雑然日記2020.07.22

ダニエル・L・エヴェレット『言語の起源 人類の最も偉大な発明』(白楊社)を読む。
快著『ピダハン』の著者による言語起源論だ。エピグラムに掲げられてるのが、フィリップ・リバーマンの次の言葉。

言語は本能ではない。遺伝で伝えられ、皮質にあって区別される「言語器官」にコード化された知識に基づくものではない。学習される技能であり、人間の脳の多くの部分にわたって分散している。

この本の大筋は、読みながら途中途中でツイートでまとめていった。小見出しをつけて整理し直してみよう。

1.言語は進化的に獲得された形質ではなく、文化的に発明された制作物である。

言語は生得的なものではなく「発明」されたものだ。「発明」とはどういうことか。文化によって創造されたということである。
それは、シンボル、語順、ジェスチャー、イントネーションが相乗効果をなすシステムであり、人類はこのシステムー機械を、長い時間をかけて制作してきた。
言語は自分たちの頭にあることを余すところなく表現するものではない。それは言語の基本設計の特徴に反している。言語は、聞き手が非-明示的な文脈(著者は「ダークマター」と呼ぶ)を共有している限りで解釈することができる。
話し手は、この「ダークマター」を前提にして、聞き手の解釈を想定する。
つまり、「言語は、最初の一人が初めて語や文を口にしたときに完全な形で始まったのではない」。言語の源泉には「会話」がある。「会話」は、話し手と聞き手とが共有する非-明示的な文化的文脈という第三項を参照できる環境において可能になる。
著者は、言語とは5〜10万年前に、たった一つの遺伝子変異の結果獲得した「普遍文法」の能力である、というチョムスキーの議論を退ける。代わりに言語起源の記号進展理論を提唱する。人類は、文化的協働性のなかで、インデックス、アイコン、シンボルを順に発明してきたのだとする仮説である。

2.言語のインデックス→アイコン→シンボルの段階的進展

人類の言語は、動物界のコミュニケーションと何が違っているか。人類の言語だけがシンボルを持っている。さらに、ストーリー/段落/文/句/語という階層性を備えており、各構成要素はさらに大きな構成要素の意味形成に寄与している。だがこうした特殊性を人類の生物学的特権性に帰する議論は短絡だ。
こうした言語のギャップは、文化によって促進されたホメオパシー的な変化(全体から見ればごく微小の要素から生じる変化)により形成された。「言語の域値」は、人々が考えているよりじつは小さいのである。各種エビデンスが、人類の言語は「突然の跳躍」によって成されたものではないことを示している。
パースを援用した記号の進展を見てみる。
そもそも記号とは形式と意味の任意の組み合わせのことだが、この組み合わせの性質にって、指標(インデックス)、類像(アイコン)、象徴(シンボル)に分類される。
指標とは、形式と意味に物理的なつながりがあるもの。猫の足跡が猫の存在を指し示すようなものである。
類像は、形式が意味を物理的に喚起するもので、彫像や肖像画が当人を指し示すようなもの。
象徴は、形式と意味が“慣習によって”結びついている、つまり社会的な含意によって結びついているもので、イヌという音が🐕を指し示すのは恣意的な結びつきしかない。
象徴は単体の原子ではなく、差異の体系によって支持されている。この体系から導かれる要素が解釈項だ。象徴と解釈項があれば、「二重のパターン化」と呼ばれる言語要素の入れ子化が可能になる。これによって、線形性、階層性、再帰といった複雑さの異なる三つの水準へ進む基盤が整う。
言語進化は、この、パースによる記号の複雑さの水準が高まるようにして進む。この仮説は考古学的資料によって支持される。
ここでもっとも重要なステップは、類像から象徴への飛躍である。だがこの移行も、他の移行がそうであるように、進化的跳躍ではなく、人類の「発明」による文化的移行であった。

3.言語は「会話」のために発明された。

ここで著者の「文化」の定義を見ておく。
「文化とは、社会的な役割や階層構造化された知識の諸領域、ランクづけされた諸価値を形成し、結びつける象徴的なネットワークである。文化は動的であり、変化し、その時々に解釈し直される。文化の役割、知識、価値は、文化の構成員の体と(脳も体の一部だ)、あるいはその行動の中にのみ見つけることができる。」
言語が、生成文法のように生得的なものではなく、文化的に「発明」され高次化されていったものであるとするなら、必然的に文法は人間の進化において「最初の跳躍」ではないということになる。文法にシンボルが先行する。これはつまり、人間の相互作用では意味は第一で形式はその後になるということだ。
例えば、チョムスキーは、人類の言語の本質を再帰性に求める。そうなると必然的に「まず文法ありき」ということになる。言語は、文法、すなわち構築の必要にその基盤を置いているということになる。だがエヴェレットは言語はそもそも「会話」のために「発明」されたと論じる。
会話では、意味は話し手によって、ばらばらの文、部分的な文などから構成される。会話において、部分(構成素)から、もっと大きな意味を構成する能力は、文化に媒介されている。コミュニケーション空間における意味の交換には、再帰性をもった構築は必ずしも必要とされない。
発話の起源に「会話」への動機があると考えると、必然的に、言語とは単語と文法で規定される言語体系というよりは、全人格(知性、感情、手、口、舌、脳)がそれに関わる全体的な産出であるとみなさねばならない。その現象を理解するには、その場では語られていない文化的文脈も動員されねばならない。
ジェスチャーや声の大きさ、イントネーション、表情も含めて、それらは言語の付随物ではなく、むしろ、そのすべてが、「会話」を成立させるための必須構成要素であり、それらは言語そのものの成立に相関している。

ところで、この本を読んでいて、主題とはずれるんだけど、「言語は会話のために発明された」というくだりに、とても興味深い示唆を得た。
つまり、言語は、思考のためのツールではなく、表出のためのツールである、ということだ。言語で考えているように感じているときも、じつは言語によって考えているのではなく、言語によって思考を表出しているに過ぎない。表出とは、どういうことか。他者とのコミュニケーション空間、つまり「自他のあわい」に「表出」するということである。言語を使うとは、すなわち他者を志向するということなのである。ただし、その「他者」が社会的な他者ー隣人である必要はない。その他者は、神という他者であるかもしれず、自己という他者であるかもしれない。
ただ、いずれにせよ、重要なのは、人が言語によって思考するのではないということである。言語によって考えているように感じているときも、じつのところ、表出の速度が思考の速度と限りなく一致しているのでそう感じるのに過ぎない。
それでは、人は何によって思考するのか。イメージである。言語は思考において、その過程を表出することで、より明瞭にする役割を担うに過ぎない。だが、イメージとは何なのかということについては、もうすこし考えてみたい。

以前読んだジョセフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた』(今西康子訳 白揚社)では、言語使用だけでなくより広範な視野から、人間は生物学的な進化ではなく文化的進化という、言わば「自他のあわい」にある第三項に依拠して生きる種である、という議論が展開されている。
言語使用のみならず、狩の方法、道具のつくり方など、ヒトは生得的でもなく自ら発明したわけでもない文化的蓄積に依存して生きている。そのことは、人の心理や行動、神経組織や身体構造にまで影響する。

ヒトの脳は、増大し続ける文化的情報を収集、蓄積、整理、伝達する能力が決定的な選択圧となる世界の中で進化し巨大化していった。ヒトの文化的学習能力は自然選択の作用と同様に、何世代にもわたって「黙々と」作用し続けて、一個人もしくはグループでは生み出し得ないような賢い習慣を生み出す。ヒトの知能のように思えるものの多くは、天性の知力でも、本能でもない。実は、先祖代々文化として受け継がれてきた膨大な知的ツール(たとえば整数)や、スキル(左右の区別)、概念(弾み車)、分類体系(色名)などによってもたらされている。

1.文化領域=自他のあわいにおける「学習」

文化は生得的ではないので学習されねばならない。著者は議論のはじめに学習を三つのタイプに分類する。
個体学習、社会的学習、文化的学習の三つだ。
ヒトは、文化的学習において、他の種よりも突出して優れている。
まず、個体学習とは、個体が環境を観察し、環境と直接し合うことによる学習。
社会的学習とは、個体が他者の影響を受けながら学習することで、様々な心理的プロセスが含まれる。
文化的学習は、社会的学習の中でもより複雑で高度な能力を要する学習で、他者の選好、目的、信念、戦略を推し量ることによって、また他者の行動や動作を模倣することによって情報を得ようとするもの。
ここで、特に社会的学習と文化的学習が分けられている点が重要で、社会的学習に長けた社会的動物はたくさん存在するが、文化的学習に必須の洞察力をヒトのレベルで持つ種はいない。そのことがヒトという種に、独特の、突出した性質を与えている。

2.人間は生得的に優れた知能を持つわけではない

著者は、まず、幼児と類人猿とを比較する様々な知能テストの実験を紹介して、ヒトがその生得的な知力において、必ずしも類人猿より優れているわけではないと論じる。それどころか、ヒトには陥りやすい様々な認知的バイアスがあって、場合によっては類人猿の方が判断を誤らない場面もあるとする。
認知的バイアスの例として、例えば「ギャンブラーの誤謬」。賭け事などで、同じ目が続いた後は違う目の出る確率が高くなるはずだ、という錯覚を言う。「コンコルド錯誤」。映画館に入った人は、序盤で下らない映画とわかっても、チケット代を考えて、時間をより有効な行為に振り向ける決断を躊躇う。
ヒト以外の動物はこのような誤った推論はしないので、たいていもっと有益な選択をする。
「そんなぼんくらな私たちが、いったいなぜ、種として成功できたのだろう?なぜ、頭が良さそうに見えるのだろう?」

3.文化進化のプロセス

文化とは、厳しい環境のもとで、生存、繁栄することを可能にする、技能、信念、習慣、動機、組織など、すべてをひっくるめた「パッケージ」のことである。
その形成プロセスは、個人の選択、後天的な選好、幸運なミス、偶然のひらめきなどが幾世代にもわたって蓄積され、いつのまにか形成されていく。
文化的進化のプロセスは、遺伝的或いは生物学的適応と対立するものではなく、協働的且つ相互作用的プロセスと考えられる。
文化や文化進化のためには、他者から学ぼうとする遺伝的に進化した心理適応と相互作用的であるということだ。

4.文化的学習(制作)としての「模倣」

さて、ヒトは遺伝的ー生物学的に「有益な習慣、信念、概念、選好を、他者から効果的に学ぶことを可能にする心理や動機」を形成していった。「誰を手本にすべきか。何に注意を向け、どんなことを推し量るべきか」ー現在の人類においては、こうした学習の心理や動機は、きわめて幼い頃から現れる。
文化的学習とは、他者への洞察と模倣を通してなされるものだった。たいへんに広範な領域において、ヒトは、モデルとなる他者を見つけ、その他者を倣うことで、その文化を学習する。
モデルの選択は、個人の自由意志によってではなく、その選択の手がかり自体が、進化論的に規定されている。
モデルの評価については、そのモデルの健康、幸福度、スキル、信頼性、能力、成功実績、年齢、信望・名声などから総合的に判断される。
「食物、異性、道具など特定の事柄に選択的に注意を向け、名声、実績、健康などを手がかりに特定のモデルをまねることによって、自分にとって最も役立つ知識や技術を、最も効率よく習得することができる。」
さらに重要なのは、この洞察(メタライジング)ー模倣の繰り返しが、個人の利益に寄与するだけでなく、集団、或いは「集団脳」とでも呼ぶべき種全体としての文化的進化を、最も効率よく促すという側面である。
つまりヒトが覇権種として突出したのは、個々の知能レベルではなく、文化的集合性による。

5.人ー道具の相互フィードバックによる進化

例えば、道具を使うことによって、ヒトは、どのように変わってきたか。
「累積的な文化進化によって、より多くの精巧な道具が作られるようになると、さらにいっそう運動制御が向上していった。こうした道具類はまた、ヒトの手の構造に遺伝的変化を起こす選択圧としても働き、その結果として、指の腹が広くなるとともに、親指を動かす筋肉系が発達し、親指を他の指と対向させて正確にものをつかむ「精密把握」が可能になった。また、文化進化によって、投擲にかかわるパッケージも生まれたはずだ。すなわち、物を投げる技術、木の槍や投げ棒などの人工物、それらを使って狩猟、採集、襲撃、警護を行う戦術などである。こうしたものが出現するとともに、他者を観察して投げ方を学ぶ能力が芽生えるにつれて、投擲動作に適した肩や手首の構造が形成されていったのだと思われる。多くの子どもたちが物を投げることに強い興味を示すのは当然のことなのだ。」
さらに道具使用は、ヒトの身体の構造を変化させただけでなく、文化習得のための心理メカニズムも形成してきた。道具を見るとき、人は自然物を見るときとは違い、まずその機能性に着目する。そして、見た目だけでは機能性がわからない複雑な人工物を分析するために「因果関係」の論理が要請される。
著者は様々な事例を挙げて、道具使用や言語、概念使用などの文化が、ヒトの身体の遺伝的構造を変化させ、また心理傾向や頭脳を変化させ、そのことがまた文化的学習を更新するというフィードバック回路の生成と進化の場面を描出している。
個々の事例がたいへん面白く、示唆に富んでいる。
例えば、通常、哺乳類は離乳後ラクターゼ産生が停止する。つまり、ミルクを飲んでも消化できず、栄養を摂ることができなくなる。だが、人類に限って、32%は成人になってもミルクを消化できる。これは牧畜、搾乳という文化が遺伝にフィードバックした「共進化」の一例と考えられる。

6.プレスティージとドミナント

プレスティージとドミナントの違いについて論じられた箇所がある。
文化的学習は、モデルとなる他者を見つけ、その他者を洞察ー模倣するなかで成し遂げられた。模範とすべきモデルを見つけるのが、文化的学習において最重要の課題となる。
最適なモデルとは、現時点もしくは後の人生で、学習者にとって最も価値のある情報をもっていそうな人物だ。そのモデルを見つける手がかりとなるのが、人々から寄せられる信望の厚さ、すなわちプレスティージである。
注意すべきは、この「信望」は、必ずしもステータスとイコールではないという点だ。
名声や信望を重んじるプレスティージ心理は、進化の過程で、文化的学習に付随して生まれたもので、社会的地位(ステータス)にまつわる心理としては比較的新しい。それは、腕力や権力になびくドミナンス心理とは、別レイヤーのものだ。ドミナンス心理は霊長類の時代から受け継いだもので、さらに古い。
ヒトは、社会的地位(ステータス)に関して、ドミナンスとプレスティージという、全く異なる心理プロセス、動機、情動、ディスプレイ行為のパッケージを備えている。
文化進化のいう視点で見れば、集団のポジティブな側面がプレスティージ、ネガティブな側面がドミナンスと言えるかもしれない。
他者に対して支配力(ドミナンス)を揮う人は、
①高圧的な態度をとり、
②他者をからかって恥をかかせたり、
③思いどおりに操ろうとする傾向が見られる。
一方、他者からの信望(プレスティージ)を集める人は、
①謙虚に振る舞い、
②成果をチームの功績にし、
③冗談を言って周囲を和ませる傾向が見られた。

7.社会規範について

社会規範について。「人々が他者を手本にして文化的に学び、そのようにして身につけた行動、戦略、信念、動機が社会的相互作用に影響を及ぼすようになると、いったい何が起こるのか?おのずと社会規範が出現してくる、というのが文化進化ゲーム理論から得られる答えだ。」
この社会規範は、隠然と作動する。
「社会規範を犯したとたんに、その場で制裁を受けることもあるが、そうでないことのほうが多い。むしろ、それを黙って見ていた人々が悪いうわさを広め、この悪評がその後の付き合いに悪影響をもたらすことのほうがはるかに多い。」
文化的学習は、他者を洞察ー模倣することでなされるが、そこで我々は他者の行動から社会規範も学習する。それは、ある程度内面化され、他者に対する判断にも影響し、循環的な自己強化のメカニズムが働いて、ますます強制力の度を強くしていく。
社会規範が「内面化」されるとは、脳内の報酬系回路が規範に準じて、規範を強化するよう形成されるということだ。様々な心理実験で、規範に適う協力行動をとったり、その場のルールに従わない者を罰したりすると、脳内の報酬系回路が活性化されることが確認されている。
「神経学的に言うならば、人間は規則を守り、規則に背く者を罰することが「好き」なのである。」
この、社会規範の内面化のプロセスは、「自己家畜化」と名付けられる。
それは、安定的な文化進化をもたらすと同時に、半ば自動化された規範の抑圧の両面の性質を持つ。
社会規範の一例として、結婚規範を見てみる。結婚規範の生得的な基盤にあるのは長期にわたってつがい関係を維持しようとする本能だ。これはヒトだけでなく、ゴリラや他の猿の間にも見られる。だが「つがい関係」は一夫一婦(単婚)制ではないことに注意が必要である。
つがい関係とは、雌雄間の永続的な(少なくともその場限りではない)関係のことを指しているのに過ぎず、複数の相手とつがいを形成することもある。ゴリラの雄は同時に複数の雌と長期のつがい関係を結ぶし、ヒトもまた例外ではない。歴史を振り返ると、ヒトの社会の85%で何らかの複婚が認められていた。
この雌雄のつがい関係に共同体を巻き込むことで、婚姻規範が形成される。「つまり、共同体の成員が、婚姻規範を犯す者を監視し、(噂を流すなどして)制裁を加える第三者になるのだ。」
「つがい関係」の本能を基にして、結婚できる相手(近親相姦の範囲)や、相手の数(一夫多妻を認めるか等)、相続人や婚外セックスに関するルール等、婚姻規範が規定され、第三者による制裁的自視線によって、その規範の維持・強化が実行される。
男性側からすると、この規範によって、自分が自分の妻の産んだ子どもの遺伝上の父親であるという確実性が増すので、育児への参加の動機付けになる。
つまり婚姻規範は、「夫の資源がセックス目当てに浪費されることなく、妻の子どもたちに投じられるよう仕向けている」のである。
メディア社会では、不倫報道が盛んで、不倫した有名人は何かしらの社会的制裁を受けることになる。
「自己家畜化」した人びとは、「ルール破りをした仲間」への制裁に快楽を覚えるよう訓化されている。
さて、社会規範は、内面化=自動化されているので、この規範を逸脱する場合には、神経学的にはある程度の負荷をかける必要がある。つまり、認知的制御や抽象的思考をつかさどる脳領域を活動させて、無意識に起こる機械的反応を抑え込む必要がある。
「つまり、社会規範を犯すためには、心的努力と高度な認知機能が不可欠なのだ。」
逆に言えば、普段から抽象的思考を習慣化しているタイプの人間は、他人の不倫報道に目くじらをたてるような「機械的反応」には、比較的巻き込まれにくいとも言えるだろう。

ヒトが生得的でも個体学習でもない文化的学習に依存して生きることは、ヒトにとって他人との関係が最大の淘汰圧になることを意味する。そのことは一方で関係性の確執を生み、呪いが作動する土壌を形成するが、一方で知の乗数的進化を促しもする。さらに、ヒトという種に、環境に柔軟な対応をに対応できる、汎用性の高い生物学的特性を与えもする。

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