読む人_8月の3

画像1

中島岳志・保坂展人『こんな政権なら乗れる』(朝日新書)を読んだ。

選挙の界隈では「2・5・3の法則」ということが言われる。2割は選挙で野党に必ず投票する層、5割は無党派層で選挙にあまり行かない選択をする人が多い。3割は与党に入れる層だ。
野党側が勝つためには、固定票になっている左派的な層にだけメッセージを投げていては絶対勝てない。5割の層を取らないといけない。5割の層は必ずしも自公政権に強く満足しているわけではない。だが同時に、野党の政治ヴィジョン、実行能力にも信頼を置いていない。

私が思うに、5割の無党派層は、野党側の固定票となっている左派的な層に対して、潜在的な不信感を持っているのではないか。だから、野党はこの左派的な層に強く訴えるメッセージを発すれば発するほど、5割の無党派層は野党に対する不信をより強めていく。
その不信感とはこんなものだー左派層は理想主義的な「べき論」を言うばかりで、現実の状況に対して包括的にアプローチしていく世界観も打ち出せなければ、実行能力もない。

じっさい、民主党政権のマニフェスト政治は、見事に破綻したではないか。中島さんは、民主党のマニフェストはテクニカル・ナレッジの集積で、プラクティカル・ナレッジが軽視されていたことを指摘する。本当は、まずどのような社会が作りたいのかというヴィジョンと世界観が提示されていなければならないのに、民主党のマニフェストはそういうものではなく、百数十のやりたいことがずらずらと書かれているだけの代物だった。
左派お得意の政策工学にいくら力を注いでも、多様な人間の利害が絡み、組織の論理が錯綜する社会のなかでそれが実現できなければ意味がない。つまり、政治は合意形成の実践知に基づかなければならない。その合意形成の対話のベースとなるのが「どんな社会が作りたいのか」という大枠の世界観なのである。
民主党のマニフェストには、その合意形成の大枠としての世界観が欠けていた。なぜそれが欠けていたのかといえば、それは民主党の左派的な思考パターンにその悪因があった。左派的な思考パターン、それは「正しい政策を提示すれば、正しい政治が行われる」という単純な思考である。その単純な思考によって、異なる意見を調整していく経験値が軽視されてしまったのである。この合意形成の実践知がないところでは、どんな優れた政策も、絵に描いた餅でしかない。じっさい、民主党のマニフェストは、ことごとく失敗して、民主党には実行能力がないという烙印が押されることになる。そのときのトラウマが、5割の無党派層のなかに、根強く刻まれている。

さて、両者が分析するように、5割の無党派層は、じつのところ自公政権に積極的な支持をもっているわけではない。ただ、乗り移るべき「もう一隻の船」がどこにも見当たらないから、沈みかけた自公政権にしがみついているのである。もし野党が、左派的なべき論ではなく、明確で希望の持てる旗を立てて、「もう一隻の船」を出航させれば、無党派層は必ず動くだろう。「もう一隻の船」が出航していないところで、いくら「選挙に行きましょう」と煽っても無駄である。無党派層にしてみれば、その言葉もまた「いつもの左派の煽り文句」としてしか感じられない。

この社会をどんな社会にしたいのか。まずその大きな枠組みを提示しなければならない。中島さんは、今はもう保守対革新のような、右・左の時代は終わった、と説く。それでは、政治の方向を、どうつかめばいいのか。「リベラルーパターナル」の横軸と「リスクの社会化ーリスクの個人化」の縦軸の交差させ、四象限で捉えると分かりやすい。

リスクの社会化ーリスクの個人化の対立軸は「お金」の問題だ。人びとが生きていくなかでは様々なリスクに直面する。その際、社会はどの程度、それに関わっていくか。税金はあまり取らない代わりに、行政サービスも縮小するというのが「リスクの個人化」だ。様々なリスクに対しては、基本的に個人が対応するものであって、政治や行政に頼るべきではない。政府は小さくあるべきで、多くのことは市場に委ねるべきだという考え方である。
一方、「リスクの社会化」は、セーフティネット強化型である。リスクはみんなに降りかかってくるものなので、社会全体で対応する。税金は高くなるかもしれないが、教育や福祉や医療をその分充実させる。

リベラルーパターナル(権威主義・父権主義)の対立軸は「価値」の問題である。一般的にリベラルには保守が対置される。だが、リベラルと保守は対立的な概念ではなく、本来、一体の概念になり得る。リベラルと対立的なのはパターナルだ。
近代的なリベラルという価値観は、17世紀の欧州でプロテスタントとカトリックの間に起きた三十年戦争にひとつの起源があるとされる。戦争はウェストファリア条約によって和平がもたらされるが、この条約で欧州人が確認したのは、価値観で争っても解決は見出されないということだ。大切なのはトレランス(寛容)で、あなたとわたしの価値観が違うということをまず認める。自分とは異なる価値観に寛容になる。自分と相手、それぞれに異なる価値追及の権利を認めあう。リベラルの核心は、この価値追及の自由で、だから自由主義と訳される。人の内面の価値には他者や権力が土足で踏み入らないというコンセンサスである。
その反対語がパターナル。かつての父権主義のように社会に大きな力を持っている者が人の価値に土足で介入する。例えば夫婦別姓の問題について、リベラルは当然認めるが、パターナルは「日本人なら同姓に決まっている」と、価値観に介入する。LGBTQの諸権利についても「男女の愛こそが正しい愛なんだ」という価値観を強制し、同性婚を認めない。

さて、この「リベラルーパターナル」の横軸と「リスクの社会化ーリスクの個人化」の縦軸を使ったマトリクスのなかで、今の自公政権はどの象限に位置するだろうか。それは「リスクについては自己責任的、価値観はパターナル」という象限だ。
5割の無党派層は、この世界観に、積極的に賛成しているわけではないだろう。無党派層のなかには、その世界観に強く反対する人びとが数多く存在する。
野党が目指すべき路線は明確だ。それは「リスクを社会化し、価値観はリベラル」という象限である。ここに「もう一隻の船」の輪郭がある、と中島さんは論じる。

野党が2割の左派にだけ訴えかけるメッセージ、それは今の政権に「NOを突き付ける」という態度をもつ。批判的な態度は、人のネガティブな感情に訴えかける。だが、「NOでは政治は変えられない」のである。

安倍政権・菅政権は許せないと言えば言うほど、たとえば同じレベルの論議の欧州になっているんです。国会での証言が嘘か真実か、誰が見ても嘘やゴマカシが横行していますが、「嘘つき!」と追及してものりりくらりと終始するような、低いレベルの残念な政治の現状に取りこまれてしまう。もちろん不正や不祥事には、きちんと違う!と言わなければならないですよ。だが、批判を加えた上で、これからこういう社会を作るんだよということの方が、強く輝いていなければ魅力がない。なぜ安倍政権が国政選挙で連戦連勝できたのかといえば、やっぱり野党は否定形だったからです。「安倍政権はダメである」と。これに対し、安倍政権は、トリクルダウンとかアベノミクスとか結果として日本のあり方を歪めた面はありますが、景気をよくしますよとか就職率アップとか、さらに野党の主張を根こそぎ取ってきて、格差の解消、社会的貧困対策、幼児教育・保育の無償化などのメニューを並べる。どちらが強いかといえば、たとえば全部信じられないとしても、前向きの未来が開けると思える方がいいですよね。P46-47

左派的な否定形は、ルサンチマンの解消にしかならない。今や2割の左派とは、ほとんど、このルサンチマンのお手軽な解消を求めるだけの幼稚な精神性の人間の代名詞となっているのではないか。だから、5割の無党派層がそっぽを向くのである。
だが、野党がそうした幼稚な精神性に媚びるのをやめて、「こんな社会を作っていきたい」という明確な世界観を旗に掲げ、利害、理念のすり合わせという政治的な実行能力をもった人が立つならば、無党派層は動くのではないだろうか。無党派層は、とっくに、現在の自公政権に愛想をつかしているのではないか。…

この対話では、保坂展人が国政のなかで、また世田谷区長として、どんな実践をやってきたかが丁寧に追われている。
彼は5%の改革、という表現で、政治が現実に対応し続けるには、スクラップ・アンド・ビルドではなく、現行の仕組みをリサイクルすることであるということを、その具体的な実践において示している。

読んでいて、こんなふうに希望が持てた本は、久しぶりである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?