日記 22.04.02 土

脳は予測装置だ。経験とはまずその予測からはずれた違和感のことである。その違和感をどう捉えるか。
それを恐怖として捉えるか課題として捉えるかで人生が変わる。恐怖として捉えれば人生は閉じていく。乗り越えるべき課題として捉えれば人生は開けていく。
違和感を課題として捉えるには心身が自由でなくてはならない。人が自由である度合いに応じて経験は糧になり、人が何かにとらわれている度合いに応じて経験は脅威になる。

考えるとき、人は自分に語りかけるようにして考える。考える=語るというのは切り離せないのが普通だ。だが、いつからだろうか、そうやって自分に語りかけるのを意識的に止めることができるようになった。経験の流れだけが、今ここにある、といった感じだ。
痛みや不快感も、自分を脅かすことがなくなり、不安がなくなった。自分とは自分が自分に語りかける物語だ。語るのをやめれば、自分という感覚はとても小さくて揺らいだものになる。
この「感じ」は説明するのが難しい。経験が、自分に付随するものではなくなり、それ自体として流れている。そこに小舟のように、自分が流されている。そんな「感じ」だ。

おれは人と会うとよくしゃべる。自分が喋っているという感じはしない。その人との対話に促されて、半ばその人が憑依したようになってしゃべらされているという感じがする。人と会うとよく笑う。笑っているという意識はなく、その人とのあいだで、泡がはじけているかのようだ。人と会うと喜怒哀楽を覚える。感情は、おれのなかから湧きおこってくるのではなく、まるで蝶のようにその人とのあいだに飛び交っている。そんな「感じ」がする。

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