漂流日記2020.09.20

この漂流日記、日記とは名ばかりで、だんだんコラムみたいになってきた。たまには時事ネタでも入れとく?半沢直樹、面白かったねえ。もう完全に歌舞伎ですなぁ。やっぱり歌舞伎って強いよねぇ。愛之助も中車もよかった。北王子欣也、柄本明、考えてみればそれぞれ出自の異なる役者がみんな歌舞いてる。歌舞伎最強…ということで、2020年9月20日日曜夜9時からは堺雅人主演『半沢直樹』が放映されてたんですよ。何年後かのみなさん!(何年後かに読む奴いるのか…)。

日記さ、一般的なテーマより自分のことを書くと、なんか受けがいいんだよね。昨日のヒモ時代のとか、数日前のただただ自分が好きって書いてあるのとかさ。情報量そんなにないと思うんだけどね。情報量なんてのは求めてないよね。わかってるよ。まあ、好きなようにやるけどね。

ところで、昨日の流れで、今日は、ちょっと料理ということについてさらっておこうか。まず、北王子魯山人ね。彼の言葉を引用しましょう。

元来「料理」とは、理(ことわり)をはかるということなのだ。(…)うまいものをこしらえることは、調節塩梅に合理が要る。(…)とにかく、ものの道理から離れることは許されない。
浅草海苔一枚焼くにしたって、(…)以上の心が欠けていては満足なことはできない。つまり馬鹿には不向きだ。
北王子魯山人

いいですね。「馬鹿には不向きだ」(笑)。まあね、おれはどっかで職人的知性ってもんしか信じてないところがあってね。おれ自身は職人ではないので、自分についても、じつはあんまり評価してないんですけどね。それはそれとして。

さて、そもそも、合理とは、ものの道理に即して手と頭を動かすことをいうわけです。うまいものを作るとは、だから素材のもつ性質を引き出すということに尽きるのであって、「まずいものはなんとしてもうまくならぬ」、まずいものをうまくこしらえるのは技術ではない、「インチキで小児を騙す」ようなものである、と魯山人は言ってます。素材の味を生かしなさいってことね。素材の味を味わうのが料理の神髄であると。アルファにしてオメガである、と。そして、素材の味を生かすには、素材の性質を知り、料理という行為の原理を知るという「合理精神」が必要であるということですね。

魯山人は、家庭料理が料理の真心である、なんてことも言っている。これはちょっと深いですね。「例えていうならば、家庭料理は料理というものにおける真実の人生であり、料理屋の料理は見掛けだけの芝居だということである」と書いて、良寛の「好まぬものが三つある」という言を引くんですねー曰く、「歌詠みの歌、書家の書、料理屋の料理」。
書を目指した書、歌を目指した歌がつまらないように、料理を目指した料理もまたつまらない、と。家庭料理は、供する者への思いが動機になっており、その分真実なのだということですね。料理は合理の精神が必要だけれど、それを供する、そして食する場を作り出すものでもある、ということです。昨日、家庭料理にはMAGICが働く、と書いたんだけど、それを魯山人に言わせると、こういうことになる。

「味」のことばかりを言って、その背後にある「美」の影響力に無頓着なのが、言って悪いが当代の料理人の大方ではないでしょうか。(…)
少し極端な言い方かも知れませんが、料理に「美」を求めぬ人は、当てがい扶持に満足する犬猫の類と同じだと言っても差し支えないでしょう。
北王子魯山人

いいですね、いちいち厭味ったらしくて。魯山人の性格の悪さがよく出てます。さて、この料理の「合理」のところを、より詳細に書いた本があります。斎藤勝裕『料理の科学 加工・加熱・調味・保存のメカニズム』(サイエンス・アイ新書)。これは、タイトル通りの料理の「合理」を徹底的に科学的目線で書いた本ね。なかなか面白いです。

物を扱う過程は物理・化学の法則に従う。料理ももちろん例外ではないわけです。
料理という行為は、大きくは分解、加熱、調味、盛り付け、保存に分けられる(これ以外に、熟成、発酵などの過程が加わることもある)。特に主要な要素は加熱と調味。

例えば加熱は、その熱の伝わり方としては、伝道、対流、輻射がある。
伝道は熱が物体を伝って伝達することで、例えばフライパンの熱が卵に伝われば目玉焼きができる。
対流は熱源が空気を熱し、その空気が動いて熱を素材に伝える。例えばオーブンだ。この場合、熱源は直接素材に接しているのではない。
輻射とは熱源の熱エネルギーが直接赤外線として伝わることを言う。遠赤外線が素材に浸みこむ距離はほとんどゼロに等しい。

だからなんだよ!って話ですけど、こういう理屈を知っておくことは存外役立つんですよね。例えば石焼き芋について考えてみましょう。
石焼き芋では石や炭が出す赤外線は芋の内部に入ることはできず、皮を熱くするだけ、だがこのことが石焼き芋独特の「しっとりと甘い」味わいを実現するんですね。どういうことか。遠赤外線で焼くと、表面が早く焼けて硬くなり、その熱が伝道によって内部に伝わるので、内部は水分が保たれたまましっとりとなり、酵素も働いてデンプンが糖分に分解され、甘く、美味しくなる。どうだ。そういう理屈がわかってると、いろいろ応用がききそうでしょう。

そもそも加熱には、1.煮る・茹でる、2.蒸す、3.焼く、4.揚げると種類があります。これは誰でも知ってますよね。そのそれぞれに、伝道・対流・輻射といった熱の伝達スタイルがある。ふ、ふうん、って感じでしょ。さらに水や蒸気や油といった「媒質」と素材との反応性という条件がそこに加わる。最後に熱の強さ。この三つの側面から、その素材の美味しさを活かす最適な方法を選択する。それが加熱ということの内実です。

例えば魚は「強火の遠火」で焼くと美味しい。「弱火の近火」でも熱量は同じように感じられるますよね。何が違うかっていうと、強火の熱源からは大量の赤外線が出ており、その輻射熱で表面がパリパリに固まり、水分を逃さない状態で中身がふっくらと焼けるんです。石焼き芋と同じ理屈。ね?ちょっと面白くないですか?つまりね、魚も焼き方によっては、素材の甘みがふっくらと感じられる焼き方と、ばっさばさで半分炭じゃねえの?という焼き方ってのがあるわけよ。

魯山人も言ってるけど、自分で、さまざまな料理を作って味わってみて、結局は料理というのは、いい素材を選び、その素材を活かすこと、これに尽きるわけです。
素材を活かすための料理方法は、もちろんある程度は経験値に依存するものの、料理という行為の物理・化学的合理性が腹に落ちていれば、あとは素材をよく知ることで、いかようにも創造性が発揮できる。その観点をもつ、ということが何よりも重要なんですね。

ああ、そうだ。玉村豊男の『料理の四面体』って本があるんだけど、これは名著だよ。上に書いたような観点で書かれてるのね。どんな感じか、一節を引こうか。

肉を水で煮込む場合、肉の旨味が汁に流れ出てしまうので、その前にフライパン等で表面を軽く焼いておく。これをフランス料理では「リソレ」というが、この手法は第三世界の野外料理でもやられていることだし、日本の家庭でお母さんがビーフやポークの厚切り肉を使ってカレーライスを作る際にも、ごく普通にやっていることだ。さらにそうやって「リソレ」した肉を煮込むのを水で行えば単なる肉汁のスープ(コンソメ)となるが、あらかじめ肉や骨で煮出しておいた汁(ブイヨン)で煮ればさらに旨味が増すし、トマトを潰して入れればトマトシチュー、牛乳や生クリームを入れればクリームシチューとなる。市販のカレールーを入れればカレーになるし、醤油や日本酒、味醂や塩を使えば豚汁や牛汁となるのは言うまでもない。一定の法則とはこういうことだ。

ちょっとだけ面倒なコメントつけると、ここで重要なのは、レシピというアルゴリズムを暗記してちゃだめよ、ってこと。汎用性のある構造ー軸ー原理を理解する、という点が何よりも大事でね。それができると、都度、ありあわせの素材で最高の料理がつくることができるようになる。つまり、創造性が発揮できるってことね。料理だけじゃないだよね。これは、ブリコラージュってことの普遍的原則だよね。ブリコラージュって何?という人、今日のところは、受け流しといてください。

ここまでは、料理の「合理」、味の話なんだけど、さっき魯山人の家庭料理について語るところを紹介したでしょ。料理ってのは、場を演出するものでもあるってことね。適切な場でいただいてこそ、食事の満足も十分なものになるってことです。チャールズ・スペンス『「おいしさ」の錯覚』(長谷川圭訳 角川書店)って本があるんだけどね、これ、表題に「錯覚」とあるんだけど、著者の主張はむしろ、「おいしい」は味覚に限定された感覚ではなく、五感が協働した環境全体からもたらされるというもので、「総合芸術としての料理」を志向している本。
まあ、「芸術」とか言われると構えちゃうけど、単に、料理は味で完結するものじゃなくて、そもそも「料理の味」ってことには、五感が参加しているんだよ、ってことね。

ガストロフィジックで得られる洞察の多くはクロスモーダル(総合感覚)科学とマルチセンソリー(多感覚)科学における発見にもとづいている。

そもそも味覚はそれ自体としては、ごく単純な感覚でしかない。匂い(嗅覚)、食感(触覚)、さらに見た目(視覚)、パリパリ、サクサク、ジュウジュウといった音(聴覚)の協働において、ようやく「味わい」として立体的になる。
おれは脳腫瘍の手術後、約一年半、ほぼ嗅覚を失っていたのだが、嗅覚を失うと、料理の味はほぼ分からなくなるんだよね。我々が「味」と言っている感覚は、かなりの部分、匂いなんです。ちなみに、この時期、口腔内での味わいが減滅した分、食事時の「内臓感覚」は、逆に鋭敏になって、それは今も残っている。よかった点なんだけどね。

匂いだけじゃない。同じ食べ物でも、どんな器に盛り付けられているか、それをどんな空間で、どんな状況で、どんな予備知識をもって食べるかで、その「味わいの体験」はまったく変わってくる。
例えば、ポテトチップスは、サクサクパリパリとした食感(触覚)が、「おいしさ」の核にある食べ物だが、ポテトチップスの袋がパリパリと音を立てるような素材のものである方が、よりそのサクサクパリパリ感が高まるのだという。
盛り付ける器にしても、例えば、四角い皿よりも丸い皿に盛り付けられたものを食べる方が甘く感じるのだそうだ。
スプーンも味に影響する。銀なのか木なのかって素材はもちろん、持った時の重さが軽すぎると、「味の調和感」を損ねるらしいんですね。もう、器の選択、カトラリーデザインによって、味わいの体験が変わってしまうということです。
パッケージ、器、カトラリーといった食にまつわるモノのデザインは、単に機能性を備えていればよいというものではなく、「味わいの体験」それ自体をアフォードする「調味料」のひとつであり、例えば、器が変われば味自体が変わる。魯山人が、料理を探求する中で陶工に行き着いたのは必然だったてことね。

器が料理をアフォードするように、空間や状況は食行為そのものをアフォードする。飲食店の場合は、その内装、広さ、ざわめき、音楽、会食であれば誰と食べているのかといった変数が、全て「味の体験」に影響する。料理が「総合芸術」というゆえんです。
いや、高級レストランの体験だけじゃないよ。例えば、肉屋の店頭で揚げたてのコロッケを買う。藁半紙のような安っぽい、油を吸収してテカテカするような袋に入れて渡される。それを歩きながら食う。同じコロッケを、レストランでナイフとフォークで食べても、それは別物になってしまう。そういうことなんです。
だから、家庭料理ってのは、魯山人がいうように、やっぱり特別なんですよ。だって、そこには、愛があるからね。用の美ってやつもある。

辻義一が魯山人について書いた追憶文で、盛りつけについて書かれた一文があってさ。関西で使う「ざんぐり」という言葉が紹介されてるんだけど、これが面白い。ちょっと、引いておこうか。

「あの人は、ざんぐりしたおかたやなぁ」と、言われるのは最高のほめ言葉だと思います。肩ひじを張らない、ギラギラしてなく、自然体で人間味のある人のことを言います。(…)ざんぐり盛りつけるとは、さりげなく、それとなく美しく、内面をもうかがわせて、てらいのない自然体ということになりましょうか。この方がおいしそうに盛りつけられます。

魯山人の料理は、さっき書いたように「素材そのものを食べる」その塩梅を精髄としたものなんですね。
魚にしても細胞の「〆て状態は死んでいるが細胞は生きている生け魚」の状態をいかに食膳に乗せればいいか。
野菜も土を離れても生きている、生きものだけがもっている素材の甘さをいかに生かせばいいか。
一流の料亭では、調味に凝ることではなく、素材を活かすための手間を惜しまず、言わば、素材固有の「命の甘さ」が提供されるってことです。器はその固有の命をアフォードする文化装置であり、料理と器の接点=盛りつけは、「ざんぐり」と遊びを保つってことですね。深い。深い話になった。

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