思弁日記2020.10.18

昨日、こんなツイートをした。

これね、あながち、まるっきりの冗談ってわけでもないんだよね。まあ、もちろん猫は言葉を話すわけではないので、「猫語」ってのは比喩的な言い方なんだけどね。要は、「もっと猫と通じ合うため」に勉強している。

おれは、それこそドリトル先生じゃないけど、猫だけじゃなく、生物やこの世界の「形ある存在物全般」と、じっさい「通じ合える」と思っている。もちろん、なんの知的手続きもなく通じ合えるとは思っていない。
通じ合う、ってのはどういうことか。外から分析的にアプローチするのではなくて、自分の内側と相手の内側が直に「ひとつになる」ってことだ。
これはじつはとてつもなく深い、拡張性の高い話で、本格的に掘り下げるとたぶん収拾がつかなくなる。そもそも内とは?外とは?という哲学的な話にもなってしまう。
だから、今日はちょっとある「切り口」だけを書こうと思います。生物、或いは、この世界と“通じ合う”ということ、そのためのひとつの「切り口」。

まあ、あまり理路を整理しても、読んでいてつかれちゃうと思うので、ここではまず、今日読んだ川崎悟司についてのツイートを引く。

これはもう、単に眺めているだけで本当におもしろいんで、一読をおすすめします。いや、この首、この顎はねえわ、どうしてこんなふうに進化しちゃったんだよ、と笑いながら、ん?、あらためて考えてみると、人間、むしろ不気味じゃね?なんて視点の転換もおこったりしてね。ほんとう、おもしろい。
でも、じつはこの本で真に興味深いのは、骨格をもつ動物の驚くほどの「同一性」だと思うんですよね。つまり、魚でもキリンでも人間でも、ぜんぶトポロジカルに転換できちゃう。パーツも、その構造も、驚くほど似ていなければ、こういうふうに転換すること自体不可能なわけです。動物が「ひとつの細胞」から進化してきたことの証左です。
さらに「骨格」というものは、機能的には、要は「重力に抗してより効率的に動く」ことを眼目にしている。だから、「ひとつのもの」から枝分かれしてきて、さらにその機能も同じであるということで、基本的な共通性を持つわけです。ただし、たとえばライオンであれば、「獲物を狩る」ということに最適化されている。だから、あんなふうに前足が頑丈にできている。クジラは海を泳ぐことに適応して、あんなふうな骨格になっている。まずこれを分析的に知ることで、人は、彼らに「成り切る」ひとつのきっかけを獲得するわけですね。

コンラート・ローレンツのことを書いたけど、彼なんかは、観察する対象の動物に「成り切る」ことで、その動物の習性やあり方を探っていくわけですね。「それは単に”想像”してるだけなんじゃない?」という声が聞こえてきそうだけど、そうなんです、でも、「想像」ということを改めて考え直してみましょう。「単に想像してるだけじゃない?」というとき、「単に」っていうからには、「想像すること」を、「主観的」「恣意的」というニュアンスで難じているわけですよね。でも、「想像」を「イメージを用いた感覚能力」という観点でとらえるとどうでしょうか。
人も、それから動物もそうですが、我々は、じつは現実を「客観的に」「ありのまま」に見ているわけではありません。あらゆる生物にとって、現実とは「イメージ」を用いた感覚のことなんです。まず、ここですね。ここを腹に落とすことができるかどうかで、「猫と通じ合う」ことのリアリティが感じられるかどうかの分水嶺となります。ここはちょっと大きく回り道をしましょう。

アントニオ・ダマシオ『進化の意外な順序 感情、意識、創造性と文化の起源』(高橋洋訳 白揚社)という本があります。この本で展開されている議論をすこし援用してみましょうか。この本では、人も含めた生物のもつ「感情」というものを、生物が発生したその最初期にあらわれた、生物のもっとも基本的な根底であると議論しています。え?と思いませんでしたか。え?と思うでしょ、と見越して、タイトルが「進化の“意外な”順序」と付けられています。まず、ちょっと引用しますね。

感情は生体内の生命活動の状態をその個体の心に告知する手段であり、ポジティブからネガティブの範囲で表現される。ホメオスタシスの不備は、主にネガティブな感情で表現されるのに対し、ポジティブな感情は、ホメオスタシスが適切なレベルに保たれていることを示し、その個体を好機へと導く。感情とホメオスタシスは、一貫して密接な連携を取り合う。感情は、心と意識的な視点を備えるいかなる生物においても、生命活動の状態、すなわちホメオスタシスに関する主観的な経験をなす。したがって、感情とはホメオスタシスの心的な代理であるととらえればよいだろう。

ここで、ダマシオは、「感情」の根源をホメオスタシスに求めています。ホメオスタシス、つまり恒常性ということですね。まあ、ニュアンス的に言えば「安心」ってことです。自分を破壊する脅威がなくて、一定の恒常性が保たれている状態。
それで、このホメオスタシスは、生化学的なレベルでの安定性にその根拠をもっているというんですね。つまり、生命以前の分子的な安定性ってことです。ある「形」がその「形」を保つための物理的な作用です。
これ、かなりおもしろくないですか?おれは、おお!と思いましたね、ここで。つまり、「感情」の基底には、分子レベル、化学レベルの安定性にとってポジティブであるかネガティブであるかってことがあるってことですよ!おもしろい、よね?(笑)
だって、このことを敷衍すればですよ、動植物はもちろんのこと、鉱物や地球も「感情」を備えているということになりませんか?
これね、哲学的には「汎心論」って言われている、万物が「心」をもつ、という考え方につながっていきます。

まあ、もっとも「感情」といっても、ホメオスタシスにとってポジティブかネガティブかという区別は、「感情」の「基底部」であって、実際の「感情」というのは、その基底部のまま現れるわけではありません。各々の組織ー身体の在り方に応じて、多様に構造化されているわけです。つまり、ヒトには人の感情のスタイルがあるように、猫には猫の、樹木には樹木の、石には石の感情のスタイルがある。
人間が感じている「感情」と同じ感覚を、猫や樹木や石が覚えているわけではないってことですね。
でも、その構造化のスタイルは違っていても、この宇宙に存在する事物は皆その構造化原理を共有しているわけです。
これは、量子構造から化学的構造、細胞構造に至るまで、スケールフリーで通貫している原理。例えば高度な神経組織もまた、単細胞生物の内的、外的な構造化の機能に対応して生まれたものに他ならないってわけ。ワンダー感じませんか?

細菌は環境の状態を感知して、自己の生存に有利な方法で反応する。シグナル分子を媒介に互いにコミュニケーションを取ることもできる。計算能力を動員して状況を評価し、それをもとに孤立したまま生存するか、必要なら集団を形成するかを決めることもできる。知覚、記憶、コミュニケーション、社会的ガバナンスなどのさまざまな能力を備えている。これらすべての「脳や心のない知性」を支えている機能は、やがて神経系が進化のなかで探査し、手に入れ、発達させることになる化学的、電気的なネットワークに依存する。つまり、進化の歴史のはるかのちになってから、ニューロンや神経回路は、化学反応や、細胞骨格と呼ばれる細胞体の構成要素、そして膜組織に依拠する、より古い発明を巧みに利用したのである。

つまりね、感情や思考や知的営為が、高度な神経系をもった動物にだけあらわれる属性じゃないってことです。細菌にも、知性がある。いや、そもそも生物ってことの定義は、「知性をもつ」と言い換えてもいいかもしれませんね。
もちろん、人間の「感情」もまたあらゆる存在物と同一の「心」をその基底にもつわけです。どうですか?なんか、人間が他の生物や形ある存在物と「通じ合う」のなんか当たり前じゃん……って気分になってきたんじゃないですか?まだなりませんかそうですか。話を続けましょう。

人間のような高度な神経組織を備えた動物において、その「心」はどんな「感情」「意識」に<構造化>しているのかを見ていきます。
生物の始原的=基本的な様態は、限りなく「部分即全体」「内即外」に近いネットワーク状の代謝機械だと考えられます。「部分即全体」ってのは、たとえば、人間は、指を一本切っちゃうと、もう生えてきませんね。でも、ミミズなんかは、ふたつに切断しても、それぞれから欠損部分が生えてきて蘇生します。そういうことですね。ミミズだってじつはもはや高度に進化した動物の一種なんで、これはあくまでイメージをつかんでもらうための例ですけどね。
それで、生物が高次化していくってことは、つまり、<構造化>していくってことです。指は指、切断しちゃうと生えてこなくなっちゃうってことですね。
この<構造化>というのはさまざまなレベルで「中央」と「抹消」が分化することを意味します。
<構造化>は、自らの外部に対象を特定する能力、つまり形状や材質などの刺激の特徴を「感覚」する能力、そしてその外部刺激の自らへの影響をイメージによって「マッピング」するだけの能力を発生させます。
あ、いまさらっと書いちゃいましたが、ここ、重要なところです。なんせ、ここに「外界」と「内界」の区別が生まれるんですからね。
そして、ここ最重要な箇所なんですけど、<構造化>された身体をもち、内界/外界の区別をもった生物にとって、「イメージ」は、環世界を創造する根源的な媒体として機能するんです。議論の当該箇所を引用しましょう。

イメージの存在は外的な事象と内的な事象に由来する、その瞬間の感覚刺激をもとに、各器官が内的表象を構築できることを意味する。身体の協力を得て神経系内に形成される内的表象は、そのようなプロセスを備える生物に新たなる世界を与える。その個体にのみアクセス可能な表象は、例えば四肢や身体全体の厳密な動作を導いてくれる。

まず、内界/外界が分化した瞬間「イメージ」が発生する。内界/外界の区別をもつ凡ゆる生物にとって、環世界とはイメージの織物であると言っていい。
生物は多様な感覚刺激=外界とそのマッピング=内界をイメージによって統合することで環世界を形成する。
わかりますか?もうすこし引用しましょう。ん?ん?って方、もうすこし読み進んでみてください。

各感覚ブローブは、無数の特徴から構成される外界の様相の、特定の側面をサンプリングし記述することに特化している。五感のうちどれか一つの感覚だけでは、外界を包括的に記述することはできないが、脳は最終的に各感覚による部分的な貢献を包括的な記述へ統合する。この統合の結果、物体「全体」の近似的な記述が得られる。

はい。つまりこういうことです。動物は、物理的な世界を「そのまま」経験しているわけではない。例えば、視覚ひとつとっても、それは光の波動を「眼―脳」という器官で、「処理=解釈」して現れる「イメージ」なのである。
だから、「眼―脳」が光の波動のどの帯域を「処理=解釈」できるかによって、見えるものが違う。
さらに、さっきから「眼」じゃなくて「眼ー脳」と書いているのは、「眼」によって入ってきた情報を「脳」によってどう構成するかということに、ひとつ段階があるからだ。人は二つの「眼」をもつが、その二つの像から、一つの像を“結ぶ”。この”結ぶ”という処理を「脳」が行っている。トンボのような「複眼」をもつと、また“結ばれる”像は変わってくる。
つまり、動物というのは、それぞれの身体によって、物理的な刺激から「イメージ」を結んでいる。「世界」とは、つまり「イメージ」でできているのである。そして、身体が変われば「イメージ」の結ばれ方も変わってくる。はい。こういうことです。OK?

さて、それでは、人間において、生体内の基本単位である「イメージ」は、どのように<構造化>されているんでしょうか。ダマシオは「生体内には二種類の世界が存在する」と説いています。すこし長くなりますが、当該箇所を引用しますね。ちょっと途中で、う…となった人は、引用個所を読み飛ばしてもらってもかまいません。

古い内界は最初で最古の内界で、基本的なホメオスタシスに関係する。
多細胞生物では、この世界は、代謝とそれに関連する化学作用、それに加え心臓、肺、腸、皮膚などの諸器官、さらには血管の壁面や諸器官の被膜をなす部位の至るところに見られる平滑筋から抗せされる。

平滑筋はそれ自体が内蔵の構成要素である。

内界のイメージは、「健康」「疲労」「深い」「痛み」「快」「動悸」「胸やけ」「腹痛」などの音場で表現される。
それらのイメージは特殊である。というのも、私たちは古い内界を外界の物体と同じように描いたりはしないからだ。
確かに繊細さには欠けるが、怖れを感じたときに生じる喉頭や咽頭の硬直、喘息の発作を特徴づける気道の収縮やあえぎ、あるいは震えなどの運動反応を含めた身体のさまざまな部位に対する特定の化学物質の影響など、変化する内蔵の幾何学を内蔵感覚の言葉で思い描くことができる。
まさしくこのような古い内界のイメージが、感情の核となる構成要素をなしているのである。

古い内界と並行して、より新しい内界が存在する。この世界は、骨格とそれに付着する骨格筋と呼ばれる筋肉に支配されている。

骨格筋は「黄紋」筋、「随意」筋とも呼ばれ、純粋に内蔵的で、意思のコントロールの及ばない「平滑」筋や「自律的な」タイプの筋肉とは区別される。
私たちは、動き回る、ものを操る、話す、書く、踊る、楽器を演奏する、機械を操作する際に骨格筋を使う。
古い内蔵の世界の一部が宿る身体の包括的な枠組み(ボディ・フレーム)は、これまた古い世界に属する皮膚のための足場となって、それにすっぽり覆われている。

皮膚は内蔵の世界の最大の組織である点に留意されたい。またボディフレームは、豪華な首飾りに散りばめられたあまたの宝石のごとく、感覚ポータルが埋め込まれる台座である点にも注意する必要がある。

感覚ポータルの概念に私が注目している理由は、視点(パースペクティヴ)の形成においてそれが果たす役割に関係する。説明しよう。たとえば私たちの視覚は、網膜に始まり、視神経、外側膝状体、上丘、一次視覚皮質、二次視覚皮質など、視覚システムのいくつかの中継地点を経由する、プロセスの連鎖の結果として生じる。
しかし視覚像を生むためには、注視する、見るなどの行為を実行する必要があるが、それらの行為は、視覚システムの中継地点とは異なる、身体や神経系の他の構造(身体に関してはさまざまな筋肉のグループ、神経系に関しては運動コントロール領域)によってなされる。
そしてこれらの他の構造は、視覚の感覚ポータルに位置している。

おもしろいですね。ここで書かれていることは、主に内臓感覚に由来する基礎的な感情と、運動感覚に由来する新しい感情があって、それが層状に重なって、時に混交したりしつつ人間の感情を構成しているということです。

これ、吉本隆明も同じようなこと言ってましたね。吉本は晩年、解剖学者の三木成夫の所論によりつつ、「心」を、体内の自律神経系に制御された内蔵に由来する層(三木はこの層を進化的に「植物系」とした)と、感覚ー運動系に由来する層(「動物由来」)に分けて考えられると提起しました。ダマシオが、ここで説いているのも、まったくパラレルですよね。

さらに、身体を感覚ポータルの「台座」として捉えることの強調は、中村雄二郎が説いた「共通感覚」論と同じ問題意識にも通じます。
そもそも五感は独立した機能ではなく、例えば視覚を機能させるにしても、そこには運動感覚や触覚との協働が必須、その協働を可能にする台座が身体なのだという考え方ですね。

ところで、吉本が「心」を、1.体内の自律神経系に制御された内臓に由来する層と、2.感覚ー運動系に由来する層に分けて捉えたのは、当時隆盛だったメディア論や世代論への疑義の意味もあったんですよね。人為的な環境が変われば人間自体が変わるというのは早計で、そこで変わるのは2の表層部でしかない。1のより古い心の層は、現人類がホモ・サピエンスになって以降、基本変わっていない。人間を見るとき、少なくとも新石器時代からのタイムスケールで見ないと間違うことが多くなるってことです。
そのタイムスケールで見れば、ブッダや紫式部も、もちろん「同時代人」。歴史的な(アフリカ的段階)の狩猟民と、近代に生きる我々との違いは2の表層部分にしかない。
人間について考えるためは、表層変化を見る眼差しと共に、1の深度において見る複眼的な眼差しが必要で、特に現在は、1の視座に立った生の組み替えはどのようにして可能かという課題が重要なのかもしれません。
おれなんかは、さらに、人だけではなく、生物全般にまでその射程を延ばそうとしてるってわけです。

ああ、なんかだいぶ長くなっちゃったな。今日はこの辺りで切り上げます。
あ、そうだ、関連するnoteで今西錦司について書いたやつがあるんですよ。それ、ちょっと文体が硬いんだけど、興味のある人は読んでみてください。

→今西錦司の多元的汎心論 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?