漂流日記2020.09.16

出岡宏『「かたり」の日本思想 さとりとわらいの力学』(角川選書)。
著者は、日本の伝統芸能を、「仏教的ー芸能的/うたーはなし」の四象限に位置づけ、各象限に<さとり><いましめ><とむらい><わらい>の領域を割り振る。
殊に、「仏教的ー芸能的」の二極が示唆が深い。「仏教的」とは、要約的に言えば、「縁起により生起する無常の実在世界、定・戒により自身をその実在世界に参入せしめる即ち悟達をめぐる思惟、実践」であると定義できる。

それに比して「芸能的」とは何を指すか。
ここで「芸能的」と定められている極は、例えば国学から新国学(特に宣長、折口)がその芯に据えた“理に画されない情”に寄る心性である。
著者は、三浦佑之による「笑いの三分類」を援用する。三浦によれば、日本の笑いには、共感の「ヱム」、攻撃的な「ワラフ」、内的充足の「ヱラク」、の三種がある。

「ヱム」は今日の「ほほえむ」などと同じく、声を伴わない笑いであり、「秘められた関係にある二人が和らぎ満たされた状態」において現れるような、「内側に潜んでいる充足した状態」において現れるような、「内側に潜んでいる充足した生命力や喜びを外部に放出する所作」である、という。
それに対してワラフは声を伴ってなされる他者への攻撃であり、その対象を「共同体(世間)から」「疎外」させるように働く。その意味で「親和的な関係をもたらす<ヱム>とは正反対」である。
さらにヱラクは、「声を伴い喜びを表現する行為」であり、具体的には「天皇から下賜された酒に酔って心が高揚した状態」、あるいは『古事記』の天岩戸神話における、アメノウズメの踊りを「高天原動みて」という仕方で笑った神々の笑いである。
それは攻撃し軽蔑するワラフとは異なり、「ウヅメのいささか滑稽で卑猥な性的挑発に寄り憑かれた神々が、酒に酔ったように歓喜し満ち足りた状態」を表す、という。

恋人同士が性的な充足のなかで互いに微笑みかわすようなヱムと、ある対象を共同体から排除するための嘲笑であるようなワラフを区別するだけでも興味深いが、さらに神々の満ち足りた充溢から溢れ出ずるような笑いをヱラクとして立てているのが肝心な指摘である。

著者は、「生命を充足させる性的な所作と、そこにおけるヱラクとヱムとが、民俗的な芸能を内側から照らす白光なのだろう」と述べる。

その意味で、仏教から来るのではない、芸能のもうひとつの源泉は、<さとり>の対角にある<わらい>の領域にあるのではないだろうか。

そもそも国学がその芯に据える「情」とは、単に喜怒哀楽の感情ではない。
より正確には、感情でありつつも、感情として膠着するものではない。
それは端的に「生命力」といったようなことに近い。生命力=神、のアニミズム的感性の所産であると言ってしまっても間違いではないだろう。
仏教ー芸能の「芸能」の極は、国学ー民俗学がその芯に据えた「情」、人間の感情を超えたアニミスティックな感覚である。

だから、芸能はすべて「鎮魂」にその起源をもつが、その「鎮魂」とは死者の鎮魂ではなかった、と著者は折口信夫の説くところを援用する。

折口信夫「藝能はどういう目的をもつてをつたか……簡単に言へば、それは一種の慰めー鎮魂といふことに出発して来ている……鎮魂といふことは、外からよい魂を迎へて人間の身体中に鎮定させるというのが最初の形だと思いますが、同時に……悪いものを防がうとする形……
威力をもつてそれらの精霊を抑へつけておくといふこと……此が後に藝能になつたものに通有の目的となるらしい……」
アメノウヅメの<踏み轟かす>という行為には、<良い霊威を迎え、悪い霊威を抑えつける>という鎮魂の意味があったわけである。さらにこの<踏み轟かす>跳躍が、繰り返されながら一定の型を獲得したとき、それは「踊り」になると折口はいう。
つまり、アメノウヅメの踏み轟かすという行為が、踊りの始祖であり、そしてまた必然的に、踊りを基本とする芸能の原型である、ということにもなるであろう。

芸能は、アメノウヅメが神々を満たしたように、そこではヱム、ヱラクといった存在の深層から湧出する笑い、性的な充足が肯定される。
そして、その情の肯定は、そのまま<良い霊威を迎え、悪い霊威を抑えつける>という類感呪術的な自然への働きかけに通じている。
日本の伝統芸能は、能も歌舞伎も浄瑠璃も、落語や狂言も、このアニミスティックな感覚を「内側からの白光」として保ちつつ、もう一方の「極」、仏教的な世界観を重ねもっている。仏教的な世界観では、「鎮魂」は、自然の「良い霊威を迎える」のではなく、「人の心をとむらう」という色合いが強くなる。

例えば能は、芸能の根源の光を内に秘めたまま、いわば民俗と仏教を統合しようとした。
能の作劇、パフォーマンスは、アニミスティックな<良い霊威を迎える>鎮魂でありつつ、<人の心をとむらう鎮魂>でもある。

能は死者の霊を仏教的呪力によって鎮めるのではなく、主人公に残された誰かを愛慕する心を、肯定的に聞き取ることによってその慰撫を果たそうとするのである。

能は、その作劇、世界観に仏教的な色合いが濃いが、それはあくまでもアニミスティックな視座において観られた仏教であり(後年、古事記や源氏のうちに漢心ー仏教に回収されることのない「情」を観た国学の観点に通じる)、即ち「煩悩即菩提」の天台本覚思想である。
能だけではない、歌舞伎や浄瑠璃、狂言、落語を解するときも、鍵になるのは「煩悩即菩提」という概念である。
折口が「情深くあれ」といったこととも通じる。情が深く執拗になるほど、そのまま菩提の形をとる。日本の芸能が通有するその境域を、「芸能や詩歌は日本の思想」であるとして、こう述べる。

死を含んだ命の不思議さを隠すことなく、しかも、この世の美しさや生きることの喜びを否定せずに、そこはちゃんと面白く生きる道はないか。紛らわしではなく、痩せ我慢ではなく、面白くー。
日本人は堅苦しい学問ではなく、芸能や詩歌を通じて、そういう思考を続けてきたのだと私は思う。

国学がその価値の軸に置いた「情」ということー内発的に溢れて満たされるヱム、ヱラクーそれはさらに深層を見れば、生命のもつ「和合」への志向ということであろう。芸能の基層には、模倣=遊びを通して、自然が「和する」ことへと促す感染呪術的な重ね合わせの思考が働いている。

「各地に残っている田遊びの感染呪術」とは、一般的には、年頭に、田植えから収穫までの様を演じてみせる農作予祝の行為を指すのだろう。予祝とは文字通り「予め祝う」ということで、例えば田遊びでは、種まきから収穫までの成功を演じることで、実際その通りになることを祈願するわけである。
またそこにエネルギーを注入するために、人間の生殖の力を用いる場合もある。

雨乞い等でもそうだろうが、自然へと働きかける呪術的な思考が、模倣による予祝を通して実現される。“神を相手にした”その役割を演じきる=遊びきるために、人は自らの性的欲望ー和合への意志、或いはエクスタシー(脱魂)の実現ーをも重ね合わせて、没入の度を高めていく。著者が指摘するように、例えば勧善懲悪の物語なども、そもそもはこの「呪術的」な思考のひとつの変奏なのだろう。『水戸黄門』でも、翁=マレビトによる高笑いが、秩序の回復を寿ぐヱラクとして機能しているのである。

歌舞伎は雑多な出自を持つが、そのアイデンティティは、舞台が「絵になっている」ことだ、という指摘も面白かった。「錦絵から抜け出てきたようだ」という評言。なるほど浮世絵は、ただ歌舞伎役者のブロマイドというに留まらず、もっと本質的なところで、歌舞伎と添った媒体として機能したのだろう。
こう見てくると、仏教ー芸能の二極は、仏ーカミの二極ともスライドさせて考えることができる。
日本はそもそも神仏習合の国である。神仏習合とは、カミ=仏と融合せしめることではなく、二様の異なる原理があったとき、それを「二極」として受け容れる中有の原理のことと解した方がいいのだろう。

鎌田東二『神と仏の出逢う国』(角川選書)。
神仏習合の原基には神神集合というベースがあった、と説かれている。習合とは「二様の異なる原理を二極として受け容れる」原理なので、仏の受容においてもその原理が作動したということである。
さて、そのうえで、カミー仏とは、各々どんな「極」として存在しているのか。鎌田はカミは「在るモノ」、仏は「成る者」だと言う。「モノ」「者」と表記が分けられているところに注意する必要がある。カミは「人も含むモノ」であるのに対し、仏はあくまでも「人」である。視座が違う。

カミとは自然界や霊的世界の「神聖エネルギー」ともいえる、存在そのものの諸種の「神聖フォルダ」の威力を根本とした総称であるのに対して、仏はある人間が厳しい修行の果てに悟りを開いて仏と成った者であるという違いがある。
つまりカミは存在の力動、仏は知恵の成就者という根本的な違いがあるのである。

仏教はこの世界を縁起において生起する無常の実在として捉え、人間を戒・定という心身技法によってその実在界の一部として参入せしめる(悟達)ことを目指す。仏とは自ら修行によって実在者と成った者のことだ。
一方、カミとは、ただそこに在るモノ、即ち端的な実在である。
端的な実在とは、アニミスティックな二重身として存在する自然≒カミであるようなカミである。それは相互模倣ー変容の原理をもって存在している。

だから、人間がそのアニミスティックなカミにアクセスするには、仏教的な修行によってではなく、模倣原理を作動させた直観によってそれをなし遂げる。ここにシャーマニズムー芸能の問題系が浮かび上がる。

アメノウズメは「神懸る身体」を持つという点でポゼッション・タイプ(憑霊型)のシャーマンであり、同時に「ワザヲギ」すなわち「俳優」の振る舞いをするという点でプリースト(祭司)であり、アクトレス(女優)であり、ダンサー(舞踏者)である。
カミは「来るモノ」であるのに対して、仏は「往く者」であるという違い。カミは人間の祈りや祭りに感応して、その場に立ち現われてくる霊的神聖存在であるのに対して、仏は、迷いと苦悩の俗世間すなわち此岸を離れて、悟りの世界である彼岸へ渡って往く者であるという違いがある。

日本の芸能が、こうしたカミと仏、情と理、煩悩と悟り、形而上学と自然学の二極の中有において、「煩悩即菩提」という在り方を“思考”してきたのだ、ということ。……

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