植物という生き方

私たちは「生命圏」に生きている。私たちは毎日何を食べているのか。他の動物や植物を食べている。私たちは絶え間なく呼吸している。酸素を取り入れ、二酸化炭素を排出している。その空気を作っているのは誰か。植物だ。
私たちの基本的な生命活動、食べること、呼吸することは、他の生命との関係に依存している。私たちは「生命圏」から出たところでは、一刻たりとも生命活動を維持することはできない。
現在の「生命圏」を創り出し、その根底において支えているのが植物だ。
植物とは、どんな存在なのだろうか。植物の「あり方」を識ることで、私たちは、私たちが棲む「生命圏」について識ることができる。もちろん、「生命圏」に生きる動物、つまり私たち自身についても、より理解を深めることができるだろう。

【参照】
・エマヌーレ・コッチャ『植物の生の哲学 混合の形而上学』(嶋崎正樹訳 勁草書房)
・ステファノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ『植物は<知性>をもっている 20の感覚で思考する生命システム』(NHK出版)
・ステファノ・マンクーゾ『植物は<未来>を知っている 9つの能力から芽生えるテクノロジー革命』(久保耕司訳 NHK出版)
・ダニエル・チャモヴィッツ『植物はそこまで知っている』(矢野真千子訳 河出書房新社)

1.植物は環境に「密着」している。

エマヌーレ・コッチャは、「植物ほど、自分たちを取り巻く世界に密着している生物はいない」と言う。
動物は感覚器官で世界を表象化し、動くことで環境との関係を選択的にとり結ぶ。
だが植物は「環境との絶対的な連続性のもとで、全体的な交感を通じて、自分をすっかりさらけ出すしかない」。

植物は、可能な限り世界に密着するために、体積よりも面積を優先する形で身体を発達させている。

環境に広がるその広大な面積を通じて、植物は、成長に必要な、空間に拡散したリソースを取り込んでいる。
エマヌーレ・コッチャ

生物は、そもそもが、環境と表裏一体の存在である。内即外として存在している。ここで言われているのは、植物はその最も純度の高いあり方をしているいうことである。

2.植物は他の生き物の媒介なしに生きる。

生物は、生態系全体としてみれば、あたかもひとつの生命が、自己参照しつつ自分自身を産出していくトポロジカルな閉鎖系でしかないように見える。
だが、植物だけは違う。

植物だけは、生物の自己参照における唯一の裂け目を表している。
植物は生存のために他の生物の仲介を必要としない。それを望むこともない。植物が求めるのは世界だけ、最も基本的な構成要素からなる現実だけなのだ。構成要素とはすなわち石や水、空気、光などである。
エマヌーレ・コッチャ

つまり、生命圏において、宇宙的な実在と直接接しているのは、植物だけであるということだ。
生命が、宇宙の物理法則と相即的なものだとして、一次的な相即性を実現しているのは植物だけで、動物は植物が作り上げた環境に存在する二次的な存在でしかないとすら言い得る。

手(動物的な「感覚ー運動」:引用者注)をもたないことは不足のしるしではない。むしろそれは、自分が絶えず彫琢している素材に、余すところなく身を浸していることの結果だ。植物は自分たちが作り出しているかたちにぴたりと一致する。植物にとってすべてのかたちは存在そのものの諸変化なのであって、行為や作用だけの変化ではない。かたちを造るとは、自身の存在のすべてをもってそのかたちを経験することなのだ。
エマヌーレ・コッチャ
意識には、自己自身からかたちを引き離す、あるいはかたちをもととする現実から当のかたちを引き離すことでしか、そのかたちを思い描けないというパラドクスがある。これに対して植物は、主体・物質・想像力の絶対的な密着性を表してみせる。植物においては、想像するとは、想像する当のものになるということなのである。
エマヌーレ・コッチャ

生命が宇宙と相即的なものである、という汎心論的世界像は、「植物というあり方」においてこそ十全に実現している。植物においては「想像することはそのまま存在すること」なのだ。
逆にいえば、「動物というあり方」においては、そうした汎心論的な相即性は損なわれているということになるだろう。

3.生物は「流れに浸る」ようにして存在する。

さて、それでは、植物によって形成された生命圏、またその圏域における生物の在り方とはどのようなものなのだろうか。
エマヌーレ・コッチャは、生命圏の特徴は、それが流動体であること、生物はすべて、流動するものに「浸される」ようにして存在していると論じる。

流体とは、個体・液体・気体の状態とは関係ない。自身の形状を、なにがしかの自己イメージに即して拡張していくような物質は、すべて流体なのだ。自己イメージは、知覚のかたちを取ることもあれば物理的な連続性のかたちをとることもあるだろう。あらゆる生物は流動環境のなかにしか存在できないが、それは生命が世界をそのように創り上げることに寄与したからにほかならない。すなわち、常に不安定で、たえず増幅と分化の運動に囚われたものとして。
エマヌーレ・コッチャ

生物の定義とは、宇宙を「流体化」するものであるということ、生物というあり方は常に「浸り」であるということが説かれている。流動体の外部、静止した岸辺は存在しない。
生物が世界と関わる仕方は、主体が対象と関わる仕方ではなく、例えばクラゲと海のような関係、鳥と空のような関係になる。
主体と対象の区別は、動物の感覚ー運動系の神経系によって生み出される「表象」に依拠している。それは、生命圏に「浸る」存在にとって、ある特殊な分節様態でしかない。

4.生物は「呼吸」によって生命圏に浸っている。

生物は、呼吸によって、「生命圏」に「浸って」いる。

世界のうちに存在するとは、アイデンティティを共有するのではなく、常に同じ<息>(プネウマ)を共有することだ。(…)
世界とは、息吹の質量・形相・空間・現実のことである。植物は<あらゆる生物の息吹>であり、<息吹としての世界>にほかならない。逆にいえば、あらゆる息吹は、世界に在るということが身を浸す体験であるという事実の証左でもある。
エマヌーレ・コッチャ

生物は、呼吸において、植物が創造した「浸る」という在り方を共有する。

知覚から消化、思考から享楽、言葉から運動機能にいたるまで、生物におけるすべては呼吸の分節化でしかないといえるだろう。すべては呼吸に生じたものの反復、強化、変化なのだ。
エマヌーレ・コッチャ

生物の世界が「浸る」ことにある、呼吸という作用においてあるということは、存在が、生物において絶対的な循環の自由を獲得したのだ、ということを意味する。
生物が現れたことにより、物体は他の物体と並存するのではなく、相互に「通過していく」ものとなった。

物質は事物を分割したり区別したりするものではなく、事物同士の出会いと混合を可能にするものなのである。物質は、あるかたちが世界に内在するその空間にのみ帰されるものではない。むしろそれを通じてすべてがすべての中にあるようになるもの、何ものも他のものの宿命から逃れられなくなり、あらゆるものが世界に貫かれ、したがって世界を貫けるようになる、その当のものなのである。
エマヌーレ・コッチャ

コスモロジーとは、静的な均衡ではなく、まさしく、万物が「呼吸」している、その混合の様態においてある。世界を識るとは、世界を呼吸することなのである。

5.植物の「知性」は非-中枢的=非-個体的である。

そもそも「知性」とは何かといえば、生物が生きていくために必須の問題解決能力である。

生物がぶつかる問題にどんなものがあるのか考えてみよう。食べ物、水、居住地、仲間、防衛、繁殖…。私たちが今ぶつかっている問題の多くも、もともとはこうした問題から生じているのではないだろうか?
ステファノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ

微生物、植物から人間まで、生物として要請される「知性」の本質は同じだ。人間が特別に「知的」なわけではない。
人間も含め、現在この地球上に存在している生物は、どれも、それぞれの進化の道筋の最先端に位置しているというのがダーウィンの考え方だ。つまり生物は各々等価の「知性」をもつ。

種各々の「知性」は等価だが、その性格は大きく異なっている。
植物の「知性」の最も大きな特徴は何か。それは、動物のように中枢性=個体性を持たないことによる、個を超える「創発特性」ということにある。

動物の体の各器官はそれぞれ一つずつしかなく、とりかえがきかない。そのため、体を切り分けることなどできない。でも、植物は違う。植物は、(…)動物とはちがう方法で進化し、モジュール構造(たくさんの構成要素が機能的にまとまった構造で、各部分は交換可能)でできた体をもつようになった。
ステファノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ

つまり、植物は、例えば「一本の木」といっても、それは「一人の人間」というのとはわけが違う。
そもそも「一人の人間」の「個体性」を担保するのは、その中枢性をもつ身体である。取り換えの効かない器官が中枢的に統合された身体が「個体性」を生む。だが、植物はそのような在り方をしていない。

例えば「一本の木」は、モジュール構造、つまり、コロニー(群れ)のようなものだと捉えた方がよい在り方をしている。
植物においては、「一本の木」は「個体性」をもたず、それは謂わば「種の一様相」でしかない。

郡司ペギオ幸夫は「群れは知性をもつ」と論じたことがあるが、植物の「知性」は、群れ、即ちネットワークに宿る「知性」、「創発特性」(集団の構成要素の一つひとつは、その特性をそなえてはいないが、互いに結びつくことではじめて、集団的な知性を示す)をもつ「知性」である。

植物の非-中枢的=非-個体的な「知性」のあり方を見ていると、そもそも「知性」とは個体の属性ではないということが明らかになる。
「知性」をそのようなものとして捉えると、個体による中枢処理というのは、動物という特殊なあり方による「知性」のひとつのヴァリエーションでしかないということが納得できる。

6.植物は問題を「解決する」、動物は問題から「逃げる」。

さまざまな状況を注意深く研究すると、動物はいろいろな外的刺激に対して、いつも同じ解決策をとっていることに気づく。
あらゆる緊急事態に対して、マスターキーのようなものを使っているわけだ。奇跡的ともいえるこの対応は“運動”と呼ばれている。運動は、すべてを解決する切り札ともいうべき対応法だ。
ステファノ・マンクーゾ

どんな問題にも、動物は「運動」という対応をとる。「運動」とは、つまり危機的状況からの「逃走」のことだ。そして、厳密に言えば、「逃走」は問題の解決策ではなく、あくまで困難を遠ざける方法にすぎない。

いっぽう植物にとって、生育環境が寒くなったり暑くなったり、たとえ捕食者であふれたとしても、動物のようなスピーディーな対応は、まったく意味がない。大切なのは、効果的な対応策を見つけることだ。つまり、暑さや寒さ、捕食者の出現“にもかかわらず”生き延びることができるような解決策である。
この難しい課題にうまく対応するには、集中した構造より、分散型の組織構造のほうがはるかに望ましい。より革新的な対応ができ、文字通り“根づく”ことで、環境をより正確にとらえる力がえられるからだ。
ステファノ・マンクーゾ

動物は、問題にあたって、それを「解決」するのではなく「逃走」しているだけで、いっぽう植物は、それを「解決」している。
そして、おそらく、植物がそのように状況を「解決」した環境のなかに、動物は依存して生きている。
考えるほどに、動物は本来、生態系全体のなかのパラジットとして存在しているのではないか、という感が強くなる。

7.生命圏のより包括的なパースペクティヴへ

さて、植物のあり方を考察することを通して、人間ー動物を前提におく世界像より、もう一層深い生命圏からのパースペクティヴで世界像を編み直すことができることが明らかになってきたと思う。
生命圏という圏域を考えるとき、主役は動物ではなく植物と考えた方がより深い視座を得ることができるということだ。

「知性」や「感覚」についても、だから、まずは植物におけるあらわれを考えたうえで、そのうえに、運動系(さらに、神経系、分化した各器官)を備えた動物では、「知性」「感覚」がどのように「編み直されているのか」を考えた方がより包括的な視座がもてる。
「知性」が「環境において生きる能力」だとすれば、中枢神経系による情報調整としての「知る」ということは、「知性」のひとつの在り方でしかない。人間を含む動物が「知る」ということとは、植物の「知性」に、基づいた特殊なバリエーションなのである。


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