Dope日記2020.10.03

今日、こんなツイートをした。

知恵というのは、情報ではない。身体だ。知恵者というのは、情報処理力の高い者のことではなく、その身体にいつもドープなビートを響かせている者のことだ。彼や彼女の傍に寄るだけで、自分のなかのリズムが同期し始める。
悩んでいたことが、その共振するグルーヴへと自ずと解けていく。

ドープってのは、ヒップホップ界隈から発生してきたスラングで、「バカな」「愚かな」とネガティブな意味がそのまま「かっこいい」「凄い」という真逆の意味に転化して使われている。日本語で「やばい」なんかもそうだけど、でも「ドープ」っていうと、「やばい」よりもすこし「愚かな」というニュアンスが立ってる感じがする。「やばい」には「愚かな」ってニュアンスは薄いでしょう。

ドープっていうと、例えば、マーティン・スコセッシ監督がロバート・デニーロと組んだ初期作品の主人公達が思い浮かぶ。とりわけ『タクシードライバー』『レイジング・ブル』『キング・オブ・コメディ』といった辺り。周囲に馴染まず、自分だけの基準で動いていて、それはひどく滑稽で、ときに狂気の匂いすら発していて、けれども彼らのその自律したビートが、この世界のノイズを巻き込んで、奇妙なストーリーがそこに発生する。
デビッド・リンチ監督『ストレイト・ストーリー』の主人公、兄に会うために芝刈り機で560㎞を走っていく爺さんもまた、そんなドープな人間のひとりだ。ただ、こうして映画の例ばかり挙げると、どうもエキセントリックな事例ばかりになりそうだ。映画ではその方がわかりやすいドラマが描けるからね。でも、ドープな奴が、必ずしも、そんなふうにエキセントリックなキャラクターである必要はない。

本当に弱ったとき、人が心配して掛けてくれる言葉は慰めにはならない、むしろ鬱陶しいだけだ、
そんなときはいつも、動物の気配、植物の息遣いのようなものが、自分を支えてくれる、
ただ時に、動物や植物のように「そこにいるだけ」の人もいて、その佇まいほど心強いものはない。

ドープな奴の本質は、たぶん「動物や植物のようにただそこにいるだけ」ってことだと思う。その身体に独自のビートを響かせているっていうのはそういうことだ。だから、べつにエキセントリックってことが、必須条件なんじゃない。会社のなかで、スーツを着て、たんたんと仕事をしているかもしれない。主婦として、家庭のなかで夫や子供を世話しているかもしれない。おれはこれまで何人ものドープな奴に会ってきたが、彼や彼女は、意外に社会にうまく溶け込んでいる人間が多かった。

知恵者を見つけるのは簡単だ。傍に寄るだけでいいのだ。力を失っているときは、深く癒される。何かをやろうとしているときには、エンパワーメントされる。
人を肩書きや社会的属性で評価する癖がついていると、知恵者のことがよくわからなくなる。こんなに簡単なことがわからなくなる。

社会的な属性にかかわりなく、自立したビートを響かせている奴は、すこし話をすればすぐにわかる。自分の心身が、彼や彼女のビートに同期して引き込まれるのがわかる。それは、体感として理解できる。それが理解できないようだと相当にまずい。魅惑され、その魅惑された誰か(何か)といっしょにダンスする能力が衰えている。つまり、生きていくための、生きていることを楽しむための基本的な能力が衰えている。

人の話を真剣には聞かない、呼吸するように嘘をつく、地に足をつけず、何事にも心をこめず、いつも月の上を歩いているみたいにふわふわと頼りない足取りで、なんだかいるようないないような風情で、でもやっぱりいつも今ここにいる。そういう「優しさ」ってのがある。
もたれかかると、もうそこには居なくて、そのままずっこけてしまう。ずっこけたあなたを見て、声をあげて笑っている。むっとすると、おろおろしている。何?と呆れると、きょとんと真顔になる。
そいつが、そうして、ただいるようないないような風情で、いつも今ここにいるから、私は全然寂しくない。

早川義夫『女ともだち 静代に捧ぐ』(筑摩書房)を読んだ。妻の静代さんと離別した著者が、彼女と歩んだ人生を振り返って、その関係をめぐって書いたエッセイだ。
早川義夫はシンガーソングライターから本屋になり、ただその後も本屋をやりながら音楽活動を続けていた。すごくかっこいい歌をつくり、歌う。彼もまた、ドープな知恵者のひとりだ。この回想録は、冒頭、こんな場面の描写で始まっている。

本屋時代、僕は時々レジでナンパをしていた。「この街に住んでいらっしゃる方ではないですよね」と話しかける。遠くからわざわざ早川書店を訪ねに来られた方は、顔立ちや服装や棚の見方が微妙に違うから勘でわかるのだ。間違っても失礼にはあたらない。垢ぬけていらっしゃるという意味だからだ。
そんな調子で、ある女性と鎌倉の家までデイトをしたことがある。ところが、夜になっていざ寝る段になったら、なんだか気が進まなくなってしまい、妻のしい子に電話をかけて「どうしよう、嫌になっちゃったんだ」と助けを求めた。本屋で話したときはかわいく思えたのに、別な場所で会ったらそうでもなかったというわけだ。「じゃ、女の子は女の子は二階に寝かせて、よしおさんは下で寝ればいいじゃないの」と教えてもらい、ことなきを得た。
恥ずかしい話である。バカみたいな話である。夫が浮気をしている最中に妻に「どうしよう」と相談をする。そんなみっともない男がいったいどこにいるのだろう(ここにいる)。相談をしたのはこれ一度きりであるが、当然、しい子はあきれ返り、その後も時折この話を持ち出してきては「情けない男」としてからかわれる。

早川義夫という人もたいがいドープだけれど、妻の静代さんも同じくドープである。ドープというのは、独自のビートだから、夫婦のようにいっしょにいると、互いに共鳴しあっているのかもしれない。逆に、互いに共鳴しあうことができる男女じゃないと、長くつきあうというのは難しいのかもしれない。どちらがどちらに影響しているのか、まあ、いずれにせよ相互作用なのだろうが、ドープなビートは周囲の人をそのリズムで引き込んで、自分の内部にある自律したリズムを思い出させる。それがまた、フィードバックして関係性の場を熱く、時にクールに、ともあれ滅法楽しいものにする。

おれは獣みたいな女くささを発散している女の子が好きだ。外見や社会的な性格は、どんなふうでもいい。あ、脚はきれいな方がいいけど。
今の彼女は、本人に自覚があるかは知らないが、心身が野性的でいい。彼女の人格に収まらない、雑多なリアルとつねに交わっているような心身をしている。稲荷が飛び交っている場所に行けば、すぐに乗っ取られてコーンと鳴き声を上げそうな体つき。どんな体つきだ。
本人は「恋愛体質」というのだが、それよりももっとプリミティブにスケベなんじゃないかって気がする。性欲に無邪気で、そのことを正当化する言葉も必要としていない。だから、「恋愛体質」というテキトーな言葉をあてはめてしれっとしている。
セックスのときは、電気を消して、と言う。正体が知られると困るからだろう、とおれは踏んでいる。彼女は舌で犯すようなキスをする。おれはすぐに硬くなる。あ、いまなら簡単にゴムが装着できるな、なんて考えている。情けない男である。
激しく突き上げる。汗がしたたるのを、彼女は、M、いまにも死んじゃいそうね、とよろこぶ。
精子がはじけると、意識も破裂して、しばらく気が遠くなる。彼女の胸に耳をつけると、遠くから心臓のビートが聞こえてくる。ああ、ドープだ、とうっとりする。覚醒しているのでも、眠っているのでもない時間がつづく。

ところで、おれは、どうなのだろう。ドープな奴なんだろうか。彼女もそうだ。それから何人もドープな奴らの顔が思い浮かぶ。おれは与えるより、もらう方がずっと多い気がしている。


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