Let The Happiness Inー幸福感を呼び込む術

I'm waiting on the empty docks
Watching the ships come in
I'm waiting for the agony to stop
Oh, let the happiness in

David Sylvian - Let The Happiness In

幸福になるのは簡単だ。例えばあなたが「負け組」であれ「非モテ」であれ「住所不定無職低収入」であれ、どんな深刻な状況に置かれていたとしても、幸福を呼び込むことはできる。
幸福を呼び込むには、1.自分だけの居場所をつくって、2.世界の解像度を上げる、それだけでいいのである。何の努力もいらない。ただ想像力のもち方ひとつである。

1.結界を引いて、居場所をつくる

例えば、心を許せる人と一緒にいて幸福なのは、そこに「二人きりの世界」が現出するからだ。これがつまり、結界が引かれるということである。
ひとりでも、例えば幼子は、子供部屋の片隅を囲って、想像力で隠れ家を作る。そこに結界が引かれ、別天地が現れる。
その要領で、誰でも、自分独自の結界を引けばよい。そうすれば、他者に脅かされることのない、親密な結界内の時空が実現し、そこに幸福を呼び込むことができる。

居場所を作る、というのは、それがリアルスペースであれヴァーチャルスペースであれ、「いかに結界を引くか」という問題として考えることができる。
いいだろうか。そこに結界を引けば、親密な時空はたちどころに実現し、幸福は即席でたち現れるのである。

結界の引き方は、想像力の拡がりに応じて、いかようにも実現可能だ。多様な文化装置は、すべて「結界を引く」ということに関わっているとすら言える。
音を鳴らせば空気の振動する範囲が、そのまま結界となる。
香を炊けば香りの広がる範囲が、そのまま結界となる。
a cup of tea.一杯のお茶を飲むその数分間が、マインドセットひとつで、別天地に遊弋するための文化装置ともなる。
ドゥルーズ=ガタリは、小鳥のさえずりを自らの領域を創造するものだとした。
ロラン・バルトは、自らの文筆を、彼の叔父が、日曜大工で身の回りを「ほんの少し自分仕様にする」ことに擬えた。
例えば、文章を書く、という行為、それもまた、結界を引くという観点から捉えることができる。
或る文体をもって文を書く、それは即ち自分独自の世界の創造であろう。
文を書くとは、そのことにどんな苦しみを覚えようと、つまるところ結界を引いていくという営為であり、だからそれはつねに幸福を呼び込むことに関わっている。

2.時間を小さく刻む

吉本隆明は、年老いるとたいていは鬱っぽくなる、それはだんだん身体も不自由になるし、残された時間もあまりなくて、あとは死ぬだけという精神状態に陥ってしまいやすくなる、と語っている。
だが、そんな老年であっても、時間を「小さく刻んで考える」ことができれば、それが救いになる。

年をとればとるほど、例えばいま、これ食ったらうまくてうまくて、いい気持になった、とかいったら、それはいまとにかく幸福なんである、というふうに考えるようにしています。
幸・不幸がある時期は続いて、ある時期はそれから脱出したとかいいながら若いときは生きていたんですけど、そういうふうに思わないことです。つまり、幸・不幸とか、禍いとか、あるいは嬉しいとか、気分がいいとかよくないという期間、周期みたいなものを、その都度、瞬間瞬間に縮めちゃうということが、唯一の救いのような気がしますね。
これは生とは何か、老いとは何か、死とは何かといったことを、哲学的、宗教的、形而上学的に追いつめて回答を自分なりに把握しているかいないかとは、別次元のことです。

吉本隆明

鬱鬱していても、不安に動悸がするようなときでも、時間を瞬間毎に小さく刻んでしまえば、その小さな時間に幸福感を呼び込むことはできる。
このこともまた、「時間に結界を引く」ということであろう。時間に結界を引いて、その変転のなかに、ほんの一時でも、自分だけの居場所を獲得するのである。

3.幸福は常に極私的な細部に宿る。

結界を引く、とは、その内部に、自分だけの親密な居場所を獲得するということだった。他者に脅かされない親密な居場所では、ある程度自動的に、世界の解像度は上がって感じられる。それは、感覚や思考を「他者への対応の構え」から解き放ち、ただそこに在るものに「開く」ことができるからだろう。

世界の細部、小さなもの、文脈を欠いた極私的なものに感覚と思考を開くために、無意志的想起の方法を実践してみるのもいいだろう。
ジョルジュ・ぺレック『ぼくは思い出す』(酒詰治男訳 水声社)には、「ぼくは思い出す、…」で始まる、こんな記述が、延々とつづく。

・ぼくは思い出す、子供向けの雑誌の「本当、嘘?」「こんなこと知ってた?」「信じられない、でも本当だよ」という見出しのことを。
・ぼくは思い出す、デューク・エリントンの「キャラヴァン」がレコードの珍品で、数年間、一度たりとも耳にしたこともなしにその存在だけを知っていたことを。
・ぼくは思い出す、裁判のあいだ中、アイヒマンがガラスの囲いに入れられていたのを。
・ぼくは思い出す、衝撃が少し強いとすぐに二つに割れてしまった陶器製のビー玉と、めのう製のビー玉、ときに水泡がはいっていたガラス製の大きなビー玉のことを。

ジョルジュ・ぺレック

記憶は、現在の必要に応じてその都度再構成されるもので、だから、普段はここに書かれているようなとるに足らないディティールが蘇ってくることはない。
だが、プルーストのマドレーヌ体験のように、あるきっかけで、芋蔓式に過去の経験が、その細部にわたるまで引き出されるようなことがある。

ぺレックは、マドレーヌ体験のような偶然によるのではなく、方法的に、過去の体験を引きだしている。
方法的に、といっても、さほど複雑な操作ではない。ほんの小さなきっかけを見つけて、慎重に引っぱっていけばいいだけだ。きっかけは写真、日付、固有名、温度、光、なんでもいい。

きっかけを見つけたら、後は芋蔓式に過去を引っ張り出せばよい。
赤瀬川源平は、昨夜見た夢を思い出すには、爪楊枝で栄螺の身を引っ張り出す要領でやればよい、と書いている。強引に引っ張るのではなく、殻に収まっている形状をイメージしながら、力を調整しつつズルズルと引きだしていく。

七五三の写真を眺めて、神社の砂利の上を歩いた、じゃりじゃりとした音、足裏の感触、青空を想起して、すると、風や樹々のざわめきまでが蘇ってくる。
その「過去の一点」がほぼ完全に回復されると、信じられないことだが、「その地点」からさらに、例えばその日の朝飯を想起することもできる。

その記憶が、本当に実体験なのか、あるいは夢のような創作なのかは、ひとまずどうでもよい。泉のように記憶が湧き出してくるのを味わうのは、ほとんど麻薬的な快楽である。そういえば、澁澤龍彦も、ノスタルジアは麻薬だ、という旨のことを書いていた。

レヴィ=ストロースのお弟子さんのフランソワーズ・エリチエは、ディティールで編まれた日々のリアリティ(その想起体験)を「人生の塩」と呼んだ。
ロラン・バルトの「遇景」もそうだが、それは、ほとんど「文学の素」と言ってもよいものだ。

私が書き忘れていたこと、それは馬鹿笑いや、とりとめもない電話での会話、手書きの手紙、家族や友人との食事(のいくつか)、カウンターで立ち飲みするビール、何杯かの赤ワインや軽い口当たりの白ワイン、日向で飲むコーヒー、日陰の昼寝、海辺で食べる牡蠣、木の上で食べたさくらんぼ、
面白半分の怒り声、コレクション(石ころ、蝶、箱、その他いろいろ)の手入れ、さわやかな秋の夕暮れの至福、夕陽、皆が寝静まった夜中に、目を覚ましている、昔の歌の歌詞を思い出そうとする、香りや風味の追求、安心して日記を読み返す、アルバムのページをめくる、飼い猫とじゃれる、奇抜な家を建てる、素敵な食器を並べる、煙草を無造作にふかす、日記をつける、ダンスする(ああ!ダンス!)、外出してお祭り騒ぎをする、パリ祭のダンスパーティーに行く、他の何百万人もの」フランス人と同じように新年のコンサートを聴く、ソファーに寝そべる、…

フランソワーズ・エリチエ

このリストは、延々百数十ページにわたって書き連ねられる。
私は、じつのところ、こうしたディティールの絡まりあいなのである。にもかかわらず、私に意識される私は、いつもそのディティールを捨象して整理された「物語」の形をしている。
生のディティールの想起は、それを捨象することで整合している「私という陳腐な物語」を溶かして、ずっと豊かな「私という肉」へと誘う効果をもつ。
「私」とは「私という物語」ではない、「私」とは「生のディティールが多重に交差するひとつの場=肉」なのである。

4.不幸とは「私という物語」に由来する、幸福とは「私という肉」の現前である。

私はいつまでだったか、夜、道にひとりでポツンといる猫を見ると淋しくないのかと気になってしょうがなかったが、今は猫が夜、道にひとりでポツンといると、言語の網に捕らえれていないその姿がいい。

保坂和志『未明の闘争』

人と人が向き合えば、個性と個性の力学が働いて、物語が発生する。愛だ憎悪だ喜怒哀楽だ。不幸とはそのことである、と考えてみよう。
人は個性ではない、肉=トポスだ、と想像してみる。ただ、風光に晒される石のように転がっている。風、光を覚えて、静かに充たされている。ただ幸福で、ただ懐かしい。

結界を引く、私だけの居場所をつくる、とは、私という物語からの解放であった。その解放された呆然自失を、幸福というのである。何もかもが謎めいている。

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