弱さと強さをめぐるノート

強者と弱者がいるのではなく、ただ弱者がいる。強者とは、弱者を叩く弱者でしかない。
弱者は強者になるのではなく、弱者でも強者でもない人になろうとした方がいい。コンプレックスをバネにして頑張るのではなく、コンプレックスを解体してしまうことのできる「場」を見出す方がいい。

コンプレックスを解体してしまうことのできる「場」は、どこにあるのか。
コミュニケーションのなかにある。もっと端的な言葉で言ってしまえば、「愛」のなかにある。

弱者が「強くなろう」とすると、ほとんど必ず間違うことになる。なぜなら、弱者の目にうつる強者とは、「弱者を叩くだけの能力、権利、社会的承認を獲得した弱者」でしかないからだ。
強者は哀れである。彼や彼女は、他者を叩き続けることを自らに課した弱者でしかない。

強者となることは、むしろ自らのコンプレックスを強化する結果を生むだけだ。
SNSなんかで自分の優越性をアピールしなければ気が済まないマウンティング・モンスター、彼や彼女は、自らの言動でそのコンプレックスを固定化、強化していることに無自覚なまま、強迫的に他者への蔑みを反復する。

自らを弱者だと思っている人の方がずっと救いがある。
本来、コンプレックスから免れている人はいない。弱者と自認する人は、すくなくとも、自らのコンプレックスを、他者との関係に投影するのではなく、自分の問題として引き受ける「強さ」をもっている。


変な言い方だが、弱いまま強くなる、ということが理想だ。 傷つきやすいまま、心痛めるのを惜しまないでいられるのがいい。

弱いまま強くなる。そのためには、どうしても、「愛」が必要なのだ。愛のあるコミュニケーションのなかでしか、人は、自分の弱さを維持できない。

人と深くつきあうことは、自分の虚飾、強さの仮面を、その人との関係のなかで脱ぎすてるというレッスンをすることでもある。
人と深くつきあうと、すくなくとも、その人の前では、自分は「弱く」なる。弱くなることができるのである。

人と親しくなるにつれ、自分が人に振るうことができる「力」が減じていくのが分かる。
それは、とても望ましいことだ。相互に力を振るいあうのではなく、相互理解の深まりを志向するコミュニケーションが優勢になる。

ある人のことを分かりたいというのは、自分自身のことを分かりたいという欲望と繋がっている。普段人は、そうした深さで人と関わってはいない。
その人のことを「分かりたい」と、本当には思っていない。その人が、自分にとって侵襲的にならないよう、折り合いをつけておきたいと望んでいるだけだ。

弱みを見せれば、それに付け入ってくる人間がいる。残念ながら、それが現実だ。だから、人は強さの仮面をつける。
だから、強さの仮面が虚飾にすぎないこと、本当の自分は弱く繊細な魂をもっていることを思い出させてくれる、信頼できる人との関係が、大切なのである。


「強い」人間の振る舞いに、その人の恐れを感じとり、哀れみの情を覚える。
じっさい、そういう心の動き方をする人は存在する。
自分を蔑む人間を見て、その人のことを心から心配する。

しかも、その心配を表に出すことが、その人を傷つけることになることを知っていて、何もわからない愚鈍なふりをしている。
こうした人が、本当に「強い」というのではないか。弱いままでいることを受け入れて、淡々と自分の人生を歩いていける強さ。

弱さを受け入れて、淡々と自分の人生を歩いていくー自分は、そこまで強い人間ではない。淡々とはしていない。いつもふらふらしている。いきがったり、はったりをかましたりしながら、ふらふらと自分の人生を歩いている。

けっきょく、誰かへの怨みを溶かすのは、その誰かへの哀れみの情である。
怨みが哀れみに変わるというのは、そこで視点が転回している。
徳性の次元が、一つ上がっている。


人の「強さ」と「弱さ」というのは平面的に捉えられるものではない。
弱い人は弱さに耐えるだけの力をもつ強い人とも言えるし、強い人は強くないとたちゆかない弱い人であるとも言える。

人間関係というのは、その場その場で「負け続け」の人間が、トータルで見ると「勝ち越している」という不思議な現象が起こる場だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?