雑然日記2020.06.28

昨夜の彼女とのLINE。来週初め、久しぶりのデートというのに、生理が来てしまったという。がーん。「ごめん、予定より遅れちゃって」。そうなんだ?「2週間も!」2週間も?「病院に検査しに行っちゃった」えっ?「陰性だったけど。で、今日、生理来た」。そうか。父親になるところだった。「いや、Mは避妊してるじゃーん(笑)」。あー、そうだよねえ(笑)。……ん?「……ん?」

6時過ぎに目覚めると雨がざんざん降っていた。雨だれの不規則なリズムを聴きながら二度寝する。7時過ぎに目覚めた時には雨脚は弱まっていた。
空気が冷えていて、ポンタとソトが胸と腹の上に乗って餅のように溶けていた。

二度寝した夢で、漫才師になっていた。どこかの寄席。ブンチャカした出囃子がかかり舞台に出ていく。こんにちはぁ。加藤右巻きでえす。小林左巻きでえす。二人合わせてエスカルゴでえす。いや、それにしても毎日蒸し暑いでんな。かないませんな。こらこらちょっとあんた、ツノが出てまっせ。いや、あんたこそ、ヤリが出てまっせ。シーン。

今日は3日分のお弁当を作って母に届ける日。持っていくと、いつものように過剰な感謝の意を示して、「ちょっと待って」と、箪笥から封筒を出してきた。母は、何かというとおれに金を渡そうとする。遠慮すると、悲しそうにするので、受け取ることにしている。受け取って、普段使っていない口座に入れてある。もうすぐ一千万くらいになるはずだ。一千万になったら、「仕事がすごくうまくいった」ことにして、母の口座に振り込んでおこうと思っている。それで、またそこから、20万、30万と金を貰えばよい。

カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』を読み返す。この本のなかに、「じつは、この世界の基本原理には含まれず、何らかの形でただ「生じる」にすぎないものはたくさんある」というくだりがある。
どういうことか。
いくつもの例が挙げられる。
例えば、「高い」とか「低い」ということを考えてみる。
「『高い』とか『低い』ということは、どこから来ているのか。私たちにはすっかりお馴染みのことなのに、世界の基本的な方程式には含まれていない。これらは、すぐそばで私たちを引っ張る地球に由来している。『高い』とか『低い』というのは、宇宙のある種の状況において、近くに大きな物体がある場合に『生じる』のだ。」

同じように「猫」もまた「現象」である。
「猫は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で『生じ』、繰り返し現れる複雑なものだ。」
猫がそうであるなら、もちろん、人もそういうことになる。猫も人も、「実在」するのではなく、繰り返し「生じる」。

高い、低い、猫、人、…これらはある関係性、局所的なパースペクティヴのなかでのみ「生じる」。
実在の布置から生じる局所的な効果として「起こっている」。「宇宙の方程式」とは、「人という効果」が局所的な視点から透視した特殊なパースペクティヴにおける実在の値ということになる。

生物の個体というのは、実在ではなく、現象でしかない。これはどういうことか。生物の個体は、宇宙と「相即的」ではないということだ。言葉を換えれば、個体は「死ねば無に帰す」ということである。
しかし、個体がこのように現象していなければ、この世界は、このようなものではない。現象と実在は、この世界において、分かち難く相関している。この世界、すなわち、今、ここ。

若い頃、ときどき、漠然とした希死念慮にとらわれたことがあった。具体的なきっかけがあったわけでもない。何か、行き詰まっている感じがあった。
「死にたい」は「生きたい」だ。より正確には「思うように生きたい」ということだ。どう生きたいとも思わなくなると、死にたくもなくなる。死について、関心を失う。もう長い間、自分の生き死にについて考えることもない。今生きているので、今、生きる。この世界、今、ここに、生きる。

若い頃は、甘えるのが怖かった。女であれ物であれ観念であれ、何かにもたれかかるのが怖かった。もたれかかっていると、つっかえ棒が外されれば倒れる。それが怖くて、どんなときもひとりで立っていた。
でも、改めて考えてみれば、倒れたら泥を払って起き上がればいいだけのことではないか?だから、あるときべつに倒れてもいいかと思ったのである。本当にそれだけのことか、とよく考えてみたが、どうも本当にそれだけのことだった。
女に振られたら、惨めに執着して、彼女を思ってオナニーする。猫が死んだら、とめどなく泣く。それだけのことだ。この世界、今、ここでは、大袈裟なことはなにもない。

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