漂流日記2020.09.21

今日のキャスで話したことの要点です。方条遼雨『上達論 基本を基本から検討する』(×甲野善紀 PHP)に即していますが、引用部分と自分のコメント部分が区別なく書かれているので、これを読んで興味を持った方は原文をあたってください。


・安易に「基本」を定めない。

下手な動きを繰り返せば「下手な動きを支える筋肉」が増強される。体内に「下手な動きを支える道筋」がどんどんできてしまう。
何かを習得するとき、「特定分野に熱心に取り組んだ人ほど習得が遅い」傾向がある。それは「特定の動き」を植え付けてきた経験が、未知の世界に対する「対応力」や「習得」の障害になっているためだ。未知への対応力を鈍らせてしまう「繰り返し」は、有効性よりその弊害の方が大きい。
そういえば、落合陽一も、算数の「ドリル」をやると、創造性が阻害されると言っていた。受験の合格をゴールとするなら、例えば公文のような反復練習は有効かもしれない。だが、受験の合格は、その後の研究や仕事の通過点に過ぎない。そもそも受験勉強というのは、非常に特殊な学習だ。頭の使い方を受験勉強に最適化すると、その後、その癖を解体するのに時間がかかる。受験勉強に最適化された頭を解体できずに社会に出た人間は、「無能な受験エリート」として、用の無いプライドばかりが膨れ上がる。学歴だけを武器に社会を渡って行けるのは35歳くらいまでであろう。


・大きく学んで、後から細部を整える。

まず基本を習得して、次に応用に進む、という学習スタイルは誤りである。それでは、どのような学習プランを立てればいいか。「大きく学んで、後から細部を整える」。例えば幼児が言語を習得するときのことを考えてみよう。幼児は、細部や厳密さは二の次に置きながら、「文法」も「単語」も自然と含まれた「言語体験」を「一通りなぞっている」。そして「上塗りするように」経験を重ねていくのである。
ペンキで広い壁を塗るときのことを想像しよう。端から順番に「仕上がり状態」の精度と厚みで塗り進めたら、相当な熟練の職人であっても、全体はごてごてのムラだらけになってしまうだろう。
まず、大づかみで対象をつかむ。できなくてもいいので、まずやってみる、という態度が必須である。そして、なんども「上塗り」していく。例えば、武術であれば、まず技を受けてみる、というところからスタートする。自転車ならまたがってみる、水泳なら水のなかで浮いてみる、というところからスタートする。本を読むなら、まず、入門書ではなく、該当分野の主著から手をつけるとよい。


・解釈と吸収は違う。安易な解釈をしない。

解釈とは「体験した情報を、自分自身に翻訳する」という行為である。これは、「自分の観点」という物差しで、「元の情報」を変形させてしまっているということだ。つまり、「元の情報」を「歪化」「劣化」させてしまっている。
「元の情報」を、そのまま吸収するには、「習得」という「足し算」ではなく、それまでの自分自身の理解の物差しや鋳型を捨てるという「引き算」が重要になる。
上達とは「それまでの自分」を更新する作業だ。「更新」とは「上書き」である。上書きとは不要なデータを「消去」し、「塗り替える」ということを意味する。消去、つまり、忘れる能力。
人は、隣接・類似した状況を「同じもの」として処理する傾向にある。行動経済学でヒューリスティックと括られる能力だ。この能力は、状況判断にかかるコストを節約し、迅速な思考の整理と行動に繋がる。その代わり、認識の精度は格段に低下し、大ざっぱになる。本来未知の状況のはずなのに、それに類似する既知の鋳型にあてはめて「理解」してしまう。つまり未知を既知に繰り込んでしまう。
「引き算」を覚えた人間は、「まっさら」になって未知の状況に対することができる。そうすれば、「元の情報」は劣化しないまま、未知は未知のままの状態で認識される。


・「元の情報」はつねに「ランダム」で「アナログ」である。

本来、この世の事象はすべて「ランダム」で「アナログ」である。あらゆる事象には「同じ瞬間がない」、つまり「ランダム」だ。
そして、明確な「区切り目」をもたない。連続している。「アナログ」である。デジタルは「区切り目」を明確にするにあたって、その「外側」「端数」を次々と削っていく。言葉もそうだ。言葉は、例えばカラスを「黒い」と表現した瞬間に、カラスを「黒」という枠のなかに閉じ込める。カラスをよく見れば、それは純粋な黒色はしていない。だが、「黒い」と言葉にしてしまった瞬間、その羽の光沢に滲んで浮かぶ無限の色彩を切り捨ててしまうことになる。
世界を「数値化されたもの」「言語化されたもの」ばかりで捉えていると、膨大な情報を見失うことになる。
「元の情報」を「解釈」するとは、本質的に「アナログ」な世界を、「数値」や「言語」という、いわば「嘘」で眺めているということになる。


・秀才 VS 野生の知

秀才とは、人の手で作られた「記号」や「学問」をひたすら自分に植え付けることをやってきた人間だ。
彼らには何が欠けているか。アナログな情報をアナログなまま扱う「野生の知」である。
先進的な感覚で成功をおさめているデザイナーや芸人、芸術家の人達の幼少期の話の中に、豊かな自然の中で過ごしたという経験は、意外なくらい多くみられる。そうした人たちの中にある「都会的感覚」さえも、その基礎が自然の中で育まれているのである。自然環境とは、究極の「ランダム」で「アナログ」な世界である。そこで、アナログな情報をアナログなまま扱うことを覚えた人たちが真に創造性を発揮できる。
自然に向き合うには、まずは自分を「まっさら」の状態にする術を身につけないと、じっさい予断は危険に直結する。
秀才は既知の環境の中で、記号化された情報を明確化したり整理したりすることには長けているが、未知の環境の中で、記号化されていない「元の情報」、「ランダム」で「アナログ」事象そのままを扱うことには馴れていない。彼らはつねに、事象の近似値を扱うことができるだけで、事象の本質に通じることはない。
数字・言葉・既存の概念などはこの世を明確にしてくれると同時に、「嘘」「近似値」であることを忘れると、世界の豊かさから永遠に疎外されてしまうことになる。
逆に、自然や人など、「生」の事象から情報を取る体験を十分に経た「野生の知」の持ち主は、デジタルな文字列の間からでも、元の情報を読み取る能力が高まっている。いわゆる「行間を読む」ことができる。作家は、大量の「言葉」を駆使して、文字を通じてその「行間」を如何に伝えるかに腐心している。「事象の手触り」を生で感じられる能力の高い人が書いた文章の「行間」には、豊かな「情報」が含まれている。また、「アナログ」主体の情報収集能力が磨かれた人は、「行間」から豊かな情報を読み取ることもできる。
本質的に「表現」とは、「行間」と「行間」のキャッチボールなのである。野生の知に長けた者同士のあいだの言葉のやりとりは、つねにアナログ↔デジタルの相互交換である。


・野生の知は、喩えを駆使する

「アナログ」な「元の情報」を収納する行間をつくるには、それに見合った距離感のある二者を結びつけなければならない。一見無関係に見えるくらい「かけ離れた」二者が結びついた時ほど、豊かな「行間」が生まれる。
喩えは、かけはなれた二者間をつなげる能力である。この喩えを駆使して思考する能力を想像力という。想像力が、すべての創造性の母胎である。
秀才の、セオリーや知識からの「引用脳」だと、自分の引き出しの中からその状況に似た物を取り出し、「当てはめる」対応になる。しかし、「似たもの」はどこまでいっても「似た物」でしかない。永遠に「一致」することはない。一致させるためには、その場に合わせて「作り出す」「生み出す」ことが必要になる。
「ランダム」で「アナログ」な状況のなかで、ありわせの素材をつかって、未知の状況に的確に対応する知恵を創造しなければならない。「野生の知」者とは、ありあわせの材料で、状況という来客に応じて、つねにブリコラージュしつづける者の謂いである。


・喩えー想像力ー創造力を駆使するには、身体に開かれた知性をもたねばならない。

さて、喩えー想像力の駆使とは、つまりイメージの世界で行為すること、受動的能動というモードに入るということだ。「イメージの世界で行為する」ときの知のあり方が身体知である。
人が「動いている」以上、分野を問わず通底した「共通項」となるのが、この身体知にかかわる原理である。
この原理の質を高めると、あらゆる分野、あらゆる行為の質が自在度が上がっていく。「本を読む」「パソコンを打つ」「食事をする」など、おおよそ「運動」と認識されない行動でも、実質「からだを動かさない」行為は何一つない。じっと座って瞑想しているときも、「座る」という姿勢を保っており、その「座り方」の質が変われば瞑想の質も変わっていく。


・身体知は、心身一如の領域で作動する。

身体知は、「イメージの世界で行為するときの知のあり方」と定義した。ここでイメージとは、現実から遊離した空想の世界ではない。現実もまた「イメージの世界の一部」である。
イメージは、物と心の世界のどちらにも属している。どちらにも属して、双方を架橋しているといってもいい。そもそも物や心といった領域が、イメージの様態の二極であると言ってもよい。このことをつきつめて考えていくとアンリ・ベルグソンがその哲学において思考した領域になっていくが、ここでは哲学的思考への逸脱は避ける。
あくまでも体感レベルで考えていこう。確かなのは、「思考の柔軟性と運動の自在性はリンクしている」ということだ。どちらが原因で結果という因果関係ではない。相互間をループする関係である。だから、心が偏ると運動の自在性は損なわれ、身体が硬くなると心がさらに偏っていくという「負のスパイラル」を生む。逆に、心が柔軟になれば、体の自在性が高まり、体の自在性の高まりは、さらに心を柔軟にする、という「自由のスパイラル」を生むことにもなる。
それでは思考の柔軟性とは何か。それは「許し」である。「偏見」とは「許せないこと」だからである。例えば「女性は男性より劣っている」という偏見の持ち主は、優秀な女性が許せない。「年長者が偉い」という偏見の持ち主は、年下が自分に意見することが許せない。
許せないことがあるということは、「許せる」人が簡単に行えることを、自分は「できない」ということだ。つまり、「許せない」分だけ、自分の行動範囲を狭めることになる。自分の行動範囲を狭めるとは、「生存範囲」を狭めるということだ。「許し」とは、自分の「運動能力」と同時に「生存範囲」を拡張する行為でもある。思考の柔軟性は、ひいては自分を「救う」ということに繋がる。


・心の癖が「偏見」であり、肉体の偏見が「癖」である。

両者は対応関係にあり、両面から解消していくと効果的である。心の偏見は強烈な「依存」であり、拡張しようとすると激しい痛みを覚える。他の人が当たり前に「許せている」ことを自分は許せないし、許したくもない。許している人間を「馬鹿」にすら感じる。呪縛を信念と取り違え、自分を二重、三重に呪縛している。
例えば、その人の「許せない対象」が、現実に個人的、社会的に害がある存在だとしても、いちいち自分の中で激しい怒りを生み出し、それと戦っていては余分な一手間が加わってしまう。「怒り」と戦いながら、「相手」とも戦わなければならなくなるからだ。これは「問題への対処」の精度を落とすだけのことである。政治運動では、「怒り」によって連帯することを煽るアジテーターが多いが、これはじっさいのところ、「問題への対処」の精度を落としているだけのことだ。彼らや彼女たちは、「DV依存」と同じメンタリティで「正義」にアディクトしている。だから、多くの政治運動は「当事者の自己満足」以上のものにならない。問題への適切な対処のためには、「怒り」はつねに邪魔なのである。例外はない。
心は穏やかに、成すことは淡々と成せばよいのだ。怒りに任せて斬りかかってくる人間よりも、にこにこしながら心穏やかに自分を殺傷しにくる相手の方が怖い。殺傷能力がずっと高いからだ。
許しとは我慢ではない。心底許すことだ。これはとても難しい。痛みを超えていかなければならない。まずは日常、気持ちがささくれだったとき、そのささくれを自覚する所から始めていくといい。ささくれが「怒り」として何かしらの対象に向かう前に、自分の身体のなかに解消してしまうのである。
さて、心の癖が偏見とすれば、肉体の偏見が「癖」である。
肉体の「癖」をなおしていくには、どうすればいいか。その根本原理は「不安定を使いこなす」ことを覚えることである。甲野善紀の身体運用の術理は「ねじらず」「うねらず」「ためず」「蹴らず」、そうして「不安定を使いこなす」ことをその原理としている。ここでは、武術から離れて考えたいので、例えば、「歩く」という行為を例にとって考えてみよう。
身体の運用には、「筋力系」と「重力系」とがある。歩行を例にとると、「動いた結果体重が移動している」のが「筋力系」の身体運用だ。「足の筋力で地面を強く蹴る動き」によって前方に進む。「重力系」の身体運用はその正反対である。重力系の身体運用では、大地を蹴らない。重心移動で、前に進む。より具体的には、前方に倒れこむ時の「不安定」を使用する。人は転倒しそうな時、無意識に足を踏み出してバランスを取ろうとする。この時よろけてしまった「数歩」は、前身のための筋力をほぼ使っていない。この場合、自分を「動かしてしまった」動力源は自重だ。この不安定のエネルギーを意図的にコントロールするのが「不安定を使いこなす」ということである。
重要なのは、肉体の「癖」とは、特定の筋力に依存した状態のことである。不安定を使いこなすことを意識するとき、特定の筋力によりかかったような体の状態から、自分が全身を協働させて動いていることに気づくはずだ。
何をやるにも心身の偏見と癖を取り除いて事に臨むことで、つねに淡々と問題を解決する構えができてくるだろう。


・心身、そして人生における「余計」を取り除く

さて、つまるところ、ここで言われていることは、身体においても心においても、人の学習や上達を妨げるのは、ほとんどの場合、能力や才能や努力の不足ではなく、何かしら余計なことが阻害していることに起因するということである。足し算ではなく、引き算が重要だ、ということである。
「身体」における「余計なこと」は癖や力みであり、「心」における「余計なこと」は偏見や闘争心や期待、プライド。
そして人生における「余計なこと」は夢や希望、目的、目標である。夢や希望は、一般的に素晴らしいもの、美しいものとして流布されているが、それらは「その時の自分」という小さな存在が作り出した「設定」に過ぎない。その時の知性や知識、能力の中で生み出された願望を強烈に固着させたものが夢や希望である。それは一時期人を強烈に突き動かすエネルギー源にもなるが、同時に自分自身にかけた「呪い」でもある。夢は身体における「筋力」のようなもので、厳しい筋力トレーニングで金メダリストになった人もいるし、夢の力で億万長者になった人もいる。しかし「筋力」に代わる「別の力」があるように、「夢の向こう側」にも「別の力」が控えている。無駄を省き、「動き」が理に適ってくれば、筋力に頼らずとも「別の力」が自ずと働く。それは人生においても同じことで、余計なことをしなければ、必然へと向かう「大きな流れ」が見えてくる。そこでエゴイスティックな損得勘定などの目先にとらわれると、「大きな流れ」に逆らうことになる。それが身体における癖や力みとなって凝り、心における偏見となって凝り、人生における夢や希望となって凝る。
これはあるいはすこし「神秘的」なことに聞こえるかもしれないが、あらかじめ断っておくと、「神秘」でもなんでもない、「必然」なのだが、余計な夢や希望をもたなくなると、「大きな流れ」の気配が感じ取れるようになる。そうすると、必要な出会いや必要な出来事が、向こう側からやってくるようになる。おそらくは、それまでも、同じ事象は起こっていたのだが、大きな流れのなかで、何が「必然」なのか、その気配を察知できないうちは、そうした「意味のある偶然」は起こらないのではないか。
夢や希望をもたない、というのは、もちろん、絶望することではない。夢や希望を諦めることでもない。「諦める」というのは、何かをやろうとしているから「諦める」ということがあるわけで、やろうとしていなければそもそも諦めるということもない。「諦める」のではなく、「やめる」こと。「余計なこと」を取り除くこと。森羅万象、というと、話が大きくなるが、ともあれこの世界では、自分も他人も、それをとりまく環境、市場や自然や、すべての事象が絶え間なく動いて、ある「流れ」をつくっている。その「流れ」が、自分の心身を「動かす」。そのゾーンに入っていくには、くりかえしになるが、「余計なこと」を引き算すること、無駄な力を抜くこと、脳はもちろん心も志向も、肉体をふくめたあらゆる要素が「でしゃばる」ことがないよう、全身全霊のバランスをとることである。

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