漂流日記2020.09.24

生活するためには、やらなきゃいけないことがあって、それはやらなきゃいけない。
やってると夢中になれることがあって、夢中になって過ごす。
でも、それだけだと、なにかバランスが悪い。
やってもやらなくてもいい、どうでもいいことを、そこはかとないこだわりをもって楽しむ時間が、おれには重要である。
駄菓子をつまみながら、時々欠伸をして、ペラペラと江戸から明治にかけての閑人の手慰みのような随筆に読み耽り、屈託するとちょっと散歩に出て近所の蕎麦屋で蕎麦を手繰る、本屋とレコード屋をひやかし、喫茶店でコーヒーを飲みつつ、ぼんやりと午後の陽光が揺蕩うのを眺める。まあ、そんな時間である。
人生は限られている。日々を大切にするとは、無駄なことをやらないということではなく、無駄を楽しむということである。
生産性からも、いかなる意義からも解放された、端的な無駄を慈しむということである。

今日は、気晴らしに散歩し始めたら、延々と歩いてしまった。きりがない。でも、散歩はいいよね。とぼとぼと歩きながら、人間が生きる理由が分からねえ、なんて思ってたのが、歩いているうちに身体にリズムがついて気分が適当になった。

このところ、幼少期の頃そうだったように、退屈を持て余している。たとえ仕事で忙しくしていても、ふと気を抜くと、あの広大な退屈の最中で途方に暮れている。
そう、確かにこんなふうだった。散歩しながら、歌を口遊んでみる。手を振り回してみる。ん?何もない。なんか、楽しい?ちょっと、嬉しい?
手をブラブラさせて、口笛を吹いたりして、人目を忍んで一、二歩だけスキップしたりしながら、路傍の雑草に目を留めてその種類を思い出そうとしたり、野良猫がこっちを見ているのをじっと見返したりしながら、あー、なんか面白いことないかなぁ、なんて考えている。

おれは、会社経営して猫や女の子と遊んでインテリ並みに本を読んでボーッと散歩して、何故そんなに時間が有り余ってるかといえば、無駄なことに時間を使わないからだ。
悩んだり逡巡したり自分への言い訳を考えたりしないからである。人々は自分との折り合いをつける為に膨大な時間を費やし過ぎている。
おれが何故自分との折り合いをつける必要がないかといえば、おれはおれが何をしでかそうと、どんな状態に陥ろうと、一貫しておれの味方でありつづけるだろうからだ、そのことをおれが信じきっているからである。

ジョルジュ・ペレック『パリの片隅を実況中継する試み ありふれた物事をめぐる人類学』(塩塚秀一郎訳 水声社)という本がある。
1974年10月18日から20日までの3日間、サン=シュルピス広場の一角に陣取り、「目立つもの以外のすべて」を書き取ろうという試みだ。原題は『パリのひとつの場所を書き尽くす試み』。
ふつうは注目されないもの、気づかれないもの、重要でないもの。何も起きていないときに起きていること。といっても、天気、人間、車、雲のことではない。
だが、これは退屈だろうか。「何も起きていないときに起きていること」を描出すること、そこに意識を向けることは、それだけで随分快楽的なことではないか。
私は散歩が日課だが、散歩が最も充実するのは、ほとんど何も考えず、海月のように街を漂っているときだ。
充実している時は、自分が限りなく透明に、極薄になって、現実の出来事を、個別に意味付けることなく、ただ全体の流れに漂うように歩いている。
散歩の場合「歩行」のリズムによって、現実の偶発時に緩やかな結びつきが生じる。
その線に「乗る」ことで、クルージングしているかのような快楽が湧き上がってくる。
ペレックのテキストにおいて「歩行のリズム」に相当するのは、断片的なスケッチの並列という、記述スタイルということになるだろう。

散歩が充実するとき、私は、この世界の「因果」或いは「物語」から解き放たれ、偶発事の飛び石を軽やかに八双飛びしている。

人生において「歩く」あるいは「散歩する」術を理解している人に、わたしは二、三人しか出会ったことがありません。こういう人はいわば、さすらう才能の持ち主でした。
きわめて短い距離を偶然歩くことになった場合でも、戻ることのない永遠の冒険のつもりで進むべきです。
あなたが父母や兄弟、妻子、友人をあとに残して二度と会わない覚悟があり、身辺整理を済ませて自由な人間になっているのであれば、あなたは歩く用意ができているといえます。

ヘンリー・D・ソロー

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