雑然日記2020.07.02

和氣健二郎・養老孟司・後藤仁敏・坂井建雄・布施英人編『三木成夫 記念シンポジウム記録集成 発生と進化』(哲学堂出版)を読む。
三木成夫没後のシンポジウムの記録と、各関係者からの寄稿で編まれている。まえがきで養老孟司が言っているように、三木成夫は、その業績や言説以上に、出会う人ごとに何か非常に強い非言語的なレベルでの影響を与えた人のようだ。それは、いわゆる人柄ということではなく、やはり思想ということなのだろうが、非言語的な段階での着想の強度がものすごく強い人だったということだと思う。
マルセル・モースについて書かれた回想を読んでも、同じような印象を覚える。モースからは、レヴィ=ストロース、ルロワ=グーラン、マルセル・グリオール、ジョルジュ・バタイユ、他といった、各々資質を異にする大思想家達が等しく何かしらの大きなインパクトを受けている。そういう人というのがいるのだ。

三木成夫の著作は、概ね読んでいるが、ここに来てもう一度読み返したくなっている。ゲーテやクラーゲスやグールドの著作と併せて、まとめて再読しようと思う。そのクラーゲスの訳者でもある吉増克實のテキストに、三木成夫『胎児の世界』からの引用がある。生物とは「星の子」であるとする三木の着想が過不足なく描かれている箇所だ。おれも何度か読んで、半ば記憶している箇所である。ここに改めて引いておく。

サケが故郷の川へ産卵のためにさかのぼっていく。雁が南の餌を求めて大空を渡っていく。これらが季節の風物詩として定着していることは、たれも否定できない。動物の世界では、ふつう餌場と産卵場は離れている。ときには地球を東西・南北にひとまたぎする距離が観測される。これらは機動力をもつ魚鳥の世界のものだが、かれらは、この食と性の場を巨大な振子運動のように、それも地球的な規模で行き来する。この振子と天体の周期が一致することはいうまでもない。植物の世界にはこの振子運動はない。そのかわり、春の到来を告げる開花前線の北上と、秋を彩る紅葉前線の南下が見られるであろう。この地球のあでやかな衣替えがそのまま自然の周期を告げる“人文字”の流れとなることは、これまた周知の事実であろう。こうして生物のリズムを代表する食と性の波は、四大リズムを代表する太陽系のもろもろの波に乗って無理なく流れ、そこにはいわゆる生と無生の違いこそあれ、両者は完全に融け合って、一つの大きなハーモニーをかもし出す。まさに「宇宙交響」の名にふさわしいものであろう。
最初の生命物質は、いまを去る三十億年むかしの海水に生まれたという。それは、この地球をつくるすべての元素を少しずつもらい受けた一個の球体であったと考えられる。それは、一つの界面をとおして、周囲から一定の物質を吸収し、それを素材としてみずからのからだを組み立てる一方、つくったものを片っ端からこわして、周囲にもどしていく。つまり、吸収と排泄の双極的な営みによって絶えざる自己更新をおこなう、まことに新奇な存在であったという。この原始の生命体は、したがって「母なる地球」から、あたかも餅がちぎれるようにして生まれた、いわば「地球の子ども」ということができる。この極微の「生きた惑星」は、だから引力だけで繋がる天体の惑星とはおのずから異なる。それは「界面」という名の胎盤をとおして母胎すなわち原始の海と生命的に繋がる、まさに「星の胎児」とよばれるにふさわしいものとなるであろう。

伊藤比呂美『道行きや』(新潮社)を読む。
表紙に「(ちくしょう)/あたしはまだ生きてるんだ」と大きなフォントでデザインされ、続けて「漂白しながら生き抜いてきたわたしの見ている風景は……/女たちの暮らし、故郷の自然、一頭の保護犬、河原古老、/燕や猫やシイの木やオオキンケイギク、/そして果てのない旅路に吹く風だった。/人生いろいろ不可思議な日常を書き綴る。」とある。

三木成夫は、「こころ」と「あたま」を“腑分け”してものを考えた人だ。さっきの吉増克實のテキストにこころとあたまということをめぐってこんなくだりがあったー「現実とつながり、現実の意味を受け取るのはこころであり、受け取られた意味を判断するのがあたまです。こころの声がきこえなくなったあたまは悩むしかないのです。あたまばかり働かせていると、こころの声が聞こえなくなり、生きている意味すら見失うのです」。
伊藤比呂美という人は、この「こころの声」が、凄く大きく聞こえている人ではないかという印象がある。
例えば石牟礼道子などにも感じる印象なのだが、こころが自然と直結していて、彼女たちはさぞかしにぎやかなざわめきのなかで自らの生命を遊ばせているのではないか、ほとんど猥雑、殷賑と言っても過言ではないエロティックな交わりを日々経験しているのではないか、彼女たちの詩文には、そう思わせる生々しさがある。
逆に、彼女たちのような存在は、人間関係には収まりが悪い。彼女たちは、人との関わりにおいても、過剰な自然が滲み出す、溢れかえる、だから、彼女たちに惹かれる男は、彼女たちの体現する自然に溺れてしまうことになる。

夕方、元セフレのハーマンと少し話す。恋人とセフレとの違いについて。恋人同士は、例えばセックスして、セックスするふたりについての神話を語り、その神話を実践するようにセックスして、…という眩暈のするような循環に入っていく。そして、その循環によって強められた互いへの執着が、それぞれの身体を変えていく。
恋人同士は、どこまでも淫らで節操がない。身体に相手の存在が焼き付けられ、魂の形が変わっていくのを味わって、とめどもない。ちょっと転がれば、心中すら厭わない軽薄さに酔い痴れる。
だが、セフレというのは、とても禁欲的だ。互いの実存を巻き込んで、互いのオブセッションを許しあい、そうしてより複雑に奇形化していくことを許し合うのが恋人同士だとすれば、セフレはあくまでも、互いの領域に踏み込む一線を越えることはない。
「私は、Mと何度も恋人になりかけた瞬間があったような気がしたんだけど」そうかな?「Mは、ずるいからなぁ。本当、かわしてばかり」ううん、意識してかわしてたのかな?「いや、知らねえよ(笑)」まあ、こういうことは縁だからねえ。「うん。Mとは縁がなかった。そう思うよ。そう思うから、こういう話もできる。でもさ」うん?「恋人になるって凄いことだよね。絶妙なタイミングで、ふたりがいっせーのっでって、飛び込まないといけない」あー、そうだね。啐啄一如ってやつだ。「奇蹟だね。セフレには簡単になれるけど、恋人には奇蹟が起こらないとなれない。」まあ、わりと簡単になれるけどね。「こんな難しいことが、簡単にそうなれちゃうところが奇蹟なんじゃん!」ううん、そうねえ。。。



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