哲学日記2020.10.09

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アンリ・ベルクソンの主著『物質と記憶』と、同時期の講義録である『時間観念の歴史』、さらにその議論を拡張的に敷衍しようという「拡張ベルクソン主義」を提唱したシンポジウムがまとめられた書肆心水の拡張ベルクソン主義シリーズ。この5冊を読みながら取っていった読書ノートになります。読書ノートという個人的な便宜を趣旨とするもののため、説明の不足、構成の混乱のある文章ですが、『物質と記憶』という哲学史上でも拡張性の高い難物を、哲学の専門家でも何でもない一介の読書人が読み解いていくドキュメントにはなっているんじゃないかしら。

『ベルクソン「物質と記憶」を解剖する』

平井靖史の序論に、『物質と記憶』について、「『心身問題』を『時間との関連において』全面的に構成しなおす」試みである、とある。

エリー・デューリング「共存と時間の流れ」
ここで問題にされているのは、「異質な持続たち」が、どのように「共存」しているのか、それが、空間=座標を外挿するのではなく、「時間」に於いて、どのように宇宙に埋め込まれているのか、ということである。
ここでの「時間」について、漠然と相対論的不変量としてイメージすると誤る。
デューリングは「時間」を<持続><継起><同時性>の三つの側面が分かちがたくひとまとまりになったものであり「これこそが時間を、関係概念以上のもの、つまりまったき思考の構造にしているのである」と論じる。
「共存」が「時間」に於けるものであるとすることで、複数の「持続」の「共存」と、現在と過去の「共存」を結んで思考する視座が得られる。
そこから「持続が有する『今ーここ』の外へ拡がろうとする傾向についての妥当な描像」を如何に回復できるのか、という問題にも繋がっていく。
デューリングは、同時性を考えるのに、外挿的な座標を適用することで折衷的な解決は得られてしまう、だがそれは実際の宇宙ではあくまで近似に過ぎず、そのような座標に頼ってしまっては固有時と座標時は相互外在的になってしまう、求められるのは、局所性とパースペクティヴの本当の弁証法なのである、と問題提起的に論を閉じている。
三宅岳史のコラムで、パースペクティブの身分について、「この視点をライプニッツのモナドのような概念へと拡張することは可能なのか」と問いが置かれてある。


ポール=アントワーヌ・ミケル「外界の存在について」(米田翼訳)。
ここで問題にされていることは、知覚の脱主観化と、そのコインの裏表である物理的世界の自足性の否定、換言すれば主客二元論に基づく階層的世界観の否定である。その否定は、二項性の転換を第一義に置くことによって遂行される。

物理学的世界がそれではないところのものは無ではなく、それは別の世界なのだ。心理学的世界がそれではないところのとのもまた無ではない。
実在は心理学世界からよくよく秩序づけられている。しかし、この秩序の無秩(心理学的世界によって秩序づけられていないように見える状態)は、秩序の単なる不在ではない。それは物理学的世界なのだ。一方を確立するためには、私たちは他方へ転換する必要があり、他方を確立するためには、一方へ転換する必要がある。以上が、私たちが置かれた正確な状況である。

二項性の転換によって、イマージュの領野が開かれる。論者は「イマージュの領野が一体をなしている」ことに注意を喚起する。

思考がこの全体に準拠しているということを認める必要があるが、このとき、この全体に準拠しつつも、思考がそこから切り離されることはない。
その全体のほうも、思考との関係によって定義される。これこそが「イマージュの領野」という語が意味するところである。イマージュの泡、つまり物質の泡は、自身とは別のものとの関係によって、つまり別の泡との関係によって定義される。それゆえ、単にイマージュのそれ自身への内在だけが存在するのではない。内在平面が存在するのだとドゥルーズ なら言うだろう。つまり、もはや物質の泡が一時的で、思考の泡が二次的というわけではないのだ。転換の運動こそが、第一にくるものであり、私たちが思考の領野から物質の領野を措定するのはこの運動によってなのである。それゆえ、ある意味では、思考は階層的な仕方で物質に依存するが、それはイマージュの領野が存在するからであり、また、思考そのものがイマージュだからである。しかし、別の意味では、まさに思考を起点とすることで、私たちは、知覚的な意識が脳の機能である、ということを思い描くのだ。

ここで「泡」と表現されている概念を端的に「項」と置き換えてみる。すると、ここで説かれている理路は、私が「項と関係の相互包摂性」という言葉で考えてきたことと相同ではないかと考えられる。
「項」は「関係」においてしかありえない、「関係」のメタレベルは存在しない、つまり「関係」はその総体を俯瞰することはできない、それ故に「関係」は「項」のパースペクティヴにおいてしか現れない、つまり「項と関係は相互包摂的」であり、そのため「諸項」はアナロジックな連接可能性を帯びる。
思考とは、こうした項と関係が相互包摂する宇宙のなかで、諸項がアナロジックに結び合う運動そのもののことである、というのが、私が考えてきたことだが、論者の言葉に置き換えれば、「私たちにとって思考の内在は思弁ではなく、私たちがそれを左右することができるなどということはない。思考の内在は、私たちによって生きられた内在であり、それは一つの経験である」ということになる。

さて、そのうえで、論者はまず「思考がその固有の領土にとどまりながらも、それでも物質の領土に転換するのはどうしてなのか」と問いを立てる。
「知覚よりもよりよく、諸事物をそのうちにおいて見る」ために、どのような形式を導入すればいいか。ベルクソンの応答は明快だー「科学」という観点である。
「科学は実際に、各々の物質的な諸イマージュを、単に私たちに関係してではなく、それらを互いに関係づけることで、思考の中で多様」にする。
我々が「科学」の観点に“移行”するというとき、実際には、我々は「眼を二重化」している。
二重化した眼で「脱相関化を、視覚から離れることなしに」見ている。

ある意味では、第二の眼は第一の眼の拡張でしかない。しかしそれは、第一の眼が異質的に構成されているからである。第二の眼は、自分のものとは異なる全体の一部をなすことでしか、ある全体を形成しない。

「項と関係の相互包摂性」とは、そもそも排中律を乗り越え、因果を解くための理路の付け方だが、それはここで論者がくりかえし述べるように、項(著者の言葉では「泡」)の転換を通して実現される。

私たちにはこの転換の運動が必要なのだ。それゆえ、逆説的ではあるが、思考は、自らの宇宙をそれ自体で形成するために、自分のものとは別の宇宙から理解される必要がある。
意識は確かにある平面だが、それは別の平面を起点としてそうなのである。
最も本源的なものは全体ではないのだ。最も本源的なものは眼ではなく、眼を見えるものたらしめるような関係である。(…)
意識は単に泡であるにのみならず、他方ではいつも、別の泡において行われる身ぶりや運動なのである。


スティーヴン・E・ロビンズ「ベルクソン、ギブソン、そして外界のイメージ」(岡嶋隆佑訳)。
まず、ベルクソンの説く場のしての宇宙がホログラフィックなものとしてみなせることが説かれる。

ベルクソンの言葉では、宇宙的な場とは、あらゆる場所で波打つ「現実的作用(real actions)」(具体的には「波」と読める)から成る広大な場、広大な干渉縞のことである。どの対象もこの場の内にある他の全ての対象へと作用し、他の全対象から作用を受ける。

ホログラムとしての宇宙という描像は80年代、ボーム、カプラ、ケン・ウィルバー等出自を異にする人々によって提起された所謂ニューエイジ思想において論じられていた。ホログラム自体はある意味光学的な問題として一元的な記述が可能で、それだけだとベルクソンに即して論じる意味は薄いように思う。ここで興味深いのは、こうしたホログラフィックな宇宙像にベルクソンの時間モデルが導入される件だ。
まずベルクソンの「時間」は、微分可能な離散的な点(「瞬間」)のセリーではなく、分割不能な一連の動き、メロディのような持続として扱われていることが確認される。
このことからホログラフィックな宇宙は、静的な要素に還元することができない「実在的な動き」として存在するという帰結が導かれる。

※ この論考の文脈からは逸れるが、読みながら、ライプニッツの実在(モナド)の布置の遷移という概念が連想された。
ライプニッツにおける実在界と現象界の関係といった問題とベルクソンの分割不能な動きという概念を突き合わせて考えるとおもしろいかもしれない。

この論考の論の運びに戻る。ここではベルクソンの「主観と客観、およびそれらの区別と合一にかんする問いは、空間よりもむしろ時間との関連において立てられねばならない」という一節について、ホログラフィックな宇宙においてゼロないし無限小の時間スケールを導入した場合の事象の関係が照明される。

この場において、それぞれの「瞬間はメロディの各音(瞬間)のように次の瞬間と相互浸透し、先行する音の系列の全体を反映している。ここには大きな含意がある。もしこの場における各々の点ないし出来事の状態がその全体の影響、そして実のところその全体の歴史を反映しているのであれば、ゼロの時間スケール(あるいは無限小の時間スケール)における各「点」は、実質的に、全体についての原初的な気づきをもつことになる。ベルクソンはこれを「純粋知覚」と呼んだのだ。

だが、この汎心論的な純粋知覚のネットワークー言わば「事事無碍」の相互照応状態ーは、あくまでも「ゼロの」の時間スケールを取った場合の描像となる。
脳は、物質場のミクロな出来事に対して一定の比率を確立している。
宇宙の場において、ゼロないし無限小の時間スケールで我々の身体とハエを隣り合わせに置くことを考えるなら、我々の身体とハエの間には空間的な差異は全く存在しないだろう。二つの「対象」はこの場の全体的な変形の諸局面に過ぎないのだ。そこで、脳は特定のため時間スケールを徐々に増加させることができるとしよう。すると、ハエの輪郭が現れ、次いで、その振動する有機的な結晶構造がかすかにゆらめくようになり、徐々にゆっくりと羽根をばたつかせるようになり、最後にあのブーンという通常のスケールに至る。物質界における二つの対象ー我々の身体と小さなハエーの本質的な統一は決して破綻することがない。こうして我々はベルクソンの原理に到達することになる。
“主体は対象から、空間ではなく時間との関連で区別されるのである。”


河野哲也「ベルクソンと生態心理学 身体の記憶と宇宙の記憶」。
ベルグソンの、「出来事」において知覚と純粋記憶は共起的であるという議論と、ギブソンの「奥行き知覚」の概念を照らしつつ、時間を「流れ」としてではなく、生物による潜在的なものの顕在化として捉える理路を展開する。
知覚は身体で構成されるが、その構成は無からの創造ではなく、「出来事」の変換、或いは各々の存在による“環世界的な縮減”である。
ここで言われる「出来事」とは「イマージュ」のことであろう。
論者の描写に沿えば、「出来事とは、運動、行為、変形、変容などの変化のことであり、始まりと終わりを持っている」「また出来事は入れ子状になっており、ひとつの小さな出来事はより大きな出来事の一部となり、さらにその出来事はもっと大きな出来事の部分となりうる。一連の系列の出来事が関連しながら生じることもある」「出来事の数を離散的に数えることはできない」「出来事は一定の持続を有する」「出来事は主観的な構成物ではなく、実在している規定的な現実である」ということになる。

※ 「出来事」は「知覚」されることで、その顕在化のうちに潜在性の次元を共起させる。
これはつまり、純粋記憶とは「出来事=イマージュ」が、個別の存在のパースペクティヴのなかで、時間性として現れることである、ということではないか。そう考えると、時間の複数性は、ライプニッツが説くような意味での「存在の多様性」に依拠するという理路が導かれるのではないか。

視点を「出来事」に置けば、「純粋記憶から知覚まで、潜在的なものから顕在的なものまでの動きは、ある出来事が他の出来事を包括していく過程」ということになる。
ベルクソンの場合、つねに視点が二重化されているようで、<出来事/宇宙>の形而上学的な考察は、<個別のパースペクティヴ/時間>の経験科学的な知見に接続されている。
恐らく、このポイントが、「拡張」の可能性を大きく開いているのかもしれない。


平井靖史「現在の厚みとは何か? ベルグソンの二重知覚システムと時間存在論」。
まず、人間の知覚は、1.身体作用に還元されるオートマティックなレベルと、2.表象像(イメージ)や感覚質(クオリア)といった、一般的に言われるところの「心」が介在するレベルに分けられることが確認される。この1、2とも、ベルクソンの直接実在論の立場に照らして、心身二元論を前提とするのではなく、一元論的に、つまりシステム論的に解明されることになる。
システム論的な視座で見れば、物質と知覚は、質量的には共通の構成素から織り成されていても、その「織り成し方(システム)」が異なることで、論理的には還元不能な独立したものとなる。
科学が扱う「物質」の世界では、各構成要素が「それ自身に関連づけられた」システムが与えられるのに対して、「知覚」システムの場合は、「身体」(=「環境に対する特定の有限数の反応可能性のセット」)が「中心」として措定され、そのパースペクティヴのうちにシステムが編成される。
「物質」システムも「認識」システムも、素材面から見れば物質的諸作用の部分集合に過ぎないが、一旦システムとして編成され、区別されると、論理的に独立となり、どちらかがどちらかに還元されるということはなくなる。物質と認識は共に直接実在に根拠を持ちつつ、その意味で「独立」している。
こうしたシステム論的な独立性は「同一の対象も個体や種によって認識が異なる」という認識の相対性を、直接実在論のもとで説明可能なものにする。
だが、認識2の感覚質(クオリア)については別の説明が必要になる。

同一の構成素が、一方のシステムでは等質的でありながら、同時に他方のシステムでは異質的であるという事態は、いかにして可能となるのか。
直接実在論を維持したまま、この本性上の差異を説明することを可能にしたのは、“時間的に延長したシステム(とそれに連動したタイムスケールのシフト(凝縮))という着想であった。これにより、通常心的と見なされている感覚的な質をも、“世界の側に局所化する”ことが可能になる。

つまり、知覚における最小単位としての「瞬間」は、その内に複数の物質の「瞬間」を「記憶」として含んで、相対的に密度の高いものとなっている。
それは、知覚において可能となるタイムスケールが、物質的瞬間を全て順次的・継起的に捉えるだけの分解能を持たないからだ。

「物質の瞬間」において捉えられた電磁波の一振幅は、外から感受可能な異質性を備えていない。しかし、この振幅たちが「知覚の瞬間」のうちに凝縮されるとき、共存的な物質システムのうちでは有していなかったあらたな異質性を獲得する。こうして感覚質は、世界の側で、物質的事態だけを素材に(ただし時間方向に拡張されており、そのために記憶力の助力を借りているが)、局所化されて成立する。

電磁波の一振幅が、知覚という凝縮された「密度」によって「色」として現れる。「色」は電磁波の「主観的解釈」などではなく、「世界の側に生じる」のである。
「感覚質は、異なるタイムスケールのもとで見られた物理振動そのものにほかならず、したがって時空上に局在化される」のだ。

さて、知覚は、物理的瞬間の継起とは異なるタイムスケールをもつことによって(われわれの意識は物質の瞬間と同じリズムではことを運ばない)、異質的な「瞬間の密度」を獲得する。
だがこれまでの理路だけだと、知覚には生得的な身体性に依存する近接過去の時間成分が関与するだけというにとどまる。だが、もちろん、判明な知覚においては、近接的過去だけでなく、「遠隔的過去」も介在することになる。
だが論者が説くように「遠隔的過去」は、これまでのように物理的本性に還元できない、非物理的「事態」という新しいタイプの存在者であることに留意しなければならない。
これまでの理路から、直接実在論の地平を物理的一元論の地平と勘違いすると、この「事態」という新しい存在者のステータスが曖昧になる。

※この論では、論脈上その点を照明して論じ立ててはいないが、直接実在論の地平が物理的一元論ではないということには留意しておく必要があろう。
そのうえで「遠隔的過去という膨大なリソース」が、どのようなステータスにおいて「存在」するのか、その点は私のなかでまだうまく整理がついていない点である。


バリー・デイントン「中立一元論、時間経験、そして時間 ベルクソンへの分析的視座」(岡嶋隆佑訳)。
この論考で引かれているベルクソンの一節。

実在が変化であり、変化が分割できないものであること、そして分割できない変化においては過去が現在と一体となしていることをきっぱりと確信していれば十分です。

ここで、論者が説く現代の分析哲学における時間-宇宙に関する主要な考え方のモデルを見てみる。

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一番上は「ブロック宇宙」或いは「永久主義」。宇宙は四次元的な出来事ブロックから構成されている。この時空ブロック内では、どんな出来事も等しく現在であり、どんな出来事も予め永久に定位されている。
一番下は「現在主義」。現在の瞬間だけが実在的であり、過去と未来は存在せず、時間の移行は、一つの瞬間的現在が次の瞬間的現在へと取って代わられていくことで成立する。
現在主義の立場を取った場合、過去は実在しないことになるが、その場合過去の出来事の真理性はどう解釈されるのだろうか。
論者はドゥルーズ に着想を得た解釈として、ベルクソンは過去の事実性を確保するために「純粋記憶」というステータスを提起したというものがあると紹介する。
出来事は、現在でなくなると存在することをやめるが、それが起こったということは、「存在論的な過去」に保存されるというものだ。
このように解釈された過去は具体的実在の一部ではなく、独特な、永遠の、自律的な存在様態である。その内容は新しい現在が連続的に創造され、新しい出来事が生起するにつれ絶えず増大していく。
現在主義をとった場合、それでも直接実在論を維持しようとすれば、物質と心の二元論は、現在と過去の二元論に転化されてしまうというわけだ。
直接実在論においては、過去も現在と同じ審級にある実在であるとしなければ一元論を維持できない。
現在主義をとった場合、それでも直接実在論を維持しようとすれば、物質と心の二元論は、現在と過去の二元論に転化されてしまうというわけだ。
直接実在論においては、過去も現在と同じ審級にある実在であるとしなければ一元論を維持できない。
これによれば、永久主義者が主張するように、過去は現在と同程度に具体的な実在の部分となるが、新しい現在が付加されるにつれ、四次元ブロック全体が「成長する」のである。
この立場に立てば、過去と現在は等しく実在的であり、未来は実在的ではないということになる。
我々の実存レベルに視点を置いて述べるなら、この立場においては、我々の経験する現在はつねに「新しい」。そして、我々が現在を経験することは、そのまま宇宙の成長に同期しているということになる。

過去は現在と同じ審級で実在する。したがって、遠隔的過去をくり込んだ現在的経験も成り立つ。
だが広大な過去の領域が、現在の実践的関心と無関係であるがゆえに、我々の意識がその領域を排除しているだけのことである。

※ 現在は、変化として体験されることで、過去を含んでいる。
実践が異なれば、その「変化」も異なる。「変化」が異なるとは、つまり「過去の系列」が異なるということだ。
実践は、「変化=過去の系列」の創造のことではないか?

※さて、成長宇宙モデルを背景にすると、直接実在論を維持しつつ、現在における実践の創造性が担保されると同時に、その創造性とは過去を含む延長された時間における経験であるという帰結が得られる。
そのうえで、我々の身体及び意識は、どのような機序をもって、言わばその「固有の時間の創造」を成し遂げているのだろうか、という問題が浮かぶ。


エリー・デューリング/ポール=アントワーヌ・ミケル『われらベルクソン主義者 京都宣言』(藤田尚志訳)。
現在の最先端の科学的知見、その反省的直観を賦活させるような現在的文脈においてベルクソンを機能させること。拡張的ベルクソンを主義。

私の言う直観はたいてい、実証科学がある点に関して事実から集めたあらゆるものを研究し、深め、批判し、しばしば“増大させ”さえした後でしか働きえないものなのです。
ベルグソン
或る科学理論が思考のなかで私たちに語りかけるのは、思考のそれとは異なる、もう一つ別の世界についてである。科学理論はまた、私たちが行動の諸要請によってそこに投錨している物理的で生物学的なこの世界に対して開かれてもいる。こうして科学理論は、拡張された経験と呼ばれうるもの、あるいは脱相関化された経験にコミットしている。私たちは思考の世界にいると同時に、私たちのものではない物理的世界に属している。科学と意識の「観点」は、したがって交差しているが、一方を他方に還元することはできないてあろう。

※デューリングとミケルの「宣言」にあるように、拡張ベルグソン主義においては、現代の科学理論を多様な入射角としつつベルクソンを機能させること、つまり、ベルクソンを機能させることで科学理論によって集められた「事実」から直観ーヴィジョンを導くことが試行されている。
平井靖史による序論に、『物質と記憶』が含む個々の主張が四つの系列にまとめられ抜粋されているくだりがある。
α.物質と意識に関わる諸テーゼ。
「知覚は物質の部分である」「感覚質は空間的延長を占める」、…
b.認知に関する理説。
「想起は再認を含意しない」「認知において細部は全体の後に埋められる」、…
c.過去と記憶にまつわる主張。
「夢は記憶の弛緩である」「記憶は脳のうちに保存されない」、…
d,時間と自由の諸論点。
「現在は実在の最新断面である」「タイムスケールのシフトが自由をもたらす」、…
こうした文言は各個別に取り上げてみると、私には直観的に納得し得るものに感じられる。だから、私にとってベルクソンのテキストは可読性が高いのだが、この複数のラインの緊密な関連を立体的に解けなければただ読んでも仕方がない。
「高次元科学形而上学的パズル」は“全面クリア”できてようやく充分に“機能”させることが適うものであろう。


アンリ・ベルグソン『時間観念の歴史 1902-1903年度コレージュ・ド・フランス講義』(藤田尚志・平井靖史・岡嶋隆佑・木山裕登訳 書肆心水)


ベルグソンの「時間」が単に「内在」「生成」といった概念群で説明できるものではなく、そもそも「概念」を成立させる「多元=持続」といった、ほとんど「即非の論理」においてしか表現できないような「実在」であるということ。この原理的にジレンマを孕んだ「実在」は、だから、複数の二項性の組み合わせを通してしか捉えられない。どういうことか。
例えば、内/外について、平井靖史の解説にも引かれている箇所を引用する。

内在、超越といった用語は、[空間的な]メタファーに訴えている限り、つまり私たちが空間のうちに身を置いている限りは、非常に明晰なものなのです。しかし(…)空間という領域を捨て去るや否や、内在や超越ということで何が理解されているのかを述べるのは非常に難しくなります。そしておそらく、時間という問い、時間という問題は、まさしくこうした[空間的包含関係を示す用語の]問題をとりまく曖昧さの一部を消し去るのに役立つことになるでしょう。

この引用の後、平井は以下のようにコメントしている。

(…)空間的な意味での「内/外」という対自体が、同時性において成り立つものである以上、時間的な意味での「内部」に対する「外部」にあたる(…)

すこし敷衍して考えてみると、二項性はつねに同時性において(=空間的に)成り立つので、「時間」はつねにその二項性の外部として抽出されることになる。
二項性を相対性と言い換えれば、「時間」とは相対性に対する絶対性として定義されるということになる。
「時間とは、その本質からして、記号的に表現されえない、純粋な諸概念によって表象のうちに収まりえない何か」であり、それはだから、概念を構築していく“相対的な”思考のなかで捉えられるものではない。それは「一種の共感」によって、「直観的に」把捉されるほかないものだ。

自分のままでありながらーもちろんそうあるほかはないでしょうがー、自分自身以上のものにならなければなりません。自身から外に出て、自らを膨張させ、自身のうちに他の諸事物を入らせなければならないのです。これは、ひとが何らかの仕方で、諸事物の根拠と一つになっていなければあり得ないことでしょう。(…)私たちは諸概念から諸事物へ向かうのではなく、諸事物から諸概念に向かうのです。私たちは直ちに事物の中へ自分を置き入れようと試み、次いで、一旦そこに到達した後で、さまざまに異なる諸概念のほうへとふたたび降りていくことができるのです。こうすれば、どのように、なぜそれらの概念が事物に適用されるのか、どうして適用されないのかがきわめてよく分かるのです。

さてここで留意すべきは、「一種の共感」によって成される、この「絶対的な内観」は、あくまで「諸事物への直入」であり、そこに「時間という一般的・超越的な次元」が想定されているわけではないということである。
一般性・超越性は、概念の性質であり、「時間」には、そもそも「諸事物の時間」“しかない”のである。「時間」は、そもそも多元的にしかありえない、と言い換えてもいい。その多元性に直観的に通じることができるのは、一切の根拠が「一つになっている」、つまり多即一の領域であるからだ。
だから、「時間」は「概念」のように措定されるものではなく、つまり我々がそれを理解するには、我々が「時間においてある」という形で理解せねばならない。
「時間においてある」こと、自ら絶対的な持続を経験しているを通してしか諸事物の「時間」には通じない。
もちろん「時間においてある」とは「行動においてある」ということとは違う。むしろ「行動」に抗してしか「時間においてある」ことはできない。
ベルグソンは、何かを絶対的に知ることは、「その何かを単純な事物として知ることであり、単純に知ること」だと説いている。
単純に知るとは、自らの持続において知ること、比喩的に言えば「諸事物の固有のリズムに共振すること、諸事物とダンスすること」である。
一方、ある事物を相対的に知るとは、その事物を「複合によって知ること」である。空間という「断面図」において展開的に知ること、機序として知ることである。
さて、ここでさらに留意しておくべきは、我々の認識・意識においては、通常、純粋なる「絶対的な単純性」、純粋なる「相対的な複合性」に分かれているわけではない、という点であるだろう。意識における「単純性=時間」と「複合性=空間」は、むしろ相互に陥入しあって作動している。
ここに、ベルグソンの「意識」をより深く理解するために、哲学史が参照される必然性がある。単にベルグソンの哲学史的な位置付けということを越えて、哲学史における「時間」の定義を参照することで、「絶対性と相対性の関係」がより立体的に浮かび上がってくるという按配である。

第二講で展開されている「記号」をめぐる考察も、「絶対性と相対性の関係」という観点から読むと、そのポテンシャルの拡張性がより強く感じられる。
記号の特徴として、特に「行動誘導性」が挙げられている点が、とりわけ興味深い。
理路は端折るが、生物は、その行動-認識においては「環世界的=個別的=記号的」なのである。
「時間」の直観は、その行動-認識に対する「否定を媒介にした実践」として実行される。
この「行動・認識に対する否定を媒介にした実践」とは、具体的には「創造の実践」ということであろう。
創造や進化を含んで、あらゆる生物の活動は、直観的に感得された「或る絶対性」に導かれた諸記号のアナロジックな運動性のうちにある、ということもできるだろう。
さて、こう考えてくると、そしてさらにその上で古代から近世にかけての哲学史を「時間」の扱いを軸に読んでいくと、ベルグソン『物質と記憶』の独自の理路がどのように導かれたものなのかということも、ようやく腑に落ちてくる。
そんなことで、次はいよいよ『物質と時間』に着手することにする。

※ ところで、以上は、私自身がベルグソンを読んでいくうえで、自分が普段考えていることと照らして重要と思われる側面を照らしたもので、この講義の要約や紹介とはすこし違ったものになります。実際、導入は外国語学習等具体的な事例に即して論じられていてすごく読みやすいです。また、全体の文脈から離れて、ある一文から豊かな思惟の枝が伸びていくような、魅力的なパワーフレーズがたくさん詰まった講義でもあります。試みに、興味深いフレーズや議論の一部を以下に抜粋してみます。

事物と記号について

単純なものとして知られるもの、それは事物です。複合されたものとして知られるもの、再構成されるもの、それは事物ではありません。それは事物の人工的な模倣であり、事物の再構成です。
模倣というのは、事物の諸要素と呼ばれるものを介し、実際には多かれ少なかれ人工的で規約的な記号(signe)・表徴(symbole)・表象といったものを介した、ほとんど事物の贋造と言っても良いようなものです。
ある事物を絶対的に知ることは、事物そのものを知ることです。相対的に知るということは、記号によって知ることです。
ですが、そういったことはどのようにして可能になるのでしょうか。
記号とは、私たちがすでに知っており、すでに所有している何かであり、逆に、私たちが知りたいと願い、研究している事物は、仮定により、新しい何かです。
記号は私に不完全な模倣しか与えないので、この完全な事物を得るためには、以前の諸記号を補うべく新たな諸記号を追加せねばなりません。そうしてさらに私が模倣したいと思うものに近づいてゆくことになります。
記号に記号を付け加えながら、記号で記号を添削しながら、私は自分が表現し再現し模倣したいと願うものに、無際限に近づいてゆきます。ですが、結局のところ、そこに到りつくことは決してないでしょう。
それ自身として検討されるなら、対象は単純なのですが、相対的に、すなわちその模倣において検討されると、対象は、決して数え終わることのない諸部分で複合されているのです。


自然に反する努力としての哲学

習慣的なやり方で行使される諸能力は、思弁に向けられたものではなく、行動に向けられた諸能力であって、何よりまず実際的(実践的)な目的をもっているということ、私たちは何よりもまず行動のほうを向いており、行動によって魅了されているようなものであって、そこには私たちの思考にとっての磁力(aimantation)のようなものがあり、一種の摩擦によってのように磁化された(抗しがたい魅力によって惹きつけられた)私たちの思考は、北を指す方位磁石のように行動のほうを向くのだと認めたとすれば、もしそうだとすれば、そのとき、あの習慣的な思考方法の適用がそこへと導いていく不条理あるいは少なくともアンチノミーのことを私たちに告げ知らせにやってくるであろう哲学者に対して、私たちはこう答えることができるでしょう。理性はまだ最後の言葉を言ってはいなかったのだ、と。
たしかに理性は実践へと向けられており、行動へと磁化されているのですが、それを脱磁することもできるのではないだろうか、と。
私たちのあらゆる能力が行動へと向けられているとしても、そこには可能な思弁の縁暈(えんうん)のようなものがあるということです。したがって問題は、知性の注意や、行動を、それらを惹きつける観点から逸らし、そうすることによって知性を、(はっきり言ってしまえば)自然に反する努力によって、純粋な思弁へと連れていくということなのです。

概念の制作

動物は概念を思考するのではなく、概念を演じます。
猟犬は、どんな種類の獲物を前にしても、臨戦態勢となって立ち止まります。(でもだからといって)「獲物」概念を、獲物の一般観念をもっているということになるでしょうか。おそらくはそれを表象としてはもっておらず、行動としてもっているというわけです。
人間は、自身が演じている概念と呼ばれうるものについて反省を加え、それによって、概念をより高い領域へとのぼらせる傾向をすでにもっているわけです。
人間はそのうえ、話す存在、社会的な存在であって、この概念を彼は語によって指し示すことになります。そしてこの語は、人間がとる身体的態度よりもはるかに操作しやすい記号なので、概念をはるかに操作しやすいものとし、またより動員しやすいものとすることになります。
動物が一定数の生きられた概念、自分で演じる諸概念(…)しかもっていないのに対して、人間はそしてこれこそ人間のありとあらゆる巧知の秘密なのですが、それによって、自然が人間のうちに機械的に生み出すことから始めたものを模倣することができるのです。
人間は自然の業を延長するのです。自然に形成された、限られた数しかない諸概念に、人間は、自分が造り出した望むだけ多くの数の諸概念を付け加え、重ね合わせます。こうして、自然を模倣し、自然の働きを延長することで、概念的思考の領域を無際限に押し広げるに至るのです。


事物と記号について(アリストテレスの質量と形相に即して)

人間ないし成人の形相は、十全に実現されたとしたら、完璧に不変なものでしょう。しかし人は決して完璧には人でありません。形相は実現しようとしますが、完璧には実現しえません。
形相は質量に加わると言うことでアリストテレスが意味していたのは、進展、連続的な発展によって表現される形相と質量の混合体のことであり、この進展のうちで人は自らを探し求めるのですが、決して完璧に自らを見出すことはないのです。
人が自らを見出そうとするとき、その人は移動し、別の人が現れねばならず、その[新しい]人が[以前の]人を模倣します。この実在は、円環的なプロセスによって絶えず自らを探し求めることになり、決してまったき自己自身であるような状態には至らないのです。


アンリ・ベルクソン『物質と記憶』(杉山直樹訳 講談社学術文庫)

我々の知覚は、本来、精神の中ではなく事物の中に、われわれの中ではなくわれわれの外に、存在している。種類の異なる知覚も、それぞれ実在の側に存在する本当の方向を示している。

ここで説かれるのは、特定の主体のパースペクティヴを離れた、われわれもそこに含まれる事物同士が相即して存在する世界像だが、ベルグソンはそのすぐ後でこう付け加える。

自分の対象と合致するこのような知覚の存在は、事実上のものではなく、むしろ権利上のものである。瞬間においてなら成り立つ知覚だ、ということである。具体的な知覚には、記憶力が介入している。

ここでベルグソンが権利上(瞬間においてなら成り立つ)/事実上(記憶力が介入している)と二分して議論しているこの理路が、私にはことのほか重要であるように思われる。
ここでベルグソンが「権利上」成り立つとしている事物の相即的世界は、それ自体として突き詰めて描いていくなら、例えばライプニッツのモナド界のような描像になるのではないか。
だがベルグソンは、あくまでも「事実上」ーつまり<時間>において現象する視点を保持したまま議論を展開する。

第一章の冒頭近くから引く。

私が「宇宙」と呼ぶところのイマージュの総体においては、ある特殊なイマージュ、その典型が私には自分の身体によって与えられるイマージュを介してでなければ、本当に新しいことは何も生じえない、という具合にすべては進んでいる。

ここで「ある特殊なイマージュ」として照明される、言わば「成長する宇宙」を保証する創発の特異点、ベルグソンがあくまでも「事実上」の立場に立つ動機は、この特異点への照明を燈し続けるところにあったのではないか。そのようにも思われる。
身体という「特殊なイマージュ」が、現にあるものの総体に「何も付け加えない(むしろ各々のもつ<リズム>に応じて減じられる)」ことは再三議論されている。そのうえで、身体が創発の契機となるということは、現にあるものの総体は、純粋な「過去」として措定されなければならない。

ベルグソンの展開する理路とは異なり、或いは誤読かもしれないのだが、そう見当を立てておく(後に修正するかもしれない)。
そのうえで、ベルグソンの議論のなかから特に議論の文脈を気にせず、特に魅惑的な件を引いておく。

われわれは、まず一挙に、延長をもつイマージュの総体のただなかに身を置く。そして、この物質宇宙の中にわれわれが見て取るのは、生命の特質をなすところの非決定性の中心である。
物質のうちには、現に与えられているより多くのものはあっても、それとは何か別のものがあるわけではない。
われわれは身体について、それは未来と現在のあいだの動く境界であり、われわれの過去が絶えずわれわれの未来へと推し進めている動的尖端だ、と言うことができる。
一瞬間において考察されれば、私の身体は、それに影響する諸対象と身体の側が作用を与える諸対象とのあいだでの伝導体でしかないのだが、一転して流れる時間のうちに置き直されてみれば、それは常に、私の過去がある行為へと消え入っていくまさにその点に位置している。
実在そのものであるところの生成する連続において現在の瞬間が構成されるのは、膨大な流動体の中でわれわれの知覚が行う、ほとんど瞬間的な切断による。そしてこの切断面こそ、まさにわれわれが物質界と呼んでいるものなのである。
確かに、純粋記憶は自分を物質化しながら諸感覚を生み出す。しかし、まさにその時には、それはもう記憶であることをやめ、現に生きられている現在の事物という状態に移行しているだろう。
イマージュとは現在の状態である。それでもそのイマージュが過去に与れているのは、その出所としての記憶があるからでしかない。それとは反対に、記憶の方は、無用でいるかぎりは無力なものであって、感覚の混入は一切なく、現在とのつながりもなく、したがって拡がりをもたないままなのだ。
われわれにとって、ある心的状態ないし物質的対象が実在するというのは、われわれの意識がそれらを現に知覚しているということ、しかもそれらは、時間的であれ空間的であれ、諸項が相互に決定し合っている系列の一部分をなしているということ、以上二つのことを意味している。
この宇宙は持続のあらゆる瞬間に正真正銘の奇跡によって消滅してはまた生まれていると想定するか、意識には認めない存在の連続性を宇宙の方に移して、宇宙の過去は存続する実在であって現在へと自らを引き延ばすものだということにするか、そのいずれかしかない。
現在は存在するものであると勝手に定義されるが、実際のところ、現在とは単に成り行くものでしかない。
われわれの身体とは、表象の中で変わることなく甦りつづけている部分、常に現在にある部分、あるいはむしろいつも過ぎ去ったばかりの部分にほかならない。それ自体イマージュであるこの身体に、諸々のイマージュを蓄えることはできない。身体のほうが、それらイマージュの一部なのだから。
近接関係にある諸部分の集合においては、諸部分より先に全体を知覚している。われわれは、類似の方から先に出発して、類似した諸対象へと進む。類似という共通したキャンバスがまずあって、その上にさまざまな個別の差異という刺繍をほどこしていくのだ。
われわれの想定では、われわれの人格の全体が、記憶のすべてを携えながら、現在の知覚へと、分かたれないまま入り込んでいくのであった。
われわれの想定したところでは、精神は行為の平面と夢の平面という二つの極限のあいだに含まれる中間段階を休むことなく駆け巡っているのであった。
欲求を満足させるには、その連続の中に一つの身体をまず自分用に裁断した上で、さらにそこに他の諸物体を限定し、自分の身体がそれらとちょうど人間を相手にするような関係に入れるようにしなければならない。このようにして分断された感覚的実在の諸部分間で、そのようにまったく独特の関係を打ち立てていくことこそ、まさしくわれわれが“生きる”と称していることなのだ。
物質の究極的な構成要素に接近するに従って、われわれの知覚が表面において立てていた非連続性が消えていくのを、われわれは目にする。
実在的運動とは、事物の移動ではなく、状態の変移である。
自然の中には、われわれの内的状態の継起よりもはるかに早いさまざまな継起があることを、われわれは予想しているのである。そうした継起をどう考えるべきだろうか。あらゆる想像を超えた容量をもつ、この持続とはいかなるものなのだろうか。
実際には、持続には唯一のリズムしかないわけではないのだ。われわれは数多くの異なるリズムを想像できる。
変化は至る所に、ただし深いところにある。(…)こうしてわれわれは、性質に関しては安定していながら、同時に位置に関しては可動的であるような物体を構成する。しかし、われわれの見るところ、単なる一つの場所移動ですら、その内に宇宙全体の変貌を凝縮しているのだ。
精神は欲求の示唆と実践的生の必要に従属するだけで、もうすでに延長の連続の中にさまざまな分割線を引くようになるのだ。だが、このように実在を分割できるためには、まずもって実在が恣意的に分割できることが確信できていなければならない。つまり、具体的延長であるところの感覚的諸性質の連続の下に、いくらでも形を変えることができいくらでも小さくすることができる網の目を張り巡らせておかなければならないのだ。
記憶力とは現在から過去への背進などでは決してない。反対に、それは過去から現在への前進なのである。まさしく過去に、われわれは一挙に身を置く。
わわれわれの出発点は「潜在的状態」であり、これをわれわれは少しずつ導いて、一連の多様な意識の諸平面を経つつ、それが目下の現勢的な知覚の内に物質化していく終端に、すなわちそれが現在の作用する一状態となる点に、最後に言えば、われわれの意識の平面のうちでわれわれの身体が描かれている末端の平面に、至らせるのである。この潜在的状態というのが、純粋記憶なのだ。


『ベルクソン「物質と記憶」を診断する』


カミーユ・リキエ「『物質と記憶』と形而上学の直観的再興 ー純粋理性の第四誤謬推論と第一・第二アンチノミー」(天野恵美理訳)。
ベルクソンはカントによる転回を、「形而上学を高次の経験論に立ち帰らせ、直接与件としての世界へと(…)回帰する」ための契機と捉える。
表象でしかない物質を、物自体として我々の外部に移し替える<すり替え>を前提とする緒論はすべて理性の誤謬推論に基づくものでしかない、とする理性の第四誤謬推論の議論によって、カントは、心身合一の問題を、経験的実在論と超越的観念論の二元論に置き換えたのだった。
この論では、カントによって打ち立てられた、この二元論を踏まえたうえで、その誤謬推論を無力化するために、ベルクソンはイマージュの平面を導入したのだ、と論じられている。

イマージュがすでに即自であるなら、つまり、知覚が我々のうちというよりむしろ事物において起こるかぎりにおいて知覚がすでに物質であるなら、その場合には、物質と精神のあいだの断絶をずらすことができるのであり、さらに、もはや物質と知覚のあいだではなく、物質と記憶のあいだに結ばれる諸々の関係を新たに探ることができるのである。

論者は、純粋理性のアンチノミーが「即自としてのあるがままの世界について我々がもつことができるであろう真の直観」をいかにして覆い隠してしまったのか、ベルクソンは、アンチノミーを「解きほぐす」ことで「直観/直接与件」を取り戻す理路をとったと主張する。
つまり、カントの「物自体」は人間の精神には到達不能な「不可侵の背景」として措定されるが、ベルクソンは、カントの哲学に「ひねり」を加えることで、この究極的な実在性を直接与件として直観に供しうるものとするということである。
ベルクソンは、まず、<空間>を「感性のア・プリオリな形式」ではなく、知性が意のままに用いることができる「想像力の図式」とみなす。

この図式は、我々が感性に対して強いる形式から直接与件を解放してやり、まさにこのことによって我々と即自との直接的な接触ーすなわち直観ーを回復させる、という効果を持つ。

さらに、「空間ー図式」は、認識ではなく行動の図式であることが指摘される。つまり、空間とは、身体をもった人間による生の要請としての「図式」であり、「真の思弁はこの図式に逆らって働くことができるしまたそうしなければならない」とされる。
空間が図式であり、それに逆らって思考することで、図式の特性である抽象的な無限性ではなく、各々固有の時間性の次元を思考することが可能となる。
「物質的宇宙は、諸々の物体に先立つ実在的な諸々の運動の、ひとつの流れである。」

※ 最後、カントの第一アンチノミーから順に、その空間と時間の関係について、詳細に「解きほぐされて」いくのだが、その件は省略する。
ベルクソンをカントとの関わりにおいて見ることは、当時隆盛だったカント主義との対話を確認するといった歴史的意義だけではなく、空間を、生物が感覚ー運動系において用いる<想像力>の図式であることを明らかにすること、さらに、物質的実在は、その図式に逆らって、時間において、しかも「多様な時間」において、内部観測的に記述しなければならないという視座を、より明確なものとする意味をもつ。


藤田尚志「記憶の場所の論理 『物質と記憶』における超図式論と憑在論」。
知覚と記憶、この「実在の二つの秩序」の“場所づけ”の様態について。

※「場所」という概念は、そこへの在り方という「図式」の概念とセットで扱われれねばならない。
特に興味深いのは、記憶の「場所」をめぐる考察の件。

論者は、「感覚運動記憶と純粋記憶は、『能動/受動』としてではなく、二つの能動として対立しており、後者は不毛な『無活動』ではなく、むしろ功利的な活動性に抗いつつ、その鋳直しを求める活動としての『無為』」であると論じる。

私たちの過去が、自分にはほとんどまったく隠されたままであるのは、過去が現在の行動の必要によって抑止されているからであるとすれば、過去は意識の域を踏み越える力を、私たちが有効な行動に対する関心を離脱して、いわば夢の生へと身を置くたびごとに、再び獲得することになるだろう。

※ ひとつの「応用」として興味深いのは、恐らく凡ゆる共同体は、広義のシャーマニズム/アニミズムの宗教性にその共同幻想の根拠をもつ。社会的に蓄積されたナレッジは、この宗教的境域において継承されるナラティブのうちにその命脈を保つ。ベルクソンの「純粋記憶」を神話論と接続する可能性。


檜垣立哉「過去は何故そのまま保存されるのか 『物質と記憶』の記述の多様性について」。

※ ベルクソンの「純粋記憶」の存在論的ステータスをどう捉えればいいのか、という問題が、“なぜ「問題」と感じられるのか”。ここで問われているのは、そのような問題である。

過去全体の実在は、個体のパースペクティヴから考えると、個体の死によって脳という記憶を現実化する器官が消滅しても記憶は残っている、というスピリチュアルな事態に帰結する。
だが、持続の連続性において考えるならば、むしろ過去の実在の方が、現勢化の作用よりも、存在論的に重要とみなされる。
つまり、持続の連続性としての過去を、人間的経験を超えた領域と措定するのであれば、そのステータスを定位するのは容易であるが、そうなると今度は個体のステータスをどう捉えればいいのかと問題が転換する。
つまり、純粋記憶というとき、その宇宙論的な「過去全体」の実在と、個体の記憶とのあいだにある関係を、より踏み入って解かねばならないのではないか、ということが、「過去のステータス」という「問題」となるのではないか。


バリー・デイントン「ベルクソンにおける在ること・夢見ること・見ること」(木山裕登訳)。
ベルクソンの汎心論について、論者はベルクソンがライプニッツのモナドロジーに言及している箇所を引用して、その主張の骨子を以下のように整理する。

1.二つの原子AとBがどんな仕方であれ物理的に相互作用しているならば、AはBを(そしてBの質を)知覚しており、BはAを(そしてAの質を)知覚している。
2.宇宙内のあらゆる原子は、すべての時間において、何らかの仕方で、他のあらゆる原子と物理的に相互作用している。
3.あらゆる原子は、時間のあらゆる瞬間において、宇宙全体の完全な鏡である。原子は、生じている全てのことをあらゆる場所で知覚する。

ベルグソン的汎心論は、すくなくともここで図式化された限りにおいて、汎質論とも、或いはジェイムズ的な経験一元論とも置き換えられるものであるようだ。その要諦は「異なる経験が、統一された意識状態の中で、一緒に経験される」という「一緒性(共意識)」にある。
「一緒性(共意識)」とは、経験一元論の文脈にパラフレーズするなら、「経験と経験を連接するのも経験である」ということになる。
論者は、例えば因果関係(に見える現象)を取り上げ、「原因Cが結果Eを持つときにはいつでも、後者が単に生じるのではなく、CからEへの“経験された関係”が存在するのであって、この関係は特別な仕方で因果的な現象的性格を有している」と説く。
この一緒性(共意識)は、<推移的>である。このことは、宇宙全体を鏡の広間のようなものとするモナドロジーの視野を開く。
翻って、ベルクソンは、その汎心論において、素粒子は、このモナドロジックな宇宙の全体性を確かに知覚するが、しかし非常にかすかな仕方でのみそうする、と論じる。

宇宙の最も離れた範囲における出来事はあなたの脳内の原子の特質に影響しているが、ただし容易に識別することはできない仕方でのみそうしている。

※ 汎心論的な世界観は、必然的にホログラフィックな宇宙像を導く。この宇宙像は、ライプニッツのモナドロジーとジェイムズの経験一元論が結び合ったところで立体的に結像することになる。その上で問題は、局所的な事象と宇宙全体との相互作用、その関係性についての考究であろう。

ところで、汎心論の立場を取った場合、その「心」の位相をどう定位するか、つまり主客二元論をどう乗り越えるべきか、という問題が発生する。
論者は、この論考で、その問題を、「直接実在論者にとっての知覚プロセスの問題」として論じている。
知覚について、標準的な哲学的モデルでは、1.全て直接把握、2.全て心によって生み出された表象、そのどちらかの立場が取られるが、ベルクソンは、経験の一部(大抵は少数部分)は外的世界の直接的把握、別の一部(大抵は多数部分)は心によって生み出された虚構部分とする知覚のハイブリッド説を唱える。

※知覚のハイブリッド説の立場を取る場合、表象はあくまでも「構成的」なのであって「創発的」なのではない、表象の「素材」は一元論的領野に実在するという前提を遡行的に導く。
汎心論の「心」という語は、そうなるとやはり「質」に置き換えて「汎質論」とした方がわかりやすいのではないか。


平井靖史「<時間的に拡張された心>における完了相の働き ベルクソンの汎質論と現象的イメージ」
前デイントンの論考で提示された<共意識>の概念はホログラフィックな宇宙像を導く、その場合局所性と全体性がどう関係するのかといった問題が生じることになる。
この論考でもまず、ベルクソンにおいて「時空的延長と経験主体が、志向的な関係ではなく構成的な関係で結ばれている」ことが指摘される。

系統発生のスケールで言えば、「まず心が生じ、それが時間・空間的な延長を得た」という偶有的関係ではなく、寧ろ「時間的延長の獲得が、心と呼ばれる現象経験一般を成立させた」という本質的関係をもつ(視覚や聴覚の発達による知覚経験の拡大自体、時間的延長を稼いだことによって説明される)。

ここで、まず、論者がフィリップ・ゴフを引いて論じるベルクソン的な汎質論の議論から見ていく。

「現象的に経験される感覚質」から「現象的に経験されていること」を差し引いたもの、質的であるが非現象的なプロパティ。
誰にも経験されていない、いわば“それ自体としてのクオリア”が、物質そのものに備わっているという主張(…)。

汎質論を取った場合、当然、物質と心はその「質」において連続的なものとなる。物質と心、というより、より正確には、一般に物質と呼ばれるもの、心と呼ばれるものを含め、凡ゆる存在物が、その「非現象的なプロパティ」のレベルでは連続的なものと捉えられる。
その上で、現象が固有性をもって実在する経緯について、ベルクソンは「時間単位をシステム相対的に捉え、複数の時間単位の非排他的共存を認める」ことで、これを解く道筋をつける。
この「汎質的多元論」とでも言うべき立場を取ることで、局所性と全体性との関係、各現象間の関係は、共に「多時間間の相対的システム論」として解くことが可能になる。

瞬間の還元主義を採らないベルクソンは、同じ物質によって構成されるとしても、異なるレベルの異なるシステムごとに固有の時間単位があり、非排他的な仕方で、そのシステムにとっての「現在」の幅を規定すると考える。

論者は、例えば生命有機体は、進化に応じて先述した「要素的時間単位」が拡大していく傾向にあることを指摘する。それは巨視的に見るなら、刺激入力と反応行動がデカップリングしていく過程であり、そのとき生じる「現在の拡張」、つまり物質との偏差が、感覚質の成立の条件となっている。
ここで重要なのは、感覚質の材料が、「時間という遅延」そのものであるという点だ。
この遅延によって作られる感覚質は固有の実在であり、われわれを含め、生物が実在していることこそが、「諸瞬間のマルコフ連鎖から『われわれを自由にする』」。

さて、時間=遅延を材料にした感覚質は、物質のマルコフ連鎖を免れた<自由>の領域を開く。
高次の生命有機体において、その機序は、さらに再帰性を含んで複雑化されている。

脳はまさに“物理的閉包性のゆえに”イメージを「産出」しない。“そのまさに帰結として”、イメージ構成の閉包性と「それ自体における残存(<自動保存説>)」が導かれるのである。

感覚質は、一次的な遅延のみによって構成されるのではなく、一旦構成されたイメージを元にさらに遅延が得られる、その遅延をも参照単位として繰り込んで構成される。
ここで完了相/未完了相のダイナミズムの考え方が提示される。

獲得した分の持続を殺し、完了相として「こなす」。イメージは、いちいちクオリアの一回性を拾わないために、クオリアは、いちいち物質の振動を拾わないために。たえずわれわれは、継起を同時性で置きかえ、見るべき対象を記号の犠牲にすることで、より複雑で多元的な時間的構造化への横溢を果たしてきた。下位の持続の不動化、効率化、要約、凝縮のおかげで、獲得される自由。


『ベルクソン「物質と記憶」を再起動する』

PBJ2015-2017三部作、完結編。

※ベルグソンのテクスト特有の「異質性」がはらむのは、言わば「リアリスティックな拡張性」とでも言うべき、「折衷的ではない<根源的>なハイブリッド性」である。
「拡張ベルグソン主義」とは、だから、ベルグソンのテクストに対する“より忠実な読解”と言えるかもしれない。

平井靖史「序論」。

われわれは生命の理論的なスマートさに驚嘆するのではなく、むしろその(設計上の)呆れるほどの節操なさと、(運営上の)狡猾さに舌を巻く。ア・プリオリに予想されるとおりに事は進まない。言ってみれば猥雑などさくさのなかで、質で世界を捉える意識も、過去にアクセスする意識も、芽生え“ちゃった”のだ。とするなら、意識の誕生と心の獲得をめぐる哲学的探求もまた、「泥仕合」を約束されているだろう。だが、ベルクソンが『創造的進化』で明かすように、“期待される”秩序がないときそれを「無秩序」と呼びたくなるのは知性の都合であり、実際には、そこには、知性の見知らぬ「別の秩序」がある。
『物質と記憶』が信頼できるのは、そのぎこちなさのゆえである。どう見ても綺麗な一枚絵として仕上がっていないのに、無骨にむき出しになった個別のディテールの背後に、そこかしこで思想の命脈を繋ごうとする概念的掘削の跡がにじみ出ているからである。(…)彼ほどのエリートならば、それをあり合わせの小洒落た生地で繕ってみせることは造作もないことだっただろう。しかし彼はそれをしなかった。それが彼なりの知的誠実さの示し方なのである。これが不恰好さの二つ目の理由だ。それはまさに、「別な秩序」で編まれたテクストなのである。

※ 「再起動」では、特に平井靖史「時間は何を保存するか」を読んでいて、ずっと引っかかっていた純粋記憶のステータスについての違和感が氷解するとともに、「物」ではなく「出来事」をそのモナドとする汎心(質)論的一元論の世界像が腑に落ちるという得難い読書体験が得られた。
ベルクソンの「イメージがそれ自体で蓄積・保存」されるというとき、端的に「どこに?」という疑問があったのだが、それは自分が、無時間的な物理的時空を存在の自明の前提として考えていたから起こり得た疑問に過ぎなかったということが、ようやく腑に落ちた。

ベルクソンの主張、「脳はイメージを保存できない」。この主張を、平井は「あるものが別のものを含みもつという空間的な包含関係で、時間的な保存は説明できない」と換言する。
問題は、「心的・物的を問わず、なにか現在のものが過去から保存されてきたものであることがどのように成り立つか」。
そして、この過去の保存の問題は、心がつくりだすのではない、つまりそれを認識する主観のなかに閉じた問題ではなく、客観的な過去に関わる実在的な事態であることが確認される。

よく注意されるように、「記憶力」とベルクソンが述べているのは、過去が保存されるという事態をもたらしている、時間そのものが有する仕組みのことであり、非人間的・非心理的な働きである。

※ここで述べられていることは、言わば「時間論的転回」、つまり、時間を、“如何なる意味においても”空間的包含関係で考えないことからくる帰結である。

さて、それでは、時間において、“何が”保存されるのか。平井は、このことを考える前提として、物的、心的といった「存在タイプ」の区別には拘泥せず、時間的保存を「存在様相」のシフトとして捉えるべきであると提唱する。

ベルクソンは、過去になる(保存される)ということを、幅のある現在のなかでマルチスケール的に生じる現働的プロセスが、機能的効力を失って「内容への繰り込み」が生じること(という存在様相のシフト)と捉えている、というのが本稿の提示する解釈である。

存在様相のシフトとは、つまり「現働的な仕方であること」が「潜在的な仕方であること」にシフトすることを指す。想起するとはこの逆と考えられるが、ただし、記憶と想起はその機序において非対称である。その機序の詳細が、ベルクソンを多様な領域に拡張していく場合の肝心な理路となる。
ここでは、理路の詳細を追うことは省き、現働的であることが潜在的であることにシフトする「保存」について、アリストテレスの「形相」概念を“転用”して、その描像が論じられる箇所を引く。

現実に生じるプロセスには、後続する事態を因果的に引き起こし、事柄の具体的な推進を司る、機能的・「作用・実効」的な側面と、それぞれの時点でのものごとの在りようが構造的な仕方で描き出す情報内容といういわば「形相」的な側面がある。
現働的プロセスは、排他的な瞬間を占める。これは、運動というものが、未完了であることを条件とするタイプの存在者であることから理解できる。運動し終わった運動は、もはや運動ではない。他方で、形相的な情報は、現在においては確かに作用的な相互関係によって“担われているが”、担い手がいなくなったときにそれは跡形もなく雲散霧消してしまうものなのか。

ここで述べられた「作用という担い手を持たない形相」のような存在様相は、時間を超脱する。現働的な在り方をしている存在者によって、運動の必要に応じて想起を要請される記憶のように「耐続的」に保持されるものではあり得ない。ここに非時間的な「純粋過去」が導かれる。
ところで、想起は、保存とは非対称な機序をもって実行されるのだった。保存が「存在様相のシフトだけを伴うことで、『出来事』の数的同一性そのものが創設される局面」であるのに対して、その機序については省くが、想起によって、「出来事」は都度複数化される。

※つまり、「想起」とは、「出来事」の相において見るとき、経験と同等の創造的な事態なのだと言い得る。
芸術行為がある種の「想起」のようにして為される、言わば「後ろ向きの創造」であることは、それが「物」や「状況」を超えた「出来事」を創造する行為であると定義すれば明らかになる。

谷淳「脳型ロボット研究に基づく意識及び自由意志の統合的な理解」
三宅陽一郎・平井靖史「ベルクソン・モデルの人工知能への取り込み」
谷淳・三宅陽一郎・平井靖史「鼎談 ベルクソンと人工知能の未来」
三宅岳史「拡張ベルクソン主義とエンジニアリング 持続の工学的再構成は可能か?」

ここでの問題は、三宅岳史のコラムにあるように、「すべてをあらかじめ完了相で設計せずに、『できつつある』という持続の未完了相」(の近似的なモデル)をどのように工学的に再構築するか、ということをめぐる工学における実践的な課題であるように思う。
人工知能のベルクソン・モデルはそれ自体たいへん興味深いのだが、谷・三宅・平井の鼎談では、談話という性質上、話題がさらに拡散的に展開されていて、そこでまたさまざまにベルクソンの拡張性が示唆されている。
ベルクソンの逆円錐の縦のパラメータをめぐるやりとりで、生物が進化して神経構造が複雑になるにつれ、環境の文脈に癒合的な、現在没入的な在り方から、夢想的な在り方が可能になるという旨の問題が話されている箇所がまず興味をそそった。

三宅:やっぱり世界にも一つの力学があるわけじゃないですか。その外的生活に自分を寄せるほう、時間的な流れの中に自分を投与するっていうのは、一つの文脈に自分を埋没させるっていうことで。そうした世界から距離を取る方法っていうのは、自分を世界からどんどん切り離していく。高等な生物っていうのは、世界へ近づくことも遠ざかることもできる。で、どうしようもない状況に、自分が巻き込まれちゃうと、ああ、どうしようもない、ちょっと反省しよう、遠ざかろう、みたいな。

※ 文脈埋没的な生き方を、我々は「現実に適応している」と考えるが、そこで「適応」しているのは「現実から抽出された固定的な文脈」であるに過ぎず、「現実」はもっとカオティックなダイナミクスのうちにある。「現実」に適応するためには、「文脈」から離れなくてはならない局面もある。
文脈埋没的・刺激反応的な在り方から距離を置いた夢想的な在り方とは、普通考えられているように、「現実」から目をそらして隔離された「内面」に引きこもることではなく、「純粋過去」も含むより拡張された「現実」に身を浸して、新たな生のフォームを再構築する創造的な営為なのである。

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