心と魂

「心」と「魂」とは、どう違うのか。国文学者の西郷信綱は『古代人と夢』(平凡社)で、こう書いている。

「群肝のこころ」とか「肝向かふ心」とからいわれているに徴しても知りうるように、心は身体器官としての内蔵とかかわり、それらの器官の内具する知情意のはたらきを意味した。
それに対し魂は、内臓に局在するのではなく、容器としての身体の深部に棲みこみ、そして人間の生命を支える神話的あるいは形而上学的な、つまり非物質的な何ものかである。

西郷信綱

「心」は身体器官としての内臓に「内具」されている、つまり「身体的」なものである。
それに対して「魂」は、「神話的ー形而上学的」なものであり、身体に直接対応するものではない。むしろ「身体」を「否定」する、その「思弁性」のうちにあらわれる。

1.心

心は身体と相関する。心と身体はどのように関わっているのか。三木成夫とアントニオ・ダマシオの論説に依拠しつつ概観してみよう。

解剖学者・三木成夫の考えは簡明なものだ。
1.人間の身体には原形質から発し、分化してきた生物進化の5億年が刻まれている。
2.身体の器官、機能は、植物由来/動物由来に分けて整理することができる。

人間の心/身体には、生物進化の全歴史が刻まれており、心/身体のことを知るには、その歴史を知る必要がある。
そのうえで、三木は、人間の心/身体を二つの「系」に分けて考えるといいと説く。
第一の系は、内臓系。呼吸、消化、循環など、人間の意識によっては制御できない、自律神経で司られた系のことを言う。これは植物の段階で進化した系で、そのため三木はこの内臓系を「植物系」と呼ぶ。
第二の系は、活動系。感覚器ー神経ー筋肉から成る感覚ー運動系である。「動く」という機能によって要請される系で、三木はこれを「動物系」と呼ぶ。
人間の心/身体を見るとき、三木の説く「植物系」「動物系」に“腑分け”して考えると、うまく整理がつく。つまり、「気分」や「感情」といった、自分では制御できない無意識の情動は「植物系」、即ち内臓にその根をもつ。自分で制御できる「意思」は「動物系」の機能に依拠する。

この二つの系は、基本、独立して作動しているが、所々、部分的に干渉し合っている。
一例を挙げよう。顔に注目してみる。顔は、進化的には、内臓の入り口である口、その奥にあったエラ、それが陸に上がって役割がなくなって、顔へと突出した。つまり、顔というのは、脱腸が張り付いているようなものなのである。
エラが顔になった。顔を動かす表情筋は、骨を動かす骨格筋ではなく、内臓を動かす筋肉であり、だから、表情とは、「無意識の感情、気分」が表現されたものなのである。
だが、その上で、人間は、表情を意識して制御することもできる。「嘘泣き」「嘘笑い」ができる。顔という器官において、「植物系」と「動物系」が交叉している。
顔とは、だから、ある意味、意思によって気分を制御することを可能にする「制御盤」の役割を持っている。
ウィリアム・ジェイムズが言うように、笑顔を作れば人は楽しくなる。これは錯覚ではなく、顔において、動物系と植物系とか交叉しているという事情による。
同じように、呼吸も「動物系」「植物系」が交叉する「制御盤」的な役割を持つ機能のひとつだ。呼吸は意識的に制御できるが、それによって気分や感情をコントロールすることができる。

アントニオ・ダマシオは『進化の意外な順序 感情、意識、創造性と文化の起源』(高橋洋訳 白揚社)で、ここで見た三木成夫の身体図式と対応する議論を展開している。

ダマシオは、三木が「植物系」として照射した「感情」の起源を、生化学的な安定性である「ホメオスタシス」に由来すると論じる。

感情は生体内の生命活動の状態をその個体の心に告知する手段であり、ポジティブからネガティブの範囲で表現される。ホメオスタシスの不備は、主にネガティブな感情で表現されるのに対し、ポジティブな感情は、ホメオスタシスが適切なレベルに保たれていることを示し、その個体を好機へと導く。
感情とホメオスタシスは、一貫して密接な連携を取り合う。感情は、心と意識的な視点を備えるいかなる生物においても、生命活動の状態、すなわちホメオスタシスに関する主観的な経験をなす。したがって、感情とはホメオスタシスの心的な代理であるととらえればよいだろう。

アントニオ・ダマシオ

ここで、ダマシオは、「感情」の根源をホメオスタシスに求めているが、ホメオスタシスは、生化学的なレベルでの安定性にその根拠をもっている。
つまり、生命以前の分子的な安定性、ある「形」がその「形」を保つための基本的な作用に、その根拠を持っているのだと論じているということである。
分子レベル、化学レベルの安定性にとってポジティブであるかネガティブであるかが「感情」の基底にある。

このことを敷衍すれば、動植物はもちろん、鉱物ー地球も「感情」を備えているということになり、ここにある種の「汎心論」的な知的領野が開くことになる。汎心論的な知的領野を踏まえて、再度三木の図式に戻って考えてみよう。
動物(筋肉、神経、筋肉)系が、五感によって「近い世界」を「感覚」しているのに対し、植物系(内臓)は、周期(リズム)によって「遠い世界」を「観得」している。
周期(リズム)は、生命が、海を媒介にして、天体運動と共鳴するところに生じる。
つまり、「心」は、「星」と感応している。…

ダマシオは、生物の進化に伴い、このホメオスタシスという感情の基底が「構造化」されていくと論じているが、この件は、三木の所論とほぼパラレルなものとして読むことができる。
ダマシオの記述は、現在の神経科学に基づいたより精細なものとなっているが、その要諦は同じである。
以下に、三木の所論と対応する箇所を引いておく。

古い内界は最初で最古の内界で、基本的なホメオスタシスに関係する。多細胞生物では、この世界は、代謝とそれに関連する化学作用、それに加え心臓、肺、腸、皮膚などの諸器官、さらには血管の壁面や諸器官の被膜をなす部位の至るところに見られる平滑筋から抗せされる。
平滑筋はそれ自体が内蔵の構成要素である。
内界のイメージは、「健康」「疲労」「深い」「痛み」「快」「動悸」「胸やけ」「腹痛」などの音場で表現される。それらのイメージは特殊である。というのも、私たちは古い内界を外界の物体と同じように描いたりはしないからだ。
確かに繊細さには欠けるが、怖れを感じたときに生じる喉頭や咽頭の硬直、喘息の発作を特徴づける気道の収縮やあえぎ、あるいは震えなどの運動反応を含めた身体のさまざまな部位に対する特定の化学物質の影響など、変化する内蔵の幾何学を内蔵感覚の言葉で思い描くことができる。
まさしくこのような古い内界のイメージが、感情の核となる構成要素をなしているのである。
古い内界と並行して、より新しい内界が存在する。この世界は、骨格とそれに付着する骨格筋と呼ばれる筋肉に支配されている。
骨格筋は「黄紋」筋、「随意」筋とも呼ばれ、純粋に内蔵的で、意思のコントロールの及ばない「平滑」筋や「自律的な」タイプの筋肉とは区別される。私たちは、動き回る、ものを操る、話す、書く、踊る、楽器を演奏する、機械を操作する際に骨格筋を使う。
古い内蔵の世界の一部が宿る身体の包括的な枠組み(ボディ・フレーム)は、これまた古い世界に属する皮膚のための足場となって、それにすっぽり覆われている。皮膚は内蔵の世界の最大の組織である点に留意されたい。
またボディフレームは、豪華な首飾りに散りばめられたあまたの宝石のごとく、感覚ポータルが埋め込まれる台座である点にも注意する必要がある。
感覚ポータルの概念に私が注目している理由は、視点(パースペクティヴ)の形成においてそれが果たす役割に関係する。説明しよう。
たとえば私たちの視覚は、網膜に始まり、視神経、外側膝状体、上丘、一次視覚皮質、二次視覚皮質など、視覚システムのいくつかの中継地点を経由する、プロセスの連鎖の結果として生じる。しかし視覚増を生むためには、注視する、見るなどの行為を実行する必要があるが、それらの行為は、視覚システムの中継地点とは異なる、身体や神経系の他の構造(身体に関してはさまざまな筋肉のグループ、神経系に関しては運動コントロール領域)によってなされる。そしてこれらの他の構造は、視覚の感覚ポータルに位置している。

アントニオ・ダマシオ

2.魂

今述べてきたように、心は「身体的」なものだ。いやむしろ身体とは、その発生の時点から、心/身体として存在したということを確認した。
さて、「魂」とは、そのような心/身体には、その根拠、所在を持たない。魂は、感情や気分、意思といった心/身体の動きとは、無関係に存在する。魂は心/身体の何処かに由来するのではない。それでは、それはどこに由来するのか。
魂は何処にあるのだろう。

ここでは、ユング派きっての理論家ヴォルフガング・ギーゲリッヒ『魂の論理的生命 心理学の厳格な概念に向けて』(田中康裕訳 創元社)の理路を追いつつ、魂の存在論について考えてみよう。

さて、ユングにおいて、主体は常に、自我/魂(自己、セルフ)に二重化した形で考えられている。
自我は、心/身体にその根拠を持つ、ひとつの構造ー機能だ。
一方、魂(自己、セルフ)は、心/身体にはその根拠を持たない。

重要なのは、
1.主体が自我/魂(自己、セルフ)に「二重化する」とはどんな体験、実存の在りようなのか、
2.魂(自己、セルフ)はどんなステータスにおいて捉えられるべきなのか、
を考察することである。

まず、論者が自我/魂(自己、セルフ)について書いている個所を引く。
自我と魂を対照させることで、それぞれの特性とその相関が照明される。

自我はせいぜい、個性化(魂になること)について“説教する”ことしかできないし、われわれは、説教することがいかに無力であるかということを知っている。
説教することによって、そこには常に、まさに乗り越えるべき隔たりがもたさらされ、新たに設えられることになるからだ。魂を発展させたいと思うなら、その境界を超えていなければならない。
言い換えれば、自我を後にして立ち去り(すべての点においてではなく、むろん、魂を発展させたいという限りにおいて)、魂がそれに取って代わることをもうすでに(完了形であることに注意!)許していなければならないのだ。
魂は、自我がすでに否定されている、克服されている限りにおいてだけリアルなのであり、敷衍すれば、魂は「自我の死体の向こう側にある」リアリティーとしてだけ存在するとさえ言えるのである。

ヴォルフガング・ギーゲリッヒ

それでは、どのように、主体は二重化されるのか。
各々の人の裡に、どのようにして「魂への希求」(ユングの言葉で言えば「自己化」)の動機が芽生え、その過程が始められるのか。
ギーゲリッヒは、自己化は、「達成された自己から始まる」と説く。〈前にある後〉ー自己=魂について考えるとき、この「反転」ということが最重要の要点となる。

ドイツ語に「何もないところからは何も得られない」という格言がある。(…) もし、自己が少しでも実現されるのであれば、自己は最初から、すなわち、自己を実現する試みに“先立って”、そこに存在しなければならない。(…) もし、そこに行き着こうと思うなら、もうすでにそこにいなければならない。

ヴォルフガング・ギーゲリッヒ

〈前にある後〉ーこの先験性から、自己-魂のステータスが導かれる。
つまり、自己-魂が、このような矛盾的様相を呈するのは、それが「存在より以前」、時間的順序における「以前」ではなく、時間それ自体「以前」としてあるからだ。すなわち、自己=魂とは、非時間的で、「思惟的」なものなのである。

魂は存在しないし、一つの実在をもたない。魂は実体をもった存在物でも、ある実在している存在物の実体的な属性でもない。魂はそれ自体の本質であるが、この本質は(論理的)否定性である、あるいは、(論理的)否定性という性質をもっている。
魂は止揚された感情/情動/衝動/観念/イメージ等である。魂は他でもない、それらの“被止揚性”なのだ。魂が一つの実在をもたないのはこのためである。魂は、何らかの(実在する)第一質量に対する否定という論理的、あるいは「錬金術的」作業に起因するもの、否、そのような作業して生起するのだ。

ヴォルフガング・ギーゲリッヒ

自己=魂は、ここで言われるところの「第一質料」、つまり心/身体の否定性、被止揚性として、思惟的なステータスにおいてのみ現れる。

使われている用語を整理する必要があるが、ここで説かれている、魂の「否定を媒介にした現実性(リアリティ)」は、グレアム・ハーマンやマルクス・ガブリエルの説く「実在(リアル)」の定義とほぼ一致する。
ギーゲリッヒの説く魂の現実性について、例えばこんな箇所に注意してみよう。

魂の現実性とは、それが実体性(<神>と<身体>)の二つの形式の否定であるという限りにおいて、論理的な否定性のなかに自らの論理的な場所をもっている。それは、外側にいかなる指示対象ももたない。それは自分自身を示すのである。

ヴォルフガング・ギーゲリッヒ

この箇所などは、ハーマンの説く「実在」の定義ー上方解体/下方解体、いずれの還元も退けたところに現れるーをそのままパラフレーズしたかの如くである。「外側にいかなる指示対象ももたない自分自身を指し示すもの」ーまさしく自己-魂とは「退隠するオブジェクト」である。

もう一箇所、引こう。

魂は、(もしわれわれのなかや世界に存在するとしても)一つの物でも領域でも元型的な視点でもない。それは、(…)ただ思惟に対してだけ存在する、内在的な矛盾を抱えた「個別」と「普遍」との間の抽象的な論理的関係である。

ヴォルフガング・ギーゲリッヒ

この箇所なども、用語を整えれば、マルクス・ガブリエルの「実在は〈意味の場〉において現れる」という議論と呼応するものだと思うのだが、まあ、実在論との対照はこの程度にしておく。

魂の現実性ー新・実在論的な意味での実在ーは、思惟のステータスにおいて、否定性を媒介として現れる。

その「思惟」もまた、当然ながら、自我による日常的な「意思」とは、その位相が異なってくる。
ギーゲリッヒはハイデガーの議論を援用して、「それぞれの偉大な思索者は根底においてただ一つの思惟をもって」いると論じる。
主体が“何かについて”思考するのではない、思惟自らが自らを構造変換しつづける「ただ一つの思惟」。
そのような「ただ一つの思惟」においてのみ「魂」は現れる。
そしてこの思惟自体が当然〈前にある後〉として可能となる。

このような思惟は、ハイデガーによれば、個々の思索者によって「考え出される」のではなく、彼のもとにやって来る、すなわち「思惟の経験から」やって来るものであるという。

ヴォルフガング・ギーゲリッヒ

ハイデガーは、この“到来するものとしての”「ただ一つの思惟」について、その特性を、次のように整理している。
1.ある思惟をもっていること(すでにそれを体験していること、すでにそれによって触れられていること)、
2.そのただ一つの思惟に対する絶対的な服従と束縛、選択の自由はなくそれが必然であること、
3.その一つの思惟から見た際の生命のあまねくすべての現象に対して潜在的に開かれていること。

自己-魂が、思惟のステータスにおいて否定的媒介を以ってのみ捉えられる被止揚性であること、そしてその思惟もまた自己-魂の先験性に相互規定的に定められた「ただ一つの思惟」を生きることを通してのみ可能となるということ。
ユングの説く「自己化」とは、こうした「到達しなければ始められない」探求を始めることであり、それを始めた瞬間に達成される「矛盾の実践的乗り越え」として体験される。

真の越境は、それが単に一本のラインを踏み越えることとしてイメージされるならば、理解されることはないのである。そこには、はるかに暴力的な何かが必要とされる。それはすなわち、世界の完全なる反転(…)、始まりと終わり、そして原因と結果という自然な契機の革命的な転回なのだ。
魂という転倒した世界では、門番の「否!」こそが入り口である。(…)それが唯一の入り口なのだ。そのような妨害なしには、始まりは決してありえない。(…)参入することが意味するのは、言うならば、否定のなかに身を浸すことなのだ。

ヴォルフガング・ギーゲリッヒ

主体が二重化する、とは、「偽の全体性」として仮象した「自我-世界」に“無条件の”「否!」を突きつけること、「一切」を破壊する根源的な暴力性を以って「一切」に接すること、そしてその「始原の純粋暴力」を通して、「分割された者」として生まれ変わる(二度生まれする)という体験なのである。

ユングの言う「自己化」とは、破壊と創造のイニシエーションをくりかえして、つねに自我によって引かれつづける世界線を踏み越えていく実践に自己投機する態度のことを言う。

魂は、考えつづける。その思惟の持続を通して、凡ゆる膠着を内破していく先に、予め既に捉えている魂の光景が開けている。

ところで、自己化の過程において、自我は「世界の中心」としての地位を失う。
言わば「全体性という夢」から覚め、自我の「誤った権能」であった再帰性の強迫から免れる。私はもはや私を語り続ける責めを負ってはいない。そこで“いったん”「私」は“消える”。

3.心と魂、まとめ

心は、心/身体であり、生化学的な安定性(ホメオスタシス)を基盤にし、進化の段階に応じて「層化」された構造即機能として存在する。
一方、魂は、その心/身体を「否定」することで弁証法的に導かれる実在の位相である。
心/身体が人間にとって与件として与えられているのに対して、魂は、実在への自己投機として実践的なステータスにおいてのみ現れる。

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