おれは弱いので、

おれは弱い。強いということがどんな状態なのかはよくわからない。だが、自分が弱いことはわかる。生きていくのがしんどいと感じるからだ。
強いということがわからないから、強くなろうとは思わないが、自分の弱さに振り回されるのはいやだ。避けたい。となれば、自分の弱さを熟知するしかない。
何かあったとき、ー例えば、ひどく忙しいとき、誰かに不公平な扱いを受けたり虐められたりしたとき、事故や災害など不測の事態に見舞われたとき、病気になったときー、自分の弱さが、どんなふうに自分の言葉と行動を“乗っ取ってしまう”のか?
おれは、どんなふうに悪あがきするのか?偽物の期待にすがりつこうとするのか?他人に嫉妬したり、八つ当たりして、貶めようとするのか?妄想的な思考にすべり落ちてしまうのか?
自分の感情、心の動きを知っていれば、すこしは自分の弱さに振り回されることもなくなるんじゃないか。

言葉は、自傷的な動機で発せられることもある。「どうでもいい」と吐き捨てるとき、どうでもよくないと思っている心が傷む。それは胸の辺りに、圧迫感として感じられる。そんな身体の感覚に、いつも意識を向けるようにした。
嫉妬や承認欲求、疲労や苦痛を否認しようとして発せられる自傷的な「どうでもいい」ー例えばそんな言葉が吐きたくなったら、いったん言葉を飲み込んで、「やれやれ」と弱くて自己中心的な自分の相手をしてやることにした。
「どうした?何が欲しい?」
問答をくりかえして、最終的に、「惨めな気分だ。さみしくて、辛いのだ」ー自分自身からそんな言葉が引き出せたときには、もうねじれた気持ちは直って、すこし身体が楽になっている。

大きく息を吐く。骨盤をゆるめて、肩の力を抜く。美味しいものを食べて、疲れすぎないくらいに運動して、たっぷり眠る。
おれの場合は、それである程度のメンテナンスは完了である。
それで気持ちが晴れることも、晴れないこともある。
だが、気持ちが晴れなくても大丈夫。「大丈夫」と感じられればいいのだ。

おれは弱いので、自分が傷ついただけ、誰かを傷つけようとしてきた。刺々しい言葉を吐いたり、冷たい態度を取ったり、斜に構えて人のことを斜め下に見下したりしてきた。
学術書を人一倍読んで、たくさんの知識をつけ議論に強くなった。人のあまり読まないような本を読んだり映画を見たりして、趣味の洗練を誇った。ヘビーな経験を重ねて、複雑な状況を制御する政治力を身につけた。そうして、自分がタフになったような気がしていた。
だがけっきょくのところ、冷静な外見は、引き攣った、ヒステリックな硬直で保たれていたのである。
あるとき、ふと、“本当に”どうでもよくなった。引き攣ったようにして踏ん張るのをやめたら、“本当”にどうでもよくなった。
強いということがどういうことかもわからずに、おれはただつっぱっていただけだったのだ。
どうやら、おれは、そんなにたいした人間ではないらしい。
自分は弱くて、すぐに嘘をつくから、自分の言うことを真に受けるのはやめよう。
自分は、弱いのだから、もっときちんと寄り添ってならなければならないようだ。

おれは自分自身に対して、冷たくなって、優しくなった。自分の言うことを信じなくなって、そうしたら自分の感じていることに開かれていった。
それは、人に対しても同じことだ。人の言うことを信じなくなって、すこしは人に対して優しくなった。人のつく嘘を赦せるようになった。

認められたいと主張するのをやめ、愛されたいと物欲しそうに求めなくなったら、自分に向けられている微笑みに気づけるようになった。
ふつうに、人に笑いかけることができるようになった。笑いかけたとき、つれなくされたり冷たくはじかれても、たいして傷つくということもなくなった。
自分にも他人にも、その都度の都合やコンディションというものがある。自分も他人も、そんな折節の事情のなかで、他者に接しているにすぎない。
おれは弱い。生きていくことがしんどい。でも、もしかすると、「しんどい」ことが、もうどうでもいいのかもしれない。
今日も、誰かが笑いかけてくれる。
おれも、誰かに笑いかけていられるように、せいぜい美味しいものでも食べよう。

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