アナロジーの散歩

現代では、70代で死ぬと、早死にしたような扱いを受ける。80代まで生きるのがあたりまえのようだ。
だが、身体のサイズから計算すると、本来ホモ・サピエンスの寿命は50代が妥当なものであるらしい。60代を過ぎて生きるのは、おまけの時間を過ごしているということでもある。

真夜中、町を散歩する。ヘッドフォンでサティのピアノ曲を聴く。昼間聴くよりも音の粒立ちがいい。夜は、町が静かだからだろう。一日が終わった後の、おまけの時間。

生物学的な観点に照らせば、子どもが自立した後の時間は余生である。それは、もはや遺伝子の拘束を受けない時間のことだと定義できる。

仕事の合間、すこし時間が余って、カフェで行き交う人達を眺めていた。こんなに人が行き来しているのに、群衆は無音である。
皆、それぞれに人生を抱えている。人生を抱えているとは、自分の過去と未来のなかにいるということだ。ここにいるようで、誰もが自分の時間軸の中にいて、だから今ここには誰もいない。他人が他人であるとはそういうことだ。

例えば、今夜隕石が落ちてきて、世界が滅んでしまうとしたら、駅を行き交う人びとは、もう自分の人生を継続する理由もなくなる。皆、どうするだろう。周りの人と話し始めるだろうか。抱き合うのだろうか。笑い合うのだろうか。それでもやはり、それぞれに自分の人生のなかで、ただ絶望していることを選ぶ人が多いのかもしれない。

気が触れるというのは、人生から逸脱することではなくて、人生の軌道を踏み外すことができなくなってしまうということである。

過去も未来もフィクションだ。遺伝子の見せる幻覚である。

手を繋ぐというのは、手と手を接触させることではなく、手で、手の先に繋がっている体全体を探り合うということだ。
生まれたての赤ん坊の手は閉じている。未知の世界で、何かをつかもうとして何もつかめない。自分がつかむ代わりに、その体ごと誰かに抱きしめられる。

人生の始まり、不安の始まり、愛の始まり、この世の始まり、……

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