には、近代国家の誕生もまた、穀物との共進化というファクターなくしてはあり得なかったことを説く。

定住コミュニティに密集した状態で、飼い馴らされた家畜とわずかな種類の穀物と一緒に、いま国家とよばれているものの祖先に支配されて暮らすようになったのは、種としての歴史のうちの、ごく最近になってからだ。

人類の歴史では、肥沃な湿地帯で、多様な自然の恵みに依存した、独創的でハイブリッドな生業様式を営んでいる期間が、ほとんど普遍的と言っていい期間続く。人類は、「小さな、移動性の、分散した、比較的平等な、狩猟最終民の小集団(バンド)」を形成し、自然に埋め込まれるようにして生存していた。
自然に埋め込まれるようにして生存するとは、狩猟採集民が、食料が手に入る自然のテンポを最大限に活かせるように、狩猟、採集、漁労、採取、罠や梁作りなど、多様な活動を、自然のリズムをよく観察して、それに合わせて自己調整していくハイブリッドなテクノロジーを開発していたということだ。

自然のリズムは実に多様で、そのそれぞれに固有のメトロノームがあるから、狩猟採集民はそのすべてに、つねに気を配っていたと考えられる。農民、とくに固定した畑で穀草穀物を育てる農民は、ほぼ単一の食料網の中に閉じこもっているので、日々の作業は特定のテンポだけが対象になる。

耕作も、もともとは、自然のリズムに応じたテクノロジーのひとつに過ぎなかった。だが、何らかの恐らくは複合的な理由で、ある地域において、この耕作への依存度が高まっていく。
それは、穀物と動物が飼い馴らされ、共進化によって形質転換していく歴史でもある。
この穀物、動物、さらにはそれに依存した人間の共進化による形質転換を、著者は、<飼い馴らし>を意味する英語domesticationから、「ドムス化」と名づける。

ドムスはほかに類を見ないもので、耕地、種子や穀物の蓄え、人、そして家畜動物が前例のないほど密集し、すべてが共進化しながら、誰にも予想しなかったような影響を生み出した。そして、これも同じくらい重要なことだが、進化のモジュールとしてのドムスには抗しがたい魅力があって、文字通り何千何万という招かざる居候がやってきて、この小さな生態系で繁栄した。

このドムス化された動物に共通して見られる特徴が興味深い。
他種への用心深さが少ないこと、
雌雄差が薄いこと、
幼形成熟の傾向があること、
脳の縮小、
感情的な反応能力の低下。…
さて、著者は萌芽的な国家を、後期新石器時代の、このドムス・モジュールを活用し、支配と収奪の基盤とすることによって生まれたとする。
ここで、国家とは「税の査定と徴収を専門とし、単数もしくは複数の支配者に対して責任を負う役人階層を有する制度」として定義されている。
そもそも、このドムス・モジュールが広範に支配的となり、そこに萌芽的な国家が発生した背景として、著者は気候変動による地球の「乾燥化」により、労働集約的な灌漑の必要が生じて、急速な人々の集中化-都市化が促進されたことによるという仮説を採用している。その「原因」の妥当性はおいておくとして、ともあれ、国家が、唯一課税の基礎となる穀物を、その生態系の基盤とするドムス・モジュールにおいてのみ発生したという理路は説得的だ。

ドムス・モジュールが広範に実現可能な地域は、砂漠や山岳地帯を除く沖積層に限定されていた。この地政的な指摘も、とても重要であろう。国家が大多数の人類を包摂したのは、1600年以降、近代になってからなのである。それまでは「砂漠の民」「森の民」等、非国家領域が広大に広がっていた。
ところで、文字の発明も、話し言葉を記録するためではなく、国家の帳簿の記録の必要性から生じた。
官僚機構や、行政記録、階層的なコミュニケーションが消滅すると、読み書きも大きく縮小することを示唆する考古学的証拠も、わずかながら存在することが述べられている。
大雑把にまとめるなら、人々が自然の多様なリズムに対応して、ナチュラリスト=実践的自然哲学者として存在していた狩猟採集民としての在り方から、穀物、動物とともに己自身を家畜化してドムス・モジュールを形成して、その複合体に寄生するように国家が誕生したということになる。

生物は、ヒトによる環境の改編もまたひとつの好機として、そこに新しいニッチを見いだし進化していく。生物のこの多様化へのポテンシャルの高さについて、そもそも生物とは、多様性を高めていくことでエントロピーに対抗する存在原理を持つと、生物の宇宙論的存在論を展開したのが、スチュアート・A・カウフマンだ。『WORLD BEYOND PHYSICS 生命はいかにして複雑系になったか』(水谷淳訳 森北出版)で、カウフマンは、生物圏はその多様性を増大していくように自己=秩序を構築しつづける存在であることを主張した。生物は、熱力学の第二法則によって秩序が消散するよりも速く、この宇宙がその複雑さを使い尽くせないほどの勢いで、その多様性を高めていく。

物質は如何にして意味のある存在になるのか。意味とは何か。それは主体の関数である。例えばグルコース勾配をさかのぼって泳いでいく細菌という主体にとって糖には意味がある。
別の視座から述べるなら、自律的主体とは、自らを複製して熱力学的仕事サイクルを働かせることのできるシステムである。
主体は自らが主体であることを「知っている」必要はない。例えばアシュケナジーの九つのペプチドからなる集合的自己触媒集合は、複製して仕事サイクルを進めるが故に、すでに主体である。
主体による感知、評価、行動の三つ組が感情の基底をつくる。感情は、最初の統合された「感覚」なのかもしれない。ここで「感情」とは、「私にとって良い、または悪い」という意味のことである。
自律的主体は、非エルゴード的な領域における可能性の一つのあらわれである。それはどのようにあらわれるのか。

「自然という床」で、それぞれの種が新たな隣接可能なニッチ、床に開いた新たな「広いひび」を提供し、その新たなニッチが、それを構成する広いひびの中に次の新たな種を招き入れる。

このように、『自分のための存在』が事前言い当て不可能な形で生成して、互いに作り出す隣接可能なニッチの中で特定のチャンスをつかむ。『自然という床』は拡大して、我々が自分たちの出現よりも速く共同で作り出していく余地を、次々に蓄えていく。そうして複雑さが創発するのだ。

「自然」というのは、既定の限定された領域ではない。それは生物圏が多様性を増大することをもって、拡張していく。個々の生物がニッチを求めて「自然の床」に大きなひびを入れる、そのひびが穿たれた自然の地形がそのまま更新された自然となる。分析哲学の成長宇宙論にも繋がる視座であろう。


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