匿名性のリアリティへ

1.呪を解く

呪、というのは、端的に名である。名とは、「或る人による存在の規定」のことであり、例えば、「誰かによるあなたへの決めつけ」のことである。自分がその人にどう思われているか、そう考えた瞬間、あなたは既に呪にかかっている。
呪を解くには、名を排すればよい。何者でもないものになること。

2.何者でもないものになる

「何者でもないことは緊急である、考えるためには何者でもないことで十分である」と、ミシェル・セールは書く。

私は考えるにつれて、裸になり、不在になり、計算や数になる。舞踏と身体そのものとの関係は、思考の実行と私といわれる主体の関係に等しい。私は踊るほどに、私ではなくなる。もし私が何物かを踊るとすれば、私はその何物かであり、あるいはそれを私が意味するのである。
私が踊る時、私は記号の白い身体でしかない。記号はその指示するものへ向かう透明なものである。踊り手は、考える人と同じように、他の場所へ向かう一本の矢である。別のものを見せ、それを実際に存在させ、ひとつの不在の世界を現在の中に下降させる。それゆえ彼自体は不在でなければならない。

3.私という仮構

匿名性に届かない一切のことは、その都度の都合に応じた仮設的なものでしかなく、必要がなくなれば解体されて、それで終わりである。
おそらくは「私」とは、そのような仮構物でしかない。

4.空っぽの身体

私が思考するのではない、本質的な思考は、もはやその人間が思考の器と化したかのように、「明け渡された」ところで展開する。
猫が猫というテーマの器であり、謂わばほとんど猫それ自体であるような具合に、ほとんど思考それ自体であるような人間がいる。
私はかくかくしかじかの者であるという社会的属性、個性は、その者自身にとって何の重要性も持たない。その者はもはや、「自分という物語」を生きているのではない。その者は自らを思考に明け渡し、或る特異な、本質的な匿名性を生きている。
そうした者は、自らの欲望によってではなく、その思考の要請するミッションによって動き、その者の人間性においてではなく、思考それ自体のダイナミクスによって、言葉を、周りの人間を、風景を、環境の一切を巻き込んで動かしていく。

5.素直になること

積極的に何かを掴みに行こうというのではなく、むしろそうした欲望や意志にはできるだけとらわれないようにするということである。
積極的に何かを掴みに行こうという体勢から、もはや既に常にそこに在るものに共振しようという体勢にモードチェンジしなければならない。

6.ゼロになるまで引いていく

私に何かを足していくのではなく、むしろ引いていく、私から私を引いてゼロに引き戻すということである。
生きていればそれだけで、私は、放っておいても、日々、雪だるまのように経験や記憶や幻想でぶよぶよと膨らんでいく。
その私の膨張、物語の複雑化に抵抗して、“記憶を私の履歴から解放してやる”こと。
私、私の物語、人生を、「足し算と割り算」で演算してはならない、「引き算と掛け算」で演算する。「付け加えていったものを配分する」のではなく、「引いていったゼロの近傍に特異点を見つける」のである。

7.withstand

グレアム・ハーマンの「諸部分のうちにおこる何らかの変化に耐えうる(withstand)のであれば、それはもう一方の感覚的側面を撫でるだけではない、実在的オブジェクトとしてのお互いの本当の関係に入ったのである」という言葉を連想する。
匿名性を以てその知の過程に参与する人間は、「社会」においては「相互の感覚的側面を撫であう」だけに留まるところを、「実在的オブジェクトとしてお互いの本当の関係」を生き始めることができる。
そこでは、例えば互いの社会的パーソナリティは知らなくても、より確かな「共鳴性」が実現されているのである。
ここでは、「私が私である」必要などまったくない。

8.リアリティのダンス

私とは、固有のリズムである。私が何かを知るとは、その何かのもつ固有のリズムと共振するということだ。
知るとは共に踊るということであり、物と物とが互いの認知や理解を超えて交差するということである。起こることの一切は、そのようにして起こる。
したがって、賢者とは、踊り方を知っている者のことなのだ。
彼が理に通じているのは、ただ物のもつ固有のリズムを測るために過ぎない。
真の賢者は、ただ、山に分入れば山と踊り、川に入れば川と踊り、人と対すれば人と踊り、雨に濡れれは雨と踊る者のことである。

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