雑然日記2020.05.29

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玄関先の水鉢で、今年最初の睡蓮が咲いた。朝は燕、夕方は蝙蝠が飛び回っている。

蛇屋と会う。蛇獲りの元締のような人らしい。日本にもまだ蛇獲りという業種があるのが吃驚だ。祖父さんは被差別部落の中でもさらに差別されていたという話を聞く。「最下層のさらに軒下だよ(笑)」。マムシ4トン積んだトラックを走らせていたとき、山道で事故って「山の生態系変えちゃったこともあるよ。わははは」。もはや武勇伝に収まりきらないカテゴライズ不能の話をたくさん聞いた。とりあえずいっしょに笑っておく。

辻井喬・鶴岡真弓『ケルトの風に吹かれて』(北沢図書出版)を読む。
ケルト社会は無文字社会だった。ケルト美術の目眩く文様の秘密がそこにある。
鶴岡「文字がなかった社会では、線という造形が記号的な役割に無限に近づきつつ、美しい抽象の造形を保っているようです。けれどもいったん文字を持つと事情は変わってきます」「かつては線が、美術と記号の間に成り立つ一種の緊張した抽象性を担っていたのですが、それを文字が取り上げてしまい、線の造形は、もはやモノの輪郭をなぞる具象的なものに堕落せざるをえない」。
ケルト文化は、文字を忌避していた。文字を使うと、何かを考えるとき、時間的・空間的に「枠」を設定してしまうことになるが、「枠」なんてものはこの豊かな世界の蠢きを止めてしまうものだ、と彼等は考えた。
そこで、彼等は、文字ではなく、文様によってこの世界を表象するというスタイルを創出する。文字のない世界では、線は、緊張した抽象性を保ちつつ、それ自体一種のアブダクションとして作動する。非常に面白い。文字の代わりに文様を選んだ文化集団、その精神性に想いを馳せる。

関谷文吉『魚味求心 魚は香りだ』(ちくま文庫)を読む。
読んでいると、とにかく魚が食べたくなる。寿司屋としての経験、さらに生理学的、生態地理学的な知見を総動員して、旨い魚の旨いその訳を説き、描き出す。
「魚はとれた場所で、風味や香味が違いますし、そこのところを理解できるようになると、産地までかなり絞れるようになりますが、その原因は棲む海の環境と、どういう餌を食べて育ってきたかという素性の問題になってきます。天然はこのように、ある程度は餌の選択ができますし、そういった餌で育ったものに本来の味神が宿るわけです。養殖は、あくまで経済性に重点を置きますから、条件に合う餌を与えられ、自分の好餌とする餌が食べられないため、当然その魚がもつ風味が宿りようもありません。」
これは魚に限らずだが、食べ物をいただくとは、その生き物が育った環境と交わるということなのだ。そしてその「味」は、「風味」「香味」と表現されるように、香りに宿っている。
「私にとって香りとは、『いま、ここに』という時空間にゆらぎを与え、はるかな昔や過去の時空へと記憶をよび起こす力を与えてくれることにほかなりません。」

夜、ふらっと散歩に出る。雲間に三日月。おっさんが道で煙草を吸っている。ああいうのをホタル族って言うんだっけ?煙草を吸うのにいちいち家を追い出されちゃかなわんな、と、前はそう思ってたけど、煙草を口実にふらっと外に出ることができる、と思うとそれも悪くない気もする。
ふらっと外に出る。何も起こらなくてもいい。いや、ふらっと外に出る、ということが、既にして事件だ。ふらっと外に出る。いつか、そのまま帰らぬ人になる。今日のところは家に帰る。

昔からよく、死ぬことを考える。希死念慮ではなく、メメント・モリ、死を想う、というやつで、瞑想のようなものだ。日々の生命活動からくる澱のような疲れが取れて、気持ちがさっぱりする。

飼い猫のポンタは13歳になる。猫は年を取ってくると気難しくなるようだ。他の猫が自分のお気に入りの場所に居るとすぐ猫パンチをくらわすようになった。そして人懐こくなる。おれがベッドに入ると、必ず枕元に来て喉を鳴らす。顔に手を伸ばしてきて猫球で口を塞ぐ。意味はわからない。猫のやることは、ほとんど意味は分からないけど、口を塞がれると、なんだか胸が詰まる。自分の感情の意味も分からない。

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