雑然日記2020.07.21

「音楽を快いと思う人間の潜在意識の最下層に届いた音楽こそがPOPSであり、POPSの根本とはリズムであることが分かってきた」ーー70年代、いわゆる「トロピカル3部作」と呼ばれる摩訶不思議な音楽を作っていた頃の細野晴臣が語った言葉だ。

午前中から昼過ぎにかけて、長谷川博一『泰安洋行 細野晴臣が76年に残した名盤の深層を探る』(ミュージック・マガジン)に没頭して過ごす。とても幸福な時間。『泰安洋行』のような名盤は、噛めば噛むほど味が出る。大滝詠一『ロンバケ』なんかもそうだけど、何百回、或いは千数百回と聴きかえして、まだ汲み尽くせない。こうした名盤は、それについてもっと様々に語られていい。その都度、そのマジカルな魅力が更新されていく。

この3部作の多くの楽曲でドラムを叩いていた林立夫へのインタビューから抜粋する。
「サウンドの流れというのは表面的な捉え方で、ずっと底辺に流れているものは分かりやすく言えばルンバなんですよ。沖縄にはルンバひないんだけど、シャッフルに近いビートがあって3連系ですよね。その3連系は間違いなくニューオリンズに入ってるわけでね。本の背書きみたいにタイトルは“ニューオリンズ、ラテン、沖縄”みたいに書いてあったとしても、基本的なアクセントとかグルーヴは変わってなくて、基本はルンバです。ポップスの基本は全部ルンバですよ。ルンバのリズムを思い出しながら30〜40年代のポップスを聞いていくと全部はまりますから。そのリズムを2・3で取るか、3・2で取るか、取り方の違いがあるだけでね。」

ポップスの基本は3連系のリズムということ。多様なリズム音楽をすべて3連系として捉える視点の延長線に、その筋では有名な「1拍子のリズム」や「おっちゃんのリズム」が誕生する。

「1拍子のリズム」は、『泰安洋行』所収の名曲<ルーチュー・ガンボ>のリズムで、お経の木魚のようなアクセントなくキープされるリズムのことをいう。
「木魚のビートはイチ・イチ・イチで裏に行ったりしない。逆にそこに2拍子でも3拍子でも入れることができる。1拍子のビートとビートの間を8分っぽく割るか、3連っぽく割るかはそこに流れるメロディや雰囲気で変わっていきます。イチ・イチ・イチの中で、自由に行けますよね。」
林は、「ずっと1拍子でリズムをキープする。だから終わった後は曲調の割にはヘロヘロです」と語る。現在の細野バンドでドラムを叩いている元サケロックの伊藤大地も、その林の言葉を受けて、「確かにヘロヘロです」と言うー「リズムを刻む時って、例えば4小節ごとに自分の中に風景を作り、それを何度も繰り返す感じなんです。まるで同じ車窓の景色が流れるというか。でも1拍子の場合は景色が流れない。他のリズムの曲との違いは……自分が無になるという言葉が一番しっくり来るかな。駅から駅までの車窓があるとしたら、それがないというか。普通のドラミングが一駅分の車窓をみんなに提示する役割とするならば、真反対で車窓を提示しないという演奏になります。」
たしかに、<ルーチュー・ガンボ>というのは、曲が始まった瞬間、何か、無限のループのなかに連れ去られてしまうような感覚のする不思議な楽曲だ。単に複雑というのでもない。どこを頭にしてリズムを取るかで変幻するポリリズムというのではなく、無限ループのなかに綾のように異なるリズムが孕まれている、というふうに聞こえる。

もう一つの注目曲<ポンポン蒸気>。ここでは林が名付けたという「おっちゃんのリズム」が聞きとれる。
スウィング全盛の時がロックに変わる頃、ドラムはシャッフルからジャストの8ビートに流行が変わっていった。だが、過渡期において、ベース奏者はスウィングを弾き続け、だから、両者のリズムはぴったりと重ならず、どこかずれる。そのずれを“味”と捉えて、敢えてその味を追求していく。
これが「おっちゃんのリズム」と名付けられた、言わば「意識的なダサさ」、つまりは「ヘタウマの味わい」である。
「スマートさはなくて、うっかりしたら白い長袖のメリヤスのシャツ着て、手拭い巻いて出てくる感じ。“でもあのおっちゃん、ファンキーだよね、味あるねえ!”という人いるじゃないですか。そういうおっちゃんの歩く姿をイメージなんかして。もっと言えば“無粋の粋”、そんなことを考えてましたね。なんかドラムのアクセントを考えてるうちに、そんな映像が浮かんできたんですよ。(…)おっちゃんにするには、余計なことをしないこと。オカズで入れるフレーズによっては急にシカゴとかニューヨークに行っちゃうことがあるでしょ。そこに行っちゃダメ。だからやらないことを先に決めるんです。言わば断捨離です。」

じつに、面白い。この「一拍子のリズム」「おっちゃんのリズム」と関連して、伊藤大地が、細野さんはドラムのリズムとベースのリズムを別々に考えていて、複数のリズムを重ねていくように音楽を作る、と指摘しているー「複数のリズムが重なって、そこに可愛らしさや独特の雰囲気が生まれる場合が多い。凄く勉強になりますね」。
細野晴臣の音楽の、本当に独特なマジカルな魅力は、いわゆる民族的なルーツに直結するのではない出処不明な奇妙なポリリズムに、その理由の一端があるように感じる。

夕方、『阿波の遊行 檜瑛司民俗芸能写真集』をペラペラ。
日本舞踏・蔦元流の継承者であり、四国徳島の民俗芸能研究家、檜瑛司(1923〜1996)による写真集だ。
付属のCDがやばい。檜瑛司の採集した民謡を、二枚組CDに編纂している久保田麻琴は、その推薦文として、「テクスチャー、リズム、ニュアンス、旋律、倍音の嵐だ。この深い民俗性が巨大に育ち、阿波踊りに流れ込んだのだろう」と書いている。
この付録CDはアカペラなのだが、声の抑揚、こぶしに含まれたリズム、ニュアンスは、じっさい無限に微分できるんじゃないかという奥行きをたたえている。昔、初めてブルガリア民謡の合唱を聞いたときにも感じたことだが、民謡のもつ、喜怒哀楽の感情に媚びることのない、よりラディカルな情動の源泉に誘う力の凄まじさ。
考えてみれば、細野さんなんかがよく言う「POPSのルーツへ」という指向性もまた、よりラディカルなもの、より斬新なもの、我々の生を更新する力を持つよりマジカルなものへの指向なのではないか。

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