雑然日記2020.08.01

碧海寿広『科学化する仏教 瞑想と心身の近現代』(角川選書)を読む。仏教と瞑想と科学の近現代史が論じられる。1900年前後、日本では明治以降の歴史について重点的に照明されている。井上円了、元良勇次郎から始まり、あの今やJホラーを代表する作品となった『リング』の元ネタでもある福来友吉、それからもちろん鈴木大拙、最近では桐山靖雄からオウム真理教の超能力系、ニューエイジ、マインドフルネスとバランスよくその歴史を通覧できる好著だ。ここでは、その多様な問題のうち、ひとつの論点だけを取り出したい。「宗教と科学」という論点だ。

瞑想や禅の体験を、心理学や神経科学など、科学的な観点から見るというとき、仏教の最重要な教えが失われる。もし瞑想や禅の体験が、科学的に特定できるだけのものであれば、それはLSDなどのドラッグや、或いはVRなどのテクノロジーで代替可能ということになる。じっさい、アメリカに起源をもつ20世紀のニューエイジ思想には、瞑想や禅の体験を、ドラッグをもって置き換えることが可能だという知的風潮があった。だが、その現場に近いところにいた鈴木大拙は、宗教はそうしたインスタントな「体験」で置き換えることはできない、と論じた。
大拙は、浮世の憂さを超越したいということ、すなわち様々の条件や業因に縛られて、心の自由さを楽しむことの出来ぬこの世を超越せんとの希望については、薬物の服用者にも真の宗教家にも共通する心意である、という。だが、前者が薬物の力で、何でも速攻をあげんとするのに対し、後者は真面目に払うべき努力は惜しげもなく払う、と論じる。なぜなら、「宗教の宗教たるゆえんは、人間をして真の人間たらしめるところにある」からだ。

つまり科学は、あくまでも外から観察できる事象を追求する。だから科学的な視点で見た瞑想体験は、あくまでも対象化された体験でしかない。しかし本来の宗教は、その対象を観察する自己そのものを問う。科学的には共通のものとみなされる「体験」であろうが、自己そのものを問うところに行かずには、その宗教体験の本質的な意味をとらえることはできない。大拙の言葉を孫引きしよう。

宗教の奥座敷には”人”がいる。この人になりきらないと、本当の人間にはなれぬ。外に、客観的に、いかに神妙不思議の世界が見えて、心身恍惚という境地が開けても、それはいずれも架空の偽物である。宗教の世界ではない。何となれば、そこには”人”がいないからである。見られたもの、見えるものではなくて、見る”人”とならなくてはならぬ。この”人”と一つになるとき、はじめて宗教の世界に入るのである。

現代日本の曹洞宗僧侶藤田一照の述べるところを聴くと、この問題がよりクリアになる。ニューエイジ以降の科学的思考に親和性の高い、マインドフルネスにまで至る現代の瞑想法は、一般的に「頭の回転が良くなるとか、こころが落ち着くとか、健康になるという世俗的な目的」や、あるいは「悟りや超越的な智慧を獲得するといったスピリチュアルな目的」を喧伝する。だが、道元が説く「只管打坐」の禅の核心は、そうした個人の目的意識から自由になり、ただこの世界に「在る」状態へと自らを解き放つことにある。次元が違う。いや、ある意味、「真逆」といってもいい。

現世利益的な身体技法としての瞑想は、共通して、要は「わたし」の救済を追求する。だが、禅に代表される本来の仏教的な瞑想は、「わたし」の放棄をもってこの世界のうちに在るがままに解放されることを追求する。

ここが最重要のポイントとなる。今日は続けて、山下良道『本当の自分とつながる瞑想』(河出文庫)を読んだ。ここに書かれていることから、自己の救済と自己の滅却との違いについて、さらにその輪郭を確かなものにしてみたい。

ここで、著者はまず、自分を苦しめているのは”いつどんなときも”自分である、と説く。あらゆる悩みは、悩みの対象によってもたらされるのではなく、つねに自分の心によってもたらされる。自分の心が悩みの原因となるのは、自分の心というのはつねに「過去」と「未来」という仮想にとらわれているからだ。

ここで、考え方を転回してみよう。自分の心というのは、むしろ”仮想にとらわれるために”あるのである。一昨日読んだアリソン・ゴプニック『哲学する赤ちゃん』(青木玲訳 亜紀書房)に、人間というのは赤ちゃんの頃から、物事の因果関係を学習する生き物である、ということが論じられていた。例えば幼児は、スイッチを押すと反応するような玩具で飽きることなく遊ぶ。これはAという行為がBという結果をもたらすという因果関係をそこに見出して悦んでいるのである。
人は操作できるものを悦ぶようにできている。
この因果関係の理解をもとにして、人は、未来を構想する。現在、Aという行為を行えば、未来にBという結果がもたらされる、と考える。同じように人は、過去を後悔する。現在Bという状態にあるのは、過去Aという行為をやってしまった(またはやらなかった)からだ、と考える。人の心はこうして、因果関係で結ばれる過去と未来をつねにシミュレーションして生きている。それが人間の心のありようだ。

山下は、私たちを苦しめるのは、つきつめると、「怖い」と「欲しい」に行き着くと説く。

日々働くのは、お金やそれによって得られるものが欲しいから。恋愛をするのは、愛して欲しいから、旅行やレジャーに出かけるのは楽しい時間が欲しいから……。
つい心配してしまうのは、傷ついたり損をしたりするのが怖いから。人を陥れたり攻撃したりしてしまうのは、自分がそうされるのが怖いから。他人に親切にするのは、嫌な人と思われるのが怖いから……。

そして、この「欲しい」と「怖い」は、ともに「未来」と「過去」に深く関係していることを説く。

「欲しい」は「未来」に自分を満足させるものを求め、執着しているということです。
そして、「怖い」は「過去」に起きた出来事、また「未来」に起こるかも知れないことにとらわれているということです。
つまり、さまざまな悩みや心配事に煩わされるように見えても、本質は非常にシンプル。結局は、どんな問題であれ、過去や未来に振り回されているだけなのです。

重要なのは、この未来と過去にとらわれた心のありようが、心の”本質”だということである。私たちはみな、赤ちゃんの頃から、物事を因果関係の相において見ることに慣れ親しんでいる。つまり、これは物事の見方をちょっと変えれば済むという問題ではない。何かの「気づき」を得たところで、何も変わらないのである。私たちはやめようと思っても、シミュレーションをやめることはできない。むしろシミュレーションすることが私たちの心の基本機能なのである。
そして、このシミュレーションは、基本的にネガティブに作動するようにできている。それは、このシミュレーションが、そもそも動物としての生存戦略にその起源をもっているからだ。動物は、生きるために何かを捕食しなければならず、同時に、自分は捕食されることから逃れなければならない。要は、その必要に促されて、人の心もまた、本来心配性にできているということである。
人の心は、オートマティックに、ネガティブなシミュレーションをするようにできている。だから、いわゆる「ポジティブ・シンキング」などというのも、無理な努力でしかない。

こうした人の心、エゴを標準装備した私たちが、どんなに「明るく物事を感がえよう」「自分や人を評価せず、あるがままに見よう」「今ここを生きよう」と意識しても、はっきりいってまったく無理なことである、と著者は説いている。それはそうだろう。本質的に、オートマティックに作動するネガティブ・シミュレーション・マシンであるエゴに、そんな矛盾する指示を出しても無理に決まっているのである。「わたし」の救済などは不可能事である。それではどうするか。「わたし」の放棄をもってこの世界のうちに在るがままに解放されることを追求しなければならない。
著者は、エゴという詐欺師のつく最大のウソは、「エゴが自分自身だと思わせる」ことだと説く。
エゴとは、産まれたときから続く因果学習マシーンだった。それは、過去と未来を行き来するための「わたし」というフィクションによって、より射程の長いシミュレーションを可能にする。だが、その「わたし」はあくまでもシミュレーションに要請された「仮定=フィクション」でしかない。そのフィクションでしかない「わたし」を、自分自身の実体であるかのように錯覚すると、人は悩み尽きない世界に陥ってしまうというのである。

さて、それでは、「わたし」を「わたし」のままに作動させ、それにとらわれなくなるには、どうすればよいのか。ここで初めて、瞑想の実践が意味をもってくることになる。瞑想によって、「わたし」によるシミュレーションが見せている世界とは違う、より解像度の高い世界があることを実感すること。これは一度実感すればそれでいいというものではなく、くりかえし実感しつづけることを通して、「わたし」と自己の不一致を、都度確認しつづける実践としてなされなければならない。「わたし」は、消えることはないが、それこそ「青空に浮かぶ雲」のようなものとなるだろう。雲が自分で空は背景だったのが、その空が自分となって、雲はひとつの臓器のようなものでしかなくなる。

その瞑想の実践がいかなるものであるか、この本ではそこに重点を置いて説かれているが、今日の日記はここで終わることにする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?