雑然日記2020.06.25

昨日、こんなツイートをした。

「丁寧な生活」というやつが、どうにも窮屈に感じられるのは、生活の一切を自分の趣味や、制御に塗り込めてしまうと、そこには自分にとって価値の認められない他者の入り込む余地が消え失せてしまうからだ。
クオリティ・オブ・ライフという概念の貧しさも同根である。
おれは、例えば、特に楽しくも充実もしていない、必要に迫られてどうにかこうにか間に合わせで形をつけているだけの「普通の生活」をしていたい。
「普通の生活」というのは、意味のない偶然に翻弄されることを受け入れることだ。余分な厄介ごとに埋もれて、ただ、時に僥倖に当たることもある。
僥倖と言っても、たいしたことではない。例えば、聞くともなく聞いているラジオからふと流れてきた音楽に心を奪われる、といったような程度のことだ。

書きたかったのは、偶然に開かれるということの豊かさであり、普通の生活の「普通さ」のなかにこそその豊かさが潜んでいるということだ。「丁寧な生活」を批判したのは、話のまくらのようなものである。
昨日はなんとなく、「偶然に開かれることの豊かさ」について考えていた。

自分の「好み」や「必要性」から外れた他者と、緩い繋がりを保っておくことの効用ははかりしれない。自分にとって意想外の幸運、閃きは、ほとんどすべて、自分が価値を認めていない他者との縁から訪れる。
自分を中心に、同心円上に広がっているような場所に居てはいけない。
どうしようもない人でも、つまらない本も、例えば路傍の雑草でも、そうした物事との関わりは、自分は森羅万象のネットワークの結節点として存在している、ということの自覚を促す。「とるに足らない」と思われるような他者が、自分を、自分だけでは向かえない方向に向かわせる。

自分だけでは見えないことを見る、気づけないことに気づく、向かうことのできない方向へ向かう。
自分の視野では周縁にぼんやりとしている物、自分の基準ではよく分からない人、そんな「取るに足らない」連中に導かれていく。「神様はいつも乞食の姿をして現れる」。

自分という物語、アイデンティティにとらわれているわけではない。それでも、ひとりでいると、身体のホメオスタシスが作動する。それは、持続を守るものであると同時に、切断を糊塗してしまうものでもある。生を更新するには、いつもちょっとした「儀式」が必要になる。

考えあぐねて、何もかもが行き詰ったように感じられたのに、眠って起きたら、状況は何も変わらないのに、自分の構えが解れて、問題に柔軟に取り組める心境になっていることがある。
行き詰まったら、一度、自分を失ってみるといいということだ。熟睡、深酒、セックス、狂騒、…エクスタシーの効用。
悩めるだけ悩む、落ちるところまで落ちる、考えあぐねて行き詰まる、そうしたことは、必要なプロセスなのだ。
体力の限界まで堂々巡りをしないと、次のフェーズへ抜けられないということもある。
精も根も尽き果てたら、そこで熟睡する。酒を飲む。自分を失う。エクスタシーを潜り抜ける。
個別具体的な「問題」に対処する場合も、同じプロセスを辿ることが有効だ。
手持ちのアプローチを全て出し尽くして、それでももうひとつ釈然としないとき、もやもやしたまま、一旦その問題から離れてみる。そして「エクスタシーを潜り抜ける」のである。閃きが訪れるのは、いつも「酔い醒めの朝」だ。

「エクスタシーを潜り抜ける」こと。すこし前、彼女と過ごした翌日には、こんなツイートをした。

昨日は、暗くしたラブホの一室で、セックスして、戯言に笑いあって過ごしていた。それで今日は心身が軽い。誰かと溶け合うように過ごした後は、しばらくの間心身が軽くなる。
頭で考えることは、自分ひとりでいくらでも操ることができるが、体感はそういうわけにはいかない。
愛がどんなものか相変わらずよく分からないままだが、ともあれふたりきりになって火薬のようにはじけてしまうこと、余所事から切れて、その瞬間、一切を手に入れてしまうこと。
そういえばここしばらく王様のように笑っていなかった、赤ん坊のように燃焼していなかった。心身がすこし重くなっていた。

ひとりの人間は、「そうであること」しかできないが、ふたりになれば、「そうではないこと」が可能になる。
「そうではないこと」、つまり、間違うこと、間違いを笑うこと、その猥雑な解放感に酔いしれること。

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夕方、修羅雪とSさんが、珍しくリビングに居た。一緒に居たわけではなく、リビングの隅と隅で、それぞれパットで動画を見ている。自分の部屋で見ればいいのに、と思いつつ、おれはおれでハンモックでほぼ日課と化している何周目かの『孤独のグルメ』を眺める。そんなふうに各々時間を潰していたら、家の前にタクシーが止まり、ハーマンが訪れた。ハーマンというのはもちろんあだ名で、すこし前まで同居人のひとりだったインテリキャバ嬢である。「客に貰ったから」と、山形産の高級サクランボを置いて、そのまままたタクシーに乗って行ってしまった。修羅雪とSさん山分けして一瞬で食い終わってしまった。やばい、美味い。

ところで、ハーマンは、おれとはセックスもする友人で、まあ、世間的な言い方をすれば愛人である。すこし前まで、妻の修羅雪とハーマンと、もうひとり、女子高生のJが同居していた。女子高生は、おれの友人の娘で、おれとはセックスはしない友人である。そこに還暦の風来坊Sさんと、その彼女も居た。一番多いときで、6人が同居していたわけだ。さながらシェアハウスだが、べつに家賃は取っていない。なんとなくなし崩しでそんな状態になった。6人の人間と13匹の猫がわさわさする楽しい我が家…いやべつに、楽しいわけでもなく、かといって鬱陶しいわけでもない。これもまたなし崩しの「普通の生活」である。

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