ツイッターの遊び方

ツイッターを始めて8年近くが経つ。遡ってみると、けっこうな量で、ツイッターをテーマにしてツイートしている。基本的には「ツイッター論」のようなことではなく、「おれはこういうふうにツイッターを使ってるよ」「こういうふうに使うと、ツイッターって楽しいよね」という、「ツイッターの遊び方」について延々と書いている。意味として被っているツイートも多い。この辺で、ちょっとまとめておくね。

1.ツイッターは一人遊びのツールである。

基本は、これね。ツイッターというのは、何よりもまず自分の「思考補助ツール」なんだ。考えることは、おれにとって、最高に熱中できる「遊び」なんで、ツイッターは、まずそのためのツールなんだよね。そんなのエヴァーノートや、何ならメモ帳でもいいんじゃない?ということだけど、いや、それじゃ充分じゃないんだ。べつに誰かに向けて書いてるわけじゃないけど、でも「誰かが読むかもしれない」っていう緊張感があった方がいいんだね。一人でも二人でもいいんだけど、誰か他者に通じるような言葉遣いをすることで、思考はより確実なものになる。
一つ一つのツイートが真実なのか無意味なのか、そういうことは、おれにはどうでもいいんだ。べつに、人に向けて意見や論を書いてるわけじゃない。人に通じるような言葉では書いてるけど、それはあくまでも自分の思考のため。権威にも常識にも正義にも媚びず、ルサンチマンやイデオロギーに転ばず、欲望の赴くままに思考をブーストする為にやってることなんでね。一つ一つのツイートは、その切断面なわけ。

2.ツイッターは友達探しのツールである。

SNSを自己ブランド化やプロモーションを含めた広義のマーケティングツールとして捉えると、どれだけFF数を増やすかという話になるけど、友達探しということなら、むしろさっき書いたみたいな「思考の切断面」を晒してるだけでいい。
自分がその時精一杯「的確だ」と思う言葉を、同じように「的確だ」と感じる誰かが現れたら、その時点でおれにはその人は「友達」なんです。
一度も会ってなくとも、その人が社会的にどんな人であろうと、そんなことは一切関係ない。おれの場合、「友達」とは、そういう誰かのことをいうんだよね。
そういう関係を指す言葉が見当たらないので、その「誰か」を「友達」と言ってるんだけど、べつに呼称はなんでもいいんだ。ともあれ、そういう誰かと出会うためのツールとしては、ツイッターってものすごく便利だよ。

前にこんなツイートをしたことがあってさ。
「出会い系サイトって、やったことないんだけど、出会おうとして出会ったってつまんねえだろ、という気がしてならない。Twitterで、適当に自分はこういう奴です、とか、あとは好きなこと呟いてりゃ、出会いなんて“結果として”“副産物として”腐るほど訪れるだろ?」
ツイッターを、さっき言ったみたいに、まず「自分で考えるための思考補助ツール」として使ってるかどうかってこと。それで、自分の言葉で話してれば、それに惹かれる人は現れるよ。いや、現れないんですけど、という人がいたら、ううん、たぶん、人を魅惑するだけの「思考」ができてないんだろうな。
人を魅惑する思考って、たくさん勉強して、難しいことを考えるってことじゃない。自分の心と体にちゃんと根を持ってる思考が、人を魅惑するんだ。語彙や表現が拙くてもいいんだよね。自分で考えて、自分の言葉で話すと、そこにある響きが感じ取れる。その響きに、人は魅惑されるんだ。つまりね、いかに好き勝手なことを、型にはまらず、大勢に媚びずに、「書ききる」ことができるか。
ツイッターを楽しんでる人に共通するのは、この「書ききる」っていう倫理と芸を持ってる、その一点なんだろうね。

けっきょく、これはツイッターに限ったことじゃない。
人間関係って、基本、かなり厄介じゃないですか。その厄介を楽しんでる人に共通するのは、自分を「書ききる=表現し尽くす」倫理と芸なんだよね。
その芯がある人は、人と適切な距離が取れる、存分に遊ぶことができる。
「自分」ってどこまでもフィクションですよ。だから、「自分を表現し尽くす倫理と芸」って、人間関係の機微に触れて、その都度でっちあげた物語を、虚実皮膜の境で演じきることなんです。これは、体系だった勉強をしても身につかない。舞台で演じながら、勘と所作を磨いていくしかない。
なんかね、体系だった勉強って、むしろ邪魔にすらなる。「秀才タイプ特有の頭の悪さ」ってもんがあって、正答や真理がどこかにあると信じてるんだね。でも、勉強って、やり方を間違えると、その都度ジャストのタイミングで虚構をでっち上げる野蛮な芸の足を引っ張っちゃうんだよな。

3.ツイッターを遊び切るために

ツイッターってのは、本来一対一の関係を繋いでいくメディアで、どんなに規模が大きくなっても、それは「社会」や「世間」や「制度」になるのではなく、一対一の関係が足し算で増えていくだけのものだ。つまり、ツイッターって、ソーシャルグラフでネットワーキングされてくわけじゃない?だから、規模が大きくなっても、あくまでもそれはネットワーク構造で、ツリー状にはならないはずなんだよね。
だから、ツイッターに「社会」を見出してしんどくなる必要なんて、本来ないはずなんだ。だって、面倒な奴は個別でブロックできるわけじゃん。リプのやりとりだって義務じゃないしね。しんどくなるのって、要はその人の態度が、この「一対一性」に適応しきれていないだけなんじゃないかと思うのね。
まあね、タイムライン見てると、どうしてもある種の同調圧力を感じるようなこともあるよね。だけど、そんなもんは全部無視して、各々無関係な一対一の関係を繋いでいけばいいし、また、そうできる仕様なのが、ツイッターのいいところなんだよね。

だから、おれには気をつけてることがあって、ツイッターに「社会」や「世間」を導き入れるような、同調圧力の温床とするような物言いや態度は、敏感にこれを排除していくってことをしてる。
ツイッターを遊びきるためには、共感のウェーブに乗ることじゃなく、自分の思考の断面と響き合うような誰かと一人一人繋がることだろう?だから、やっぱり、「思考の断面」を晒すような言葉を探した方が、楽しく遊べるんだよね。
つまり、自分の状況や思考をリアルタイムで実況してるような言葉。セルフィッシュで、速くて、自分の身体で感じている世界の感触を、「問題」に仮託せず、ただ自分の揺らぎだけに忠実に彫琢してるような言葉。

ええと、こんなところかな。これは、あくまでも、おれのツイッターの使い方。この使い方が正しいって意見なんかじゃない。でも、おれは、こんなふうに使うことで、ツイッターにとても恩恵をもらっている。ツイッターをやることで、自分の思考を練ることもできるし、友達もたくさんできたしね。

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