雑然日記2020.07.01

午前中、請求書の作成と振込の処理、月初の金勘定を済ませる。赤字が続けば会社の勢いがなくなるし、黒字が嵩むと税務署に目をつけられる。ちょうどいいバランスシートを保つのは至難の技だ。
おれは、会計関連の仕事は嫌いではない。金勘定には中毒性がある。
例えばバルザックの日記を読むと、作品のことより、いくら儲かったとか、損したとか、金のことばかりが書いてある。数字の羅列だが、読んでいて飽きない。
人は、儲かると気が大きくなるし、損すると血を搾られる思いがする。金は近代人の人生にウィルスのように共生している。
おれの大好きな映画で、及川中監督の『日本製少年』というのがある。そのなかに、こんなようなモノローグがあった。「戦争も貧乏もないと、人は退屈して、生きてても死んでても同じだと感じるようになる」。うろ覚えだが、まあ、意味は合っていると思う。
いずれにしろ、金というのは、近代という時代に畸形的に膨らんだリアリティだ。市場が社会を覆い尽くした近代において、金はLIFE(人生、生活、生)のリアルなのである。
昔相互だったあるツイッタラーは、事細かに日々の生活をツイートしていた。「夕方、自転車を飛ばして、惣菜半額タイムに間に合う。助六250円。メンチカツ70円。夕食320円」といった具合だ。どうもこういうのには、中毒性がある。目が離せなくなっていけない。

どんなことにも表があれば裏がある。金は近代のリアルだが、ただ本当にレアな価値は、容易には交換されることはない。金では買えない価値というものがあって、それを手にするには金とは別種の資格、それと引き換えに差し出すことのできる特別な富をもっていなければならない。その特別な富とは、才能、能力と呼ばれる、文化資産へアクセスするための身体性である。
才能、能力をもった人間が、同じように才能、能力をもった人間にだけ受け渡すことのできる、<口伝的情報>というものがあって、それはいくら金を積んでも買うことはできない。自らの血と肉を時間のなかで発酵させることでしかアクセスできない、クローズドな市場というものがあるのだ。

昼は、そのクローズドな市場の仕事をしていた。この仕事は、金にはならない。ただ、金よりも高い価値を得ることができる。さらに、この仕事は、労働ではない。創造である。遊ぶように熱中しているうちに仕事の形になる。そして、この仕事自体は金にはならないが、それはいくらでも金が湧いて出る打ち出の小槌のような価値を孕んでもいる。
例えば、おれの場合で言えば、上妻君や大林さんのエクリとやっているような活動は、すべてこうした高次の価値をやりとりする仕事に当たる。

夕方、こんなツイートをした。

あるルートで山頂にまでたどり着いたら、下山して今度は別のルートで山頂に向かう。下りて、登って、と何回も繰り返して、ようやくその山の全貌が把握できる。
一旦山の全貌が把握できたら、もうその山を登るのに、ことさらにルートを考える必要がなくなる。
ある対象を充分味わい尽くすほどに把握すれば、それを如何様にも表現できるはずだ。喩の強度というものは、そのような経験を裏づけにして実現される。どうとでも言える、というほどにその対象をしゃぶり尽くすこと。

一回登頂したからといって、その山のことが分かるわけではない。ある季節、あるルートにおける景色が再現できるに過ぎない。
一度か二度登頂に成功したからといって、いつまでも頂上で下を見下ろして悦に入っているような人間は、ついに山自体のことを分かるには至らないだろう。自分の成したことを何度もリセットして、別のやり方で試してみる。そうした反復を厭わないことによって、ようやく人は対象に通じることができる。
その動機を維持させるのは、やはりなんといってもその対象への「愛」であろう。愛する人は、愛のために執着を手放して、何度もその対象を再発見するのである。




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