映像日記2020.10.13

松井至さんが撮ったドキュメンタリー「東京リトルネロ」を見た。NHKBS1で放映されたものだ。今週の土曜日に再放送されるようなので、見ていない人はぜひ見てほしい。
これ、できれば、コロナ禍のなかで歌舞伎町の住人や在留外国人にフォーカスした「社会派ドキュメンタリー」とか、そういうラベリングはいったん外して見てほしいと思う。
そこで、何が見えるか。聞こえてくるか。

タイトルになっている「リトルネロ」。<声>。それは例えば「鳥のさえずり」のようなものだ。
鳥は、さえずりによって、自らのなわばりを主張する。「私はここで生きています」という主張。
フェリックス・ガタリは「主観性とは、リトルネロのようなものとして出現する」と書いている。

これを見る前、松井さんから「できれば大音量で視聴してください」とメッセージをいただいたので、ヘッドフォンで大音量で視聴した。
全編から<声>が聞こえてきた。
登場人物たちが発する言葉は、その内容だけであれば、ネットや雑誌で読むこともできる種類のものだ。でも、ネットや雑誌であふれている言葉からはこんな<声>は聞こえてこない。
彼らが何を主張しているのか、その言葉の意味とはべつに、彼らの<声>からは「私はここで生きています」という<体温>や<震え>のようなものが直に伝わってくる。
その「直に」ということの、情動に訴えかける力は絶大だ。変に盛り上げようとしたり、大げさなところはどこにもないつくりなのに、見ている間ずっと、自分の体の奥の方が小さく震えているのを感じていた。怒りとも、哀しみともつかない、「振え」。

この作品では、製作者の声高な主張は何もされていない。ただ、彼らの<声>、<相貌>が、創意にあふれた的確なカットと編集で提示されているだけだ。
今日こんなツイートをした。このドキュメントを見て、考えて言葉にしたツイートだ。

語らないことでしか、伝わらないことがある。
語るという行為が、覆い隠してしまうようなこと。
ただ示唆して、その示唆から各々が想像する、そのことを通してしかつかめないようなこと。
経験。

経験はなぜ語ることで覆い隠されてしまうのか。語る時人は主体間の意味のやりとりを前提する。だが経験はそうした図式に収まらない、意味に置き換えられないのである。経験はただ言葉の相貌として示唆することしかできない。言葉の相貌は意味のような輪郭を持たないが、人の体に、魂に直に響く。

何か強く訴えたいメッセージがあるときこそ、語るのではなく、示唆する形を探らなければならない。
言葉を、一義性に縮減するのではなく、むしろ多義性に解放してやらねばならない。
他者の想像力を信頼するしかない、それに賭けるしかないのである。

このドキュメントには、もちろん、強い政治的なメッセージが込められている。コロナというパンデミック自体はたまたまの災厄でしかないが、危機にみまわれたとき、私たちの社会はどんなありさまを呈するのだろうか。
私たちの社会は、歌舞伎町の住人や在留外国人といった、ある有徴性を帯びた社会的弱者を平然と切り捨てる。近代の社会に生きる人々は、無条件の生存権を持っているのではなかったか。そうであれば、もっとも優先して手当てが必要なのは、生存が危ぶまれる彼らのような人々のはずだ。この国は生存する権利に条件を付そうとしている。それでいいのだろうか。最低限の衣食住は無条件に保証される。その生存権をないがしろにされて、みんな、不安ではないのだろうか。すくなくとも、おれは、そういう社会に生きていることをとても不安に感じる。

だが、このドキュメンタリーでは、こうした政治的主張を、声高に「語る」ということはしない。おそらく、そうしたことを声高に語ったところで、伝わらない人びとには決して伝わらないのだ。「それでも語らなければならない」といって語るのは、ずいぶんナイーブな態度であるように思う。
それよりも、彼らの<声>を「作品」にした方が、間接的なようで、じつはずっと波及力が強いように思う。
匿名の他人について切り捨てるのは簡単でも、<声>を持つ、顔の見える「その人」を見捨てるのは難しい。
「歌舞伎町の住人」や「在留外国人」という「記号」を排除するのは簡単だが、体温をもち、<声>を発するその人を、あなたは切り捨てられるんですか?、という無言のメッセージ。それは、無言だからこそ、人々の想像力に訴えかける力をもつのである。

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