漂流日記2020.09.02

養老孟司が、ある自殺した少女の日記を読むと人間関係のことばかりだった、もっと自然へと気持ちが向いてれば、あるいは自殺に追い込まれることもなかったかもしれない、と語ったことがある。
長沼毅は『考えすぎる脳、楽をしたい遺伝子』(クロスメディア・パブリッシング)のなかで、人間の脳は自然のなかにあってこそ、最もいいコンディションで作動する、と論じた。
人間の脳の特徴とは何か。メタ認識の能力だ。色んなことを脳内宇宙で組み合わせて、今までなかったことを作り上げる能力である。例えば弓矢の発明は、脳のメタ認識があって初めて可能になったー「しなる枝と弦に、それぞれ役割を持たせて組み合わせるのは、メタ認識がなければできません。これは他のサルにはできなかったものです。ネアンデルタール人も石器しか作れませんでした」。
スタンフォード大学のある研究者によると、今から6,000年前、文明ができた頃、脳は最もいいコンディションだったという。そして、文明の発達とともに、人間は脳を自然に対して使うのをやめ、その能力を人間関係に使うようになる。途端に脳は「空回り」し始める。「悩み」や「不安」といったものが、脳の中でグルグルと堂々めぐりしてしまうようになる。これは脳を人間関係に適用した結果引き起こされた「バグ」である。
脳は遺伝子的にその作動をある程度決定づけられたひとつの「臓器」でしかない。臓器は一定の自然環境のなかで、初めて正常に作動する。至極当然の理屈である。脳を自然のなかに再定位すること。
これは視点を変えて言い換えるなら、脳を、主体/社会の関係力学においてではなく、身体の摂理において作動させるということを意味する。

近代社会のもっとも質の悪い嘘は、タブラ・ラサ、人はみな平等に生まれるという幻想であろう。そんなわけはない。人はみな個性的に生まれる。個々の人間の特徴は、ある程度遺伝子のばらつきによって決定されている。遺伝子にばらつきがあるというのは、バリエーションが増えるほど、種としてあらゆるチャンスを試すことができるという理由によるー「あちこちで新しい可能性が生まれては消えていく。もはや遺伝子そのものが好奇心を持っているかのように、あらゆる可能性を試すという壮大な実験が自然界では行われているわけです。そのバリエーションの結果として、我々は一人一人遺伝子の風景(ランドスケープ)、すなわち「個性」を持っています」。
身体能力はもとより、我々のメンタルの傾向性も、多くはこの遺伝子のばらつきに起因して、ある程度決定されている。例えば、歌がうまい、スポーツが得意、それから寿命、健康状態、社交性が高いか、孤独を好むか、といったことに至るまで、人は「そのように生まれつく」のである。

人の身体は、「平等」に生まれついてはいない、「個性的」に生まれついている。そして、自分は自分の身体でしかない。他者からの評価・比較とは別に、あるがままの自分、身体としての自分を感じて、それを受容すること、生物は皆、そのように生きているのである。
社会的な要請、アイデンティティは、脳がバグったところに浮かぶ幻でしかない。例えば従来、医者の子供は医者になることを強いられる社会的風土があったが、医者の子供だからといって医者に向いているわけではない。遺伝子のばらつきは、親ー子と継承されるわけではないのだー「やりがいやら、生きがいやら、仕事の格好よさとやらも、やはり脳が見せる幻です。自分の脳が言っていることは大体トラブルのもとですから、それは無視してしまって、ただご飯を食べ、休息が必要なときは休めるような、体が一番心地いい状態で働くのが一番いいことです」。

脳のバグを抑え、脳を身体において的確に使うこと、そのために自らの身体の個性を知って、それを受け入れること。
どこまでのことが、生まれ持っての身体によって、ある程度傾向性が決定されているのか。
例えばオキシトシンの分泌量、それを受け取る受容体の数は遺伝子によって決まっている。それで、愛情を感じやすいか、感じにくいかが決まってくる。愛情を感じにくいのであれば、無理に感じようとしても無理だ。その身体性を受け入れて、孤高のパーソナリティを生きればよい。
自分は冷たいのではないか、と悩むのは馬鹿げているということだ。脳が人間関係に適用されるとそのような無駄な「悩み」や「不安」を生み出す。悩む必要はない。あなたは種のバリエーションとして愛情の交換とは別の「好奇心」を生きるようにセットされている。誰もが愛情深くある必要はないのである。
自らの身体を、その個性も含めて自覚して、受容すること。これは、身体を超えようという欲望、幻への執着を無くすということに繋がる。
例えば、個の身体は必ず死ぬ。個であるということは、死とともにあるということだ。そのこともやはり、受け入れ、肯定するー「動物界では、そんなとき(食えなくなったとき)にも無理しないで、死ぬときは死にます。気候変動などの外部要因でエサがなくなったときにも、粛々と、淡々と、無理もしないで死んでいきます。生物として、この生き方が一番の根源です」。



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