思弁日記2020.10.12

記憶に障害のある認知症の人を対象にした、ある実験がある。手のひらに画鋲を仕込んでおいて、その人と握手する。もちろん痛い。すると、翌日また同じ人が手を差し伸べても握手したいと思わなくなるのだそうだ。本人は前日のことを意識の上では覚えてないから、なぜ自分が握手したくないのかその理由がわからない。
その場合、患者は不愉快と感じるもっともらしい理屈を「作話」するのだという。

認知症患者に限らない。健常者が経験するどんなもっともらしい世界も、脳が適当に辻褄を合わせた「作話」によってリアリティを与えられているのに過ぎない。「作話」は「適当な辻褄合わせ」でしかなく、だから「世界」には複数の「綻び」が空いている。

その違和感に鋭敏になることが可能だろうか。「画鋲」を直観することができるだろうか。

言葉は、真を突き詰めるより、むしろ上手に嘘をつくための道具、即ちコミュニケーションの為の道具としての側面を強く持つ。
言葉は、「それ」を「画鋲」と突き詰めるよりも、例えば「私とその人の関係」の「物語」を語ってしまう。
違和感に鋭敏になるとは、まず、言葉を信じないということが重要になるのかもしれない。

物語が閉じれば、人間はその物語による呪縛を受ける。可能なフィクションのひとつでしかないその物語を、唯一の現実と思い込んで、そこここに空いている「綻び」が見えなくなる。発想は強い制約を受けるようになる。

コーヒーカップを持ち上げるとき、何十という筋肉が協同して作動する、この複雑な運動計算をやっているのが大脳基底核だ。例えば言語を媒介するのではなく、このような「コップを持つ」精度をもって、「画鋲」を「直感」することは可能だろうか。「心の物語」によって上書きされる以前の身体感覚を、意識-言語によって物語るのではない仕方で捉えることーそれが例えば「技術」ということである。「技」であり「術」だ。「技術」は「物語」の呪縛を解く効果をもつ。

身体に敏感になるとは、「技術」を磨くことと同義だ。言葉もまた道具である。それは楽器のような道具であり、その扱いには「技」「術」が必要である。同じことを話していても、ある人の言葉は音楽になっている。ある人の言葉は意味でしかない。
その決定的な違いを聞き取ること。言葉の意味を解することより、言葉の音楽性に共鳴できる身体の感応性を高める、そうした次元でのリテラシーを高めること。

人間は社会的動物だ。幼少時からずっと、人間関係のなかで、「あなた」についての物語を聞かされつづけ、「私」について物語って過ごしてきた。呪縛は強烈だ。
例えば、喜びをいさめ、失敗したらそれみたことかと説教をぶつ。おまえを心配しているからだと言う。そんな親に育てられた子は、まずは嬉しいときに一緒にはしゃぎ、失敗したときは無言で抱きしめてくれる、そんなふうに寄り添ってくれる誰かに、親のかけた呪いを解いてもらわねばならないのかもしれない。

誰かに傷つけられたなら、怨恨に身悶えするのではなく、別の誰かに癒してもらえばよい。誰かに誤解されたなら、弁明に明け暮れるのではなく、別の誰かに理解してもらえばよい。誰かに軽蔑されたなら、名誉回復に努めるのでなく、別の誰かに敬愛されればよい。
つまり、誰かに毀損されたら、別の誰かに修復してもらう、そうして、複数の関係性の中で帳尻を合わせていけばよい。

関係は「取り憑く」ものだ。だが、刃を振るっても切ることはできない。
立ち向かうのではなく、複数の関係を身をもって知ることで、関係のあわいに出てしまうのである。そこにはもう生霊はいない。複数の関係をサーフする「技術」、その身体感覚を覚えること。

大分昔、もう子どもじゃなくなった頃、おれは家族という関係性を卒業した。例えば、おれにとって、母というのは今はもう「特別な他人」であって、「母」ではない。
「母」「父」「恋人」「友人」、何でもいいのだが、この世界で結ばれる関係性は、その役割を終えれば、自然と解けていく。関係の形に執着してはならない。関係性が解けて、どんな役割からも解放されたとき、そこにはいつも「特別な他人」がいる。
役割を終えた関係の形に執着すれば、形骸化した関係性は「祟る」。子離れできない親、親離れできない子、ストーカーと化す元恋人、……。

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