B面日記2020.10.28

今日、デザイン思想メディア「エクリ」で上野学さんへのインタビュー記事が公開されました。未読の人はぜひ読んでみてください。OOUI(オブジェクト指向ユーザーインターフェース)についてのインタビューですが、その専門的な方法論の詳細に踏み込んでいくのではなく、そもそもOOUIがどんな世界観から導き出されてきたのか、その哲学について焦点をあてた記事になっています。

OO(オブジェクト指向)というのは、“いわゆる”哲学的には、例えばグレアム・ハーマン、そしてハーマンが依拠するフッサールやハイデガーによって展開されてきた考え方なんですが、上野さんは、必ずしもこれらの文献を読み解いたうえで、演繹的に自らの方法論を導き出したわけではない。
むしろ、あの人は、最初からOO(オブジェクト指向)だったんですね。おそらく、ハイデガーの道具論や、ハーマンの四方対象論などで、OO(オブジェクト指向)というアイデアに接したとき、「なんだ、ここにも同じこと考えてる奴いるじゃん」と感じたに違いありません。

もちろん、そもそもOO(オブジェクト指向)という考え方自体、”いわゆる”哲学の専売特許ではない。例えば、20世紀初頭からのコンテンポラリー・アートの文脈では「オブジェ」をめぐる思考がさまざまに展開されていました。建築のクリストファー・アレグザンダーのパターン・ランゲージというコンセプトや、ゲーテ以降の形態学の流れもOO(オブジェクト指向)という世界観に通じるものです。人類学では人とモノの関わりについて、従来の「人という主体(サブジェクト)」が「モノという客体(オブジェクト)」を使う、という関係ではない、人とモノがフラットに交叉するという考え方も提示されています。上野さんは、おそらく、そうした知的風景を横目に眺めつつ、「なんだ、みんな、わかる奴はわかってきてんじゃん」と感じていたに違いないのです。

上野さんという人は、最初からOO(オブジェクト指向)の人だった。最初、というのは、幼少期から、ということです。
上野さんと飯を食ったとき、おもしろい話を聞きました。まあ、どこまで公開していいのか迷うところですが、差し支えないであろう範囲でそのエピソードを開陳しましょう。話のディティールは例によって記憶違いがあるかもしれません。
上野さんが子どもの頃の話です。あるとき、新しい勉強机を買ってもらえることになり、それまで使っていた古い勉強机を粗大ごみに捨ていくことになったのだそうです。そして明日いよいよ捨てに行く、というその前日。部屋にいたら、なにか、すすり泣くような声が聞こえてきたというんですね。なんだろう、と思ってきょろきょろしていると、どうやらそのすすり泣きの声は机の方から聞こえてくる。それで上野さんは、ピンときて、あ!明日捨てられるから机が泣いてるんだ!と思ったのだそうです。

この話を聞いたとき、おれは、かなりおもしろかったんですね。なるほど、机の泣き声を聞くことのできる子どもが長じてOO(オブジェクト指向)という考え方に至るということか!そう、深く腑に落ちたのでした。
このエピソードなどは、ひとつの象徴的な話でしかないのですが、要は上野さんという人が「もともとOO(オブジェクト指向)だった」という点ですね。ここが興味深い。
机の泣き声を聞く少年とは、つまりアニミズム的な感性がひどく鋭敏な子どもと言えるでしょう。彼は一貫して、物との関わりにおいて、自分がそれを主体として「使っている」のではなく、ひとつの他者として「対話している」というモードで生きてきた人なのではないか。そして、絵やグラフィックに興味を持ち始めてからは、自然と「制作的」なモードに入っていくことができたのではないでしょうか。

いや、まだ上野さんの来歴をそんなに深く知っているわけではないので全然見当はずれなのかもしれませんが、ただいずれにせよ、彼は「天才は最初から完成形であらわれる」という原則が通じるタイプの人であることは間違いないと思います(ちなみに、私の言う「天才」というのは、優秀か否かといった価値判断を含まない、そういう「タイプ」ということです)。
私がこれまで出会ってきた、創造的、あるいはイノベーティブな人たちは、例外なくそうしたタイプでした。

ある分野で、先例のないものを提示していく。イノベーティブであるとはそういうことです。それでは、その人たちは、まったくの「無」から何かを創り上げるのでしょうか。そんなことはありません。他分野の雑多な情報や自身の経験から、自らの分野に応用的に適用できる「形」を直観的につかみとるのです。
どんな分野の「知」も、それが人間の身体や脳によって生み出される、という一点で共通しています。つまり、創造的な人とは、人間が活動するあらゆる分野のベースにある「生」の経験から、「直に」ある「形」をつかみとることができる人ということになります。
換言すれば、クリエイターとは「形の継承者」なのです。

上野さんと話しているとき、彼はデザイナーは、エントロピーに抗するような仕事をしなければならない、と強調していました。
なるほど、言われてみれば、それは「形の継承者」として必然的な倫理感覚だと思うのですが、おそらくそうしたことを普段意識している人はひじょうに稀なのではないでしょうか。

あらゆる系のエントロピーに敏感であること。そうして、あるべき「形」、つまり「秩序」を継承していくこと。それは、「最初からそうだった人たち」に与えられた「ミッション」ですが、けっして堅苦しいものではありません。むしろ、「創造的である」とは、この社会の息苦しさを内側から破っていくレジスタンスでもある。インタビューの最後の方で話されていることですが、「タスク指向」から「オブジェクト指向」に転回するとは、人間の自由を担保する態度でもあるのです。

昨日、最終チェックでこのインタビュー記事を読み返していて、おれはあるロックスターの言葉を思い出しました。おれと上野さんが共通に大好きなロックスター忌野清志郎の言葉です。

すべてがシステム化されて、
まるで誰かに飼われているみたいだ。
適当な栄養のある餌を与えられて、
ほどほどに遊ばされて、
まるで豚か牛か鶏のようだぜ。
これで満足できるのか。
きみたちはそれほどまでに落ちぶれてしまったのか。
みんなが着ている服を買って、
みんながよく行く店に行って、
それでOKなのかね。
そーじゃ ねーだろ
きみにしかできないブルースが
あるんじゃないのか。

忌野清志郎

おそらく、OOUIの根底にある理念は、みんなが「きみにしかできないブルース」を歌える世界に近づけよう、ってことなんだよ。

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