対話をめぐる断想

1.対話における言葉には<自性>がない

例えるなら、対話において、言葉は蜘蛛の巣のように結び合っていて、意味とは、獲物がかかったときの振動のようなものである。
振動は局所的に起こるのではなく、巣全体に伝導する。蜘蛛は巣の何処に居ても、獲物がかかったことを知ることができる。
言葉には自性がない、とは、こういうことである。

意味は、A=Aという自同律に閉じることはない。辞書を思い浮かべればよい。AとはBのようなものであり、CがDするようなものである。つまり、事物はA=Aの同値関係に閉じているのではなく、A≒B≒C…といったアナロジックな準同型関係の連鎖に開かれている。
「自分は自分である A=A」という同値関係の閉域に囚われると、「それはそれであり、これはこれである」という自同律が世界を覆い尽くすことになるが、そこには如何なる獲物=意味もかからない。獲物=意味を捕らえるには、アナロジックな準同型の網の目を張り巡らさねばならないのである。

言葉は自性をもたない。
つまりあらゆる言葉には、状況に合わせて、あらゆる名づけが可能である。
言葉の性格がそうしたものであるなら、対話において獲物=意味を捕らえるには、逆説的に言葉の意味へのこだわりを無くさねばならない。
言葉の意味へのこだわりをなくせば、言葉は、つねに相手とのあいだに理解を生むために用いることが可能になる。

仏教学者の石飛道子は、仏陀と龍樹の繋がりを説いた論考のなかで、こんなことを言ってる。

言葉は、文脈に合わせて意味を換え、表現を変えてどんどん変化して、相手の理解を助けるように用いられます。
言葉を用いる人の心もまた「空」であらねば、このような相手のためになる会話は可能にはならないでしょう。「相手に合わせる」とは、このようなことなのです。
相手の聞きたい内容をくんで、言葉にその知りたい意味や名づけを自由に入れて、相手に渡すこと。それを完全にできたのが、ブッダであり、龍樹なのです。
相手がわからないとみるや、次々と言葉を換え、名づけを換えて意味を新たにし、相手の理解につながるように自在に話を展開できたのです。

対機説法とは「複雑な法=真理を、馬鹿にもわかるように簡単に表現してあげる」ということではないのだ。全く違う。
誰であれ、その人間が棲む言語体系は、たとえそれがどんな貧しいものであれ、歪んだものであれ、言語体系であるかぎり、法=真理に、触れている。
だから、その触れている「底」「点」を震わせる言葉であれば、どんなに複雑な物言いであれ、人は深く「理解」するのである。

例えば、母を亡くした子に対し、「お前の母ちゃんはあの星になったんだよ」と説いたとする、その言葉がその子の言語体系=宇宙を震わせ、そこに法=心理を直観できるなら、死んだ母が星となってそこに在る、というのは、ただの比喩ではない、戯言ではない、法=真理を開く特異点となる。
その時、人は死んでも星にはならないよ、という「科学的知見」は、端的に誤謬である。「それは客観的には正しいが、その子の心情を考えると人情に欠ける」ということではない、端的に誤謬なのである。
言葉に自性がない、というのは、そういうことである。

2.「蜘蛛の巣」をより精細に編んでいくこと

ただモノを見るにも、解像度を上げていけば、そのモノが無数の機会の束であることが見えてくる。
一輪の花、ひとりの人間を、本当に観ることができれば、そこにひとつの宇宙が開くのである。
逆に粗雑な情報をいくら収集しても、たったひとつのモノにすら届かない。

寺田寅彦が、当時の新メディアである新聞について、あんなものが毎朝届くのでは煩くって何も考えられなくなる、という旨のことを書いている。
新聞やネットの情報に反応して言葉を吐いても、何の意味もない。それよりも静かな部屋で、花や家族と向き合っている方が、よほど現実的な情報が獲得できる。

ひとつのモノ、ひとりの人と、くりかえし対話を重ねていくこと、そうして関係の濃度を高めていくーゆっくりと速く、冗長で的確に―。そのためには、ともあれ、しなくてもいいことはできるだけしないでいることだ。そのために生活を整えよう。

フォームをつくることー「フォーミング」とは、つまり、常にモノや人と対話できる状態をキープする、ということなのである。
ひとつのモノ、ひとりの人と「対話」する身体が「フォーミング」できれば、そこに生きていくために必要な情報は、一切含まれている。

対話とは、相互模倣である。
相互模倣とは、互いの存在を準同型と見做して、互いに互いをアナロジックに高密化していくということだ。
そのアナロジックな運動のなかで、互いが互いを通して、自己変容=自己発見していく。
この過程を「愛が深まる」と言いなしてもよい。

3.対話とは、未知の創造である

模倣とは、相手になりきることだが、なりきることが可能なのは、相手と違うからである。なりきることで、その違いが照明される。
対話とは、予定調和の一点に向けて組織されるのではない、むしろテニスのラリーのようなものである、相手の虚を突いていく、“にも関わらず”ボールが打ち返される。

対話とは、相互理解、相互承認という予定調和を超えていく過程に入ることを言う。
対話的過程は、相互理解という「鍵と鍵穴の合致」ではなく、「退っ引きならないゲーム性に裏付けられた、異質なものを招来する賭け」として実践されることになる。

そこでは、決して出会うことのない者同士が、その「あいだ」に、真にリアルなものを招き入れる憑霊的実践が実行される。
決して愛し合うことのない者同士が、永遠に終わらない、まさしくそのことで無限に到達する、或る誘惑のゲームを続けている。

4.対話は夢のように作動する

夢を思い出すままに書いても、本人がそこで体験したリアリティを写しとることはできない。
それと同じで、「対話」は、ふたりの間でのみ強いリアリティをもつ。例えばその話を録音して第三者に聞かせても、その話がふたりの間で孕んでいた強度が伝わることはないだろう。
夢、対話のリアリティ。

夢では<私>の制御を離れた自律的なイメージが展開するが、対話において語られる言葉も、<私>の制御を離れた自律性をもって展開する。
<第三者>に伝えるには、<私>が語らねばならないが、その時点で、イメージや言葉はもはや自律性を失っている。

私が誰かに会うのは、「対話」における生成が、私にとって「覚めながら夢を見るように意味深い」からである。

そしていったん「対話」が作動し始めると、言葉を交わすことすら絶対の要件ではなくなる。
ふたりの間で<私>を離れた何かが動いていればよい。私は、そのことを非人称の<愛>と考える。

非人称の<愛>は、ふたりのあいだを精霊のように飛び交い、一人に帰ってみれば、私はそこで何が話されていたのか、ほとんど覚えていない。

だが、むしろ、どんな意味にも凝結することがない対話だけが、私の存在を根源的に組み替える。記憶に残る意味などは<残滓>でしかない。

ノヴァーリスは、肌が触れあう、その瞬間、そこに「ふたりの時空」が生まれる、と書きつけた。
触れているあいだだけ、その時空は存在する。
あなたに触れているあいだだけ、「あなたの私」は存在する。私に触れているあいだだけ、「私のあなた」は存在する。

5.対話とは、人外の夢を見ること

対話とは、二人の人間が親密になってゆく過程ではないのだ。
我-汝に閉じることで人間関係の外に出るということだ。
そのとき二人の間に起こることは、人間の世界に起こることではない。
だから、そこで起こったことを、安易に人間の世界に持ち込む(翻訳)べきではない。

適切な時間をかけること、ただ待つこと、そのスケールは、或いは自分一個の生の時間をはるかに超えるかもしれない。
いや、恐らくそうであろう。魂の固有性は私に宿るのではない。
<私>に躓かないこと。

対話においては、意識は半ば眠り、夢を見ている状態に近い。我-汝は、そのあわいにイメージを現出させる。自律したイメージを“乗りこなす”Chance operation。その遊戯は、無限に続けられる、何故なら、「充足」は夢の本性に悖るからだ。

自律したイメージを乗りこなす主体は多重化された主体だ。多重化された主体は、言わば「神話的変容に開かれた唯物論者」であろう。
事象の一切は多義性を帯びたまま単一の意味に固着することはなく、人は多を多のまま並行処理する身体の物性に依拠して、絶え間なく自らを放擲し続ける。

誰が、夢を見ているのか。「人間」ではない。「人間」は、むしろ夢を見られている対象であろう。「生命」が「人間」を夢見ている。そして「生命」は「物質ー宇宙」によって夢見られている。各々が「自律したイメージ」として。

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