デザイン日記2020.10.22

クリストファー・アレグザンダー『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』(中埜博監訳 鹿島出版界)という本がある。
これは、「なんか、そこにいるだけでわくわくしてくるような気持ちのいい場所と、どうにも退屈で気持ちが萎えてくるような場所があるよね?それって主観的な気分の問題じゃなくて、その空間の<客観的>な性質によって決まってる。つまり、その場所を構成している地形、土木、建築、そこに配置されている物、さらにそこを行きかう人や生き物なんかのパターンによって決定づけられている」という前提に立って、「じゃ、場所を生き生きさせるパターンってのは何か。そのパターンに法則性はあるのか」ということが書かれている本です。

とても面白い構成の本で、600点余の図版を使って、生き生きとした、「生命が現れてくるパターン」を、理論以前にまずその「感じ」として描出するところから議論が始められるんだけど、まず、数例ピックアップしておこうか。

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例えばこの二枚の写真、同じ貧困地区の写真なんだけど、左のドミニカ島の方が、右のハーレムのスラムよりも、より「生命」の「量」が多いように感じられる。
これは、ただの「印象」ではない。あるいはこの「印象」には、主観的な恣意性を超える客観的根拠がある。

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例えばこの二枚の例では、目に見える緑の量は同じだが、左の写真では、道路が丘に対して調和しており、より多量の「生命」が感じられる。
したがって、ドライブするには、左の道の方が楽しくなる。

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もう一例だけ引く。「コニーアイランドの自販機の鏡の中の自分を見ている少女は、広告の中でポーズをとっているモデルよりも、この瞬間、より強いエネルギーとより大きい『生命』への愛をもっています。」

著者は「生命」を、「私たちが歩きまわる最も日常的な場所で、最も平凡なできごとで、世界の片隅でのかすかな違いとして感じる何か」であり、「場所から場所、瞬間から瞬間に変化している質」であり、つねに強弱をもって現れてくる、と表現しています。
そして、ここで言われている「生命」という「空間の質」は、じっさいに生物がそうであるように、ある「形」「コンポジション」「フィギュール」を持っていることが指摘されます。

例えば、私の家は庭に鴨がいるために、より良いものになるのです。また、窓の美しい形状は、窓そのものに「生命」を生じさせるだけでなく、それを含む家の「生命」をも強化するのです。
(…)人生の中で到達するより力強い「生命」は、建築に使われる丸太や石の中にある「生命」の存在と、非常に複雑に結びついているのです。

アレグザンダーは、「生命」が現れる「形」は、人間の内観(「~な感じ」「生き生きしているような感じ」)と密接に響き合っているが、だからといって主観的な恣意性に左右されるようなものではない、と論じています。
彼の論じるところを真に理解するためには、人間の内観と物の形とが”直接”通じている、内でも外でもない、あるいは内でも外である、特殊な時空を想定する必要があります。
この「内即外」の特殊な時空は、哲学的な言い方をするなら「汎心論の時空」と言えるでしょう。

さて、哲学的な命題を深堀するのはやめておきます。重要なのは、「生命」が「識別可能な構造」と複雑に結びついているということです。
生物が「構造」を持つように、「生命」もまた一定の「形ーフィギュール」において現れる。ここに、建築やデザイン、制作への問題に直にリンクしていく視点が示されることになります。「生命」が単に内観として「生き生きした感じ」というだけでは、それを「設計」したり「構築」したり「制作」したりすることはできません。でも、それが「形ーフィギュール」に拠っているのであれば話は変わってくる。人は「生命」が現れる空間を意図的につくることができるということになります。

さて、それでは「識別可能な構造」に「生命」はどのように現れるのでしょうか。
「生命」の特質は「全体性」ということです。「生命」は部分に分割することはできません。つまり、我々は、「全体性」を分析的にとらえることはできず、直観によってのみそれにアクセスできます。
重要なのは、空間のなかで、どんな部分をも、ある連続体の一部として捉える視点をもつということ。「部分」は断片ではなく、全体と相即的という意味で“全体でもある”のです。そのうえで、いわば「最初の点」をどこに置くのかを「決め打ち」することが、つまりデザインの役割ということになります。

例えば、紙面という囲われた「場」があると、点をひとつ打つだけで、そこにひとつの「構造」があらわれます。

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「構造」におけるそれぞれの「要素」は、紙面という「場」とのバランスの均衡によって成立しています。「要素」はつねに「場」との相関のなかにある。それが「構造」というものの特徴になります。

「場」とは、つまり「全体性」のことですが、アレグザンダーは、ひとつの「全体性」は、より大きな「全体性」のなかに局所的な「センター」として現れると論じています。
はい。ここは、ちょっと立ち止まって、しっかり理解したいポイントです。つまり「場=全体」がいくつもあるのです。「全体」というとなにかすべてを統合する原理、働きのように思ってしまいますが、そうではない。それはあくまでも具体的な「場」であり、その集合内の要素“全て”と相即するという意味で「全体」なのです。
「全体」である「局所的なセンタ―」は、他の「局所的なセンタ―」と結合したり、交叉したりする。これは哲学的にいうと、ライプニッツの説いたモナドロジーにとても近い世界観です。

さて、デザインにとって、この「センター」が「センター」として成立する条件とは何か、ということですね。著者は、強い「センター」は、より大きな「センター」や他の多数の「センター」と結びついて、より強い「生命」をもつようになる、と論じています。著者がまとめている「センター」の特性を引いておきましょう。

1.「センター」はそれ自身が「生命」を持つ。
2.「センター」は互いを補い合う。「センター」が一つ存在すると、その「生命」は他のもう一方の「生命」を強化する。
3.「センター」は「センター」からつくられる(これが「センター」の構造を述べる唯一つの方法です)
4.「構造」は、その中で形成される「センター」の強度と、その密度によって、「生命」を持つようになる。

「センター」は、それが強い「センター」として存立するためには、ある幾何学的特性をもたねばなりません。アレグザンダーは、その特性を15種類挙げて論じています。その15種類とは、-
1.「スケールの段階性」
2.「力強いセンター」
3.「境界」
4.「交互反復」
5.「正の空間」
6.「良い形」
7.「局所的に現れるシンメトリー」
8.「深い相互結合と両義性」
9.「対比」
10.「段階的変容」
11.「粗っぽさ」
12.「共鳴」
13.「空」
14.「簡潔さと静謐さ」
15.「不可分であること」

例えば、「境界」という条件。「境界」がない、無辺の広がりのうえではどんな「形」も生まれません。
さっき、紙面に点を打つことで、「場」が生成されるという例を引きました。なぜ、点を打つことだけのことで、そこに構造が立ち上がるのかというと、そもそも紙面という境界に囲まれた「場=全体性」があるからです。「境界」は、「場」を設定することによって、その内部に構成の緊張を生みます。つまり「境界」は「センター」を形成するということです。「境界」は、それが区切られることで、「センター」を形成すると同時に「境界の外」を形成します。「境界」は「センター」を守る同時に、「センター」を多数の「センタ」との緊張ーバランスのなかに置き、「センター」間の結合、交叉を実現するのです。

それから、もうひとつとりわけ興味深いのが、「粗っぽさ」という条件です。

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例えばこの椀の模様は、各々がまったく同じものはなく、皆一貫して異なっています。この微妙な変化が、この椀の調和をつくりだしているのです。これは、よく勘違いされるように、「人間の手仕事による個性的で不正確なゆえの魅力」ということではありません。むしろ、この「粗っぽさ」は「正確さ」の追求なのです。もし、これが三角グリッドに則って機械的に描かれていた場合、椀の曲線に対応できずに、調和の印象を形成することはできません。「粗っぽさ」とは、模様全体の「センター」を守るための注意深い「正確さ」の要請なのです。
総じて、人の手仕事の「機械には不可能な正確さ」には、同じような特性が備わっています。

そして、ことに興味深いのは、アレグザンダーが、こうした「粗っぽさ=手仕事の正確さ」が実現されるには、人が「自由」でなければならない、と論じていることです。

「粗っぽさ」は、本当に自由で本質的なことのみを実行しているときにうまれます。一方、つくり手が完全に奔放になりきれず、自由でないときは、人工的で過度に形式ばり、慎重な計算づくの質が生まれてきてしまいます。

「本当に自由で本質的なことのみを実行しているとき」は、逆説的なようだが「無心の状態」になる必要があるということです。
「粗っぽさ=手仕事の正確さ」は、設計を重ねることで秩序を積み上げていくことではなく、大きなスケールの秩序を緩めて、デザインの様々な部分の局所に起る要求に応じて修正を加えていくことで実現されるのです。

先に、「「生命」の特質は「全体性」ということです。「生命」は部分に分割することはできません。つまり、我々は、「全体性」を分析的にとらえることはできず、直観によってのみそれにアクセスできます」と指摘しておきました。
「生き生きした形」のデザインは、つねに「部分」を操作しながら、ただしそのことが「全体」に促されるようにして成される必要があるのです。その「部分」と「全体」を相即的に操作する方法論が、「無心、奔放になること」である、とアレグザンダーはそう言っているのです。ちょっと痺れませんか?

この辺りのより詳細な議論は、クリストファー・アレグザンダー『形の合成に関するノート/都市はツリーではない』(稲葉武司・押野見邦英訳 鹿島出版会)の方で展開されています。
ここで、アレグザンダーはずばり「デザインの最終の目的は形である」と定義しています。

形(図)は、背景=文脈(地)において現れます。これは、さきほどのセンターの議論と同じことが言われています。しかし、そもそも、全体がなぜ形として現れなければならないのか、といえば、それは、背景=文脈が均質ではないからだ、そこにある不均質-不均衡に応じてバランスを取るのが形の存在理由である、と議論が深化されています。

どんなデザインの問題も、求められている形と、その形の全体との脈絡、すなわちコンテクストという二つの存在を適合(fit)させようとする努力で始まる(…)。形は問題にたいする解決であり、コンテクストはその問題を明確にする。言葉を変えると、我々がデザインについて話すとき、議論の本当の目的は、形だけに限られず、形とそのコンテクストから生まれる調和のとれた全体、すなわち、アンサンブルも含まれている。

アレグザンダーはこのアンサンブルの例として、「自然の有機体と物理的環境がつくるアンサンブル」、「トラックの運転手と運転標識のアンサンブル」「ネクタイとスーツのアンサンブル」「チェスのアンサンブル(ゲームの或る局面で、ある一手が他の動きよりも前の手のコンテクストに関連してより十分に適合しているために、一層適切だというような)」等を挙げています。

コンテクストと形は補い合う(生命は、部分と全体が相即するという先ほどの議論の言い換えです)。
したがって、適切な形は、仮に、コンテクストを的確に読んで、そこに一元的な描写を与えることさえできれば、自ずとそれ以外にはあり得ないような形として“浮かんでくる”(「形」は分析的に導かれるのではなく、つねにまず直観される、ということです)。
形を創造することと、コンテクストに的確な定義を与えることは、デザインという問題解決行為のコインの表裏ということです。

ここでアレグザンダーは、建築において未開民族が為してきたような「無自覚な制作プロセス」の優位性について論じています。
個人的な「私性」を消したところで制作される「無自覚なプロセス」は、なぜ優れた結果をもたらすのでしょうか。先ほど議論しておいた「無心、奔放になること」が、なぜ優れた結果をもたらすのか、ということがより深いところまで考えられています。

無自覚なプロセスは「動的平衡」の構造を持つがゆえに、変化の中にあってすらも、一貫して良く適合する形を生産する。また反対に「自覚している文化」では、そのプロセスにおける動的平衡のプロセスが故障しているので、コンテクストに適合できない形の生産が起る。

つまり、形とは、すべからく多数の異なったコンテキストに全対応する「多変数対応の多面体」であるべきなのです。
未開民族においては、形の創造において、神話的な知が参照されます。それは多くの先人たちが自然と格闘してきた記憶装置であり、「硬い参照項」として機能します。
そして、二番目に決定的な特徴は、「失敗と訂正が並行していく」という点ー「失敗を確認し、それに反応するという間に思案がない」。つまり、形とコンテキストの不適合を適合化するのに、思案=言語を介在させない、という点が最重要のポイントなのです。

このようなプロセスの動きは、個々の職人の能力に負担を強いるものではまったくない。形をつくる人は、単なる代行者であって、形が発展していく間に努力が求められることはほとんどない。何の目的もない変化ですら、このプロセスの組織に内在する平衡の力によって、ついには良く適合した形になる。すべての代行者に求められるのは、不都合が起ったときに、それを確認し、それに対応することである。そしてこれは、もっとも単純な人間にすらできることである。

ここで、創造する者における「私」は、あくまでも「エージェント」でしかありません。私とは、「私の身体」を神話/自然が作動する磁場に置くことで、「私の手」「私の口」がオートマティックに「新しい形」を創発する、そのための「調整役」でしかないということです。「無心、奔放」であるとき、人は、そのような精神的モードを獲得するということです。

さて、形と機能は、本来統一的に記述できる、同じ構造のふたつの側面であるといえます。
デザインの問題を解くことは、この統一された記述を見つける努力をすることなのです。
その「統一された記述」が創発されるのは、演繹的なプロセスではありません。
それはまず「形の直観」して、それを機能にコーディングしていくことが常なる作業手順になります。

デザインの背景となる諸要求をダイアグラムにしても、形は演繹的に導かれることはないのです。
ただ、例えばその諸要求をダイアグラムとしてまとめることは、直観が働きやすくするための準備作業として機能します。
しかし、ここでひとつ気をつけねばならないのは、このダイアグラムの内容を、よく知られた概念、言葉による定義、哲学的或いは批評的な文脈を与えるということしてしまってはいけない、ということです。そのように「既定性の記述」を与えてしまうと、「未定性」から創発される「形」という直観が作動しなくなってしまうのです。
デザインは問題を整理したり俯瞰したりするためのものではなく、それを解決するための実践を与えるものです。そこでは常に、多変数に対応する「形」を発明するというのがゴールになります。
相互に関連する項のダイアグラムは、あくまで相関性の保持のために利用されねばならず、その相関性のメタレベルに立ってしまうと準備作業自体に何の意味もなくってしまうんですね。

・「形」は多変数(複数の、時に矛盾する要求)を“同時に”解決する「構造即機能」である。
・「形」の「発明」のためには、言語によるリニアな整理はむしろ阻害的に作用する。
・思考ツールとしてはダイアグラムの方が適している。
このことはデザインのみならず、「問題解決型」の思考一般の原則となり得るでしょう。

形を機能として作動させるには、プログラムの実装が必要になりますが、「プログラムの実装」とは、「形」の経過的な転換であるとイメージすると、その指針がうまく掴みやすくなるかもしれません。

・「形」をタスクに解凍すれば、「アルゴリズム」になる。

例えば起業とは、市場に潜在する多様な要求を独自の変数の集合にまとめあげ、そこに適切な「形を与える=アルゴリズムを実装する」ことと定義できることになります。

この論考で、アレグザンダーはヤカンを例にとって説明しています。
ヤカンに要求されるのは、例えば「なるべく速くお湯が沸くこと」、そして「一度沸騰したお湯はすぐに冷めないのが望ましい」。
この2つの要求は矛盾するが、この矛盾を乗り越える素材が「発明」できれば、ヤカンのプロダクトデザインにおいて「より最適な解」が実現します。
さらに、一時期以降、日本では、注ぎ口に笛が付いたヤカンが一般的に普及しました。
これは、沸騰のタイミングを知らせてくれる「解」ですが、この場合多くの人は「ヤカンに笛が付いたことで事後的に、『沸騰のタイミングがわからないのは不便』という要求があったことに気づいているということに留意する必要があります。
つまり、要求変数の群と、それを解決するデザインは、市場において相互制作的なものとなっているということです。

以上から、クリエイターに求められる資質として、まず、「場」において一般に意識に上がっていない潜在的な要求変数にいかに気づくことができるか、ということが第一の条件として挙げられるでしょう。
「形とそのコンテクストから生まれる調和のとれた全体、すなわち、アンサンブル」のうちに、いかに「不協和音」を聴き取ることができるかということです。
アレグザンダーの言う要求変数群のダイアグラムは、そのダイアグラムの制作自体が創造的なプロセスとして機能するでしょう。
つまり、要求変数のダイアグラムは、その制作過程で、要求間の関係性を整理し可視化するだけでなく、それまで気づけなかった潜在的な要求をアナロジックに導出するという効果をも持っているということです。むしろ、この効果のメリットが大きいかもしれません。

さて、長くなったので、今日はここまでにしておきます。後半、ちょっと説明不足だったかもしれませんね。その敷衍も含めて後半に続きます。

to be continue...

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