思弁日記2020.11.06

例えば、何かを食べて「美味しい」と感じたら、全身が「美味しい」一色に染まる、おれはそういうことのレッスンをしている。

つまり、「現在に一致する」という絶え間のない実践である。

未来や過去に引っ張られる、人や物や情報に引っ張られる、そんな<横>からの力に抗して、ただゆらゆらと<垂直>に立っている。ひとりで歩いている。

テレビやネットの情報を信じない。道徳も常識も信じない。そうしてそっと社会から脱走する。
尊敬も軽蔑も信じない。愛も憎しみも信じない。そうして人々の間からも脱け出してしまう。
希望も絶望も信じない。快楽も苦痛も信じない。そうして自分自身からも脱け出して、今、ここに<垂直>に立つ。

不安や痛苦に挫けないでいることと、安逸や快楽に溺れないでいることとは、どちらも同じことだ。
抑え込むのではなく、傾かないようにすること、ちょっとした体勢の工夫のようなことでしかないのである。

いいことも、悪いことも、相応に迎えて、過ぎるままに見送ればよい。抑え込むのでも、欲するのでもなく、その力に傾かないようにするのである。
逃げもせず、しがみつきもしないでいる。好きにもならず、嫌いにもならずにいる。
すると、いいことも悪いことも、どんなことも、不思議の色一色に染まる。

安逸は不安と表裏、快楽は苦痛と表裏だが、その「あいだ」は不思議一色のスペクトラムである。
表と裏の「あいだ」、その不思議の一元こそが、今、ここの中庸であり、<垂直>の姿勢で立っている限り、誰もが今、この瞬間、その中庸に脱することが適う。

何かを食べて「美味しい」と感じたら、全身が「美味しい」一色に染まる、「美味しい」ことに抗するでも溺れるでも、解釈するでも執着するでもなく、ただ「美味しい」一色に染まる、その一色はいつも不思議の一色なのである。

つまらない仕事に追われているときと興味深い本に没頭しているとき、喘息の発作で夜中に独り苦しんでいるときと気の置けない友人と会って歓談しているとき、…どんないい「とき」も悪い「とき」もまったく同じように「迎え入れ、見送る」という体勢を習得することだ。

苦しみは、「逃げて、しがみつく」態度のうちに現れる。「迎え入れ、見送る」体勢を覚えれば、苦しさの苦味も楽しさの甘みも、すべては不思議の妙味に変わる。

苦みも甘みも辛みも、どんな味わいも、それを中庸において味わえば、妙味に変わる。錬金術の秘法は、ごく簡単なこと、<垂直>に立ち、どんな「とき」も「迎え入れ、見送る」こと、それだけのことでしかない。

<言葉>には慎重にならなくていけない。
例えば、「忙しい」と言葉にすれば、「忙しさ」が実体化してしまう。実際は、目の前の作業をひとつずつこなしていくしかない。
「忙しい」と思う暇もなく立ち働いているとき、ふと10分の余裕が生まれたりする、そんなとき、「ああ、閑だ」と思うこともある。

<言葉>に慎重になる、とは、<言葉>の、「指し示すものを実体化する」という<呪>の側面に意識的になるということだ。
<言葉>の<呪>に対する免疫を高めること。
人の<言葉>を信じないこと、つまり、違和感を説得されないでいること、無闇に議論しないこと、或いは逆に<言葉>を「濫用」してみること。

<言葉>は、良い/悪い、快/不快というバイナリーな単位の組み合わせでできている。その「あいだ」を指し示すには、「良くもなく、悪くもない」「良くもあり、悪くもある」と奇妙なロジックを弄さねばならない。
「快でもなく、不快でもない」「快でもあり、不快でもある」。…

今、ここの<中庸>に<垂直>に立つと、<言葉>よりも沈黙の方が、つねに的確であることが知れる。
そして、「言葉を発する」ということが、つねに「矛盾を矛盾のまま乗り越えること」だと、自ずと知れるようになる。

幼子の頃を思い出すと、“人間らしい感情”を覚えているときほど自分の挙動が嘘っぽく、要は人間というのは嘘なのであって、大人になるにつれその嘘に馴染む。
それでは幼児の頃の「素」とはなんだったかと思い返せば、雨や猫や虫や自らの体に不思議を覚えていた、そのぼんやりとした在り方でしかない。
何もかもが寄る辺なく、しかし雨や猫や虫や体は宇宙を宿している、そのことだけが本源の安心だったのだった。
人間の間で人間になることに馴染んでいくのは、不安で、でもどこか滑稽な気もして愉快なことでもあった。

シオランが「60歳の今知っていることを、私は20歳の頃既に知っていた。このあらずもがなの検証の時間…」というようなアフォリズムを書きつけているが、結局、人は「生まれること」でその人のほとんどは成されており、「生きること」は、「あらずもがなの検証の時間」でしかないのかもしれない。

人間は胎内で、生物の進化の歴史をくりかえすのだという。個体発生は系統発生をくりかえす、…つまりひとりの人間が「生まれる」ことのうちには何十億年という時間が畳み込まれているということだ。個体が「生きる」のは、100年に満たない。

どのように生きればいいか。恐らくはどのように生きても「大差はない」というのが実際のところなのだろう。
そうであれば、おれは、自分が「生まれた」ことの大不思議に、日々ただ素直に驚いて呆然と歓び、恐怖する生を生きる。

水の上を歩くには、一歩足を踏み出して、沈む前に次の一歩を踏み出せばよい、という冗談話があるが、舞踏家がやっているのはそういうことだ。フィギュールが意味に落ちる前に次のフィギュールに繋いでいく。そこに咲く「速度の花」を見せる。

「からだが現在で、ダンスが一瞬未来です」と、山田せつ子は言う。
よく、舞踏は思考を身体で解くことだという旨の言い方がされるが、むしろ身体は思考と共謀して、一切を見慣れた意味に落とし込もうと作動する。その身体を裏切って、「一瞬先」を実現しつづけること。

恐らく、「自ら制作される作品として作品を制作する」ということは、舞踏家がそうするように「一瞬先を実現しつづける」という過程への自己投機なのである。つまり、「作品」とは、「実現された一瞬先」としてしか存在しない。

「即興ダンスが自己充足にならないために何が必要なのだろう」と山田は問う。「ひとつの器官を育てること」が必要なのではないかー「瞬時に形を生み、定着させ、定着を解除させ繁殖させる力」、この「力」を制御するための身体と精神の間にあるひとつの「器官」を育てること。
この「器官」を、「フォーム」と言い換えてもいい。

ダンサーは常に自分のからだを観察し続けていて、今日は股関節が硬いな、とか骨盤が少しゆがんでいるな、などと、物を見るように観察する癖がついている。私というものに属しながら、はっきりと距離があるもの、これがからだだ。
ダンサーはからだができるだけ自律的に動くことができるように訓練を重ね、ストレッチ、バランスといったことはもとより、自分の意識との距離をきちんと測るレッスンをする。そうすることによって浅い意味での自我を超えて表現の井戸と出会うことを願う。

山田せつ子『速度の花』

ここで言われていることは、制作一般に敷衍できる。つまり、あらゆるエチュードとは「自分の意識と、自己の制作行為との距離をきちんはかる」ことをその基礎とするのである。

ダンサーの訓練のなかで、「自意識を捨てて、人形のようになる」と言われることが多々ある、と言う。
自分が人形になって、同時に人形遣いになる。

この人形は人が生活しているときに必要としている重心のあり方以外の、無数の重心の取り方があることを教えてくれ、力というものは無数のベクトルをもって動き出そうとしていることを知らせてくれる。通常の人の動きがそうした無数の方向や角度を封印されているのは、単に生活の習慣でしかない。

自分が、人形と人形遣いに二重化するとき、「人形としての身体」は、人間としての制約を解除された運動性のなかで、思ってもみなかったような「速度の花」を見せてくれる。
この時、人形遣いは、人形を「動かしている」のではない、騎士が馬の力を制御するように「乗りこなしている」。

山田が、ケイ・タケイのパフォーマンスについて語っている件がある。

彼女は昆虫のようだった。ただ、動いていた。『私は今こうしているの』と言っているように見えた。(…)それはとても無感動に見え、物質的に見え、圧倒的な強さを持っていた。成熟した素敵な姿だった。

舞踏に限ったことではない、この現実という舞台においても、ただそこにいるだけで、その佇まいが「速度の花」であるような人が、ごく稀にだが、存在する。
昆虫のような、物質的な、成熟した姿。
「私は今こうしているの」ーおれは、そのような姿、現在に一致した、一色にそまった姿に魅了される。魅了され切る。

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