「終わりの町で鬼と踊れ」5話
ニワトリの恩
地響きが聞こえた。石炭の焼ける臭いが漂ってくる。ヤバイ。
「隠れろ」
黒煙が流れてきて、俺たちは慌てて床に伏せた。
コーヒーのカップが床に転がる。
プラスチックの床がガタガタと音を立てて、池の上でボートはかしぎ、スワンの首が波に大きく左右に揺れる。ざぶざぶと波をたてる。
ひやりとしたが、バイクの爆音にかき消された。
音が近づいてきて、公園の近くに止まった。車は侵入できない。
俺はおにぎりを口に押し込み、水筒をリュックに押し込んで、ボートの入口から外をうかがい見る。
紗奈は眼鏡をかけて、頭をかばうようにフードをかぶった。
オレンジ色に塗られたランニングコースを、ふらふらと走っていく人物があった。
車は侵入できないが、黒煙をあげて進む大型バイクがそれを追いかけていく。
二人ずつまたがったのが三台、でこぼこの地面にてこずりながら走っていく。
ぷかぷかと池に浮かぶスワンボートは妙だろうが、奴らは気にも留めなかった。観月橋と島のおかげで、よく見えなかったかもしれない。
「亨悟」
あいつ、隠れるって言ってたのに。
見つかる上に追い回されるなんて、何やってるんだ、鈍くさい。
バイクは亨悟に追いついて、取り囲んでグルグルと回り出した。
何か大声で言い合っている。
「俺は逃げたんじゃないって!」
亨悟の声がひときわ大きくあがる。うるせえ、と誰かが怒鳴った。
「逃亡兵は死刑って決まってんだよ!」
「だから、違うって! 俺は、和基さんに言われて……!」
バイクの奴のひとりが、亨悟の背中を蹴飛ばした。地面に転がった亨悟を見て、奴らの笑い声が爆音の上から響き渡る。
亨悟を取り囲む輪が縮まる。
――あーもう、クソ。亨悟の奴……!
何を言いかけたのか、思考に引っかかる。
だがそれを振り払って、俺はヒップバッグから拳銃を取り出した。
オートマチックの安全装置を外して、伏せたまま両手を伸ばす。ボートの縁から、バイクに狙いを定める。
当たらなくていい。
銃声が水面に響いて、バイク近くのアスファルトに着弾した。
バイクに乗っていた奴らが一斉にこっちを見る。
同時、空を切る音がして、いくつもボウガンの矢が飛来した。ボートが揺れ、外れた矢が水面に落ちて、水面にたくさんの波紋を立てた。
ボウガンは装填に少しばかり間が開く。俺は矢がやんだわずかの隙、ボートに張り付いて奴らをうかがった。
ぐるりとハンドルを回して、こちらに向かってくる。
亨悟がちらりとこちらを見た。あいつは俺のお気に入りのスワンボートを知っている。
だがすぐに顔を戻して、ランニングコースをよたよたと走っていく。怪我をしているのか。
俺たちが入ってきたのとは別の出口に向かっていた。市立美術館の方にある出口。
「あいつ……!」
俺は慌てて椅子に戻り、ボートを漕いだ。
紗奈は俺を手伝う気配もなく、後ろの席に移って亨悟を見て言った。
「あいつ、どこに行ってる」
「けやき通りに抜ける気だ」
「まずいのか?」
俺はそれには答えなかった。
言うまでもないからだったし、説明が面倒だったし、それどころでもない。
紗奈は抑えた声で言った。
「あいつにはニワトリの恩がある」
「……やっぱりお前か。食料やっただろ」
「食う気にならなくて」
味付きの缶詰と焼きたての目玉焼きが嫌で、生きたニワトリを持って行く意味が分からない。肉が食いたかったのか。
紗奈は突然立ち上がると、パドルを持って窓から体を出した。ぐらぐらと揺れる。
「おい、何してる!」
言ってる間に、白鳥の背中によじ登った。何やってる、あんなところにいたら狙い撃ちにされる。
案の定、ボウガンの矢が飛んできた。俺がボートを寄せようと思っていた岸に、バイクの奴らが向かってくる。
やばいな、と思った。
同時に、ずん、とボートが沈んだ。次の瞬間、ボートから重さが消えたのが分かった。
陸地まで、俺の身長なんかよりも距離がある。
それなのに紗奈は、スワンボートの屋根から跳躍し、ちょうどバイクでやってきた奴の顔面に膝を喰らわせた。
先頭の運転手がふっとんで、後ろに乗っていた奴はバイクごと転んで下敷きになった。
すぐ後ろに来ていた二台目は、一台目に引っかかって、後輪を跳ね上げ、いつか見たみたいに回転しながら弾き飛ばされた。
そして地面に着地した紗奈は、両手で振り回したパドルで、なんとかハンドルを切った三台目の運転手の頭をぶちのめした。
後ろに乗っていた奴は、バイクごと転んだ。
なんて奴だ。なんて身体能力だ。
しかも一昨日、撃たれたはずだ。怪我をしているとはとても思えない。
――なんてことだ。
こんなところにおいていくなよ、俺を。みっともない。
俺は一人で懸命にスワンボートを漕いで、船着き場にたどりつく。
遅ればせながら俺がボートの入口をくぐって地面に降りたとき、パドルを振り切った紗奈の脇に、ボウガンの矢が突き刺さった。
三台目の後部に座っていた奴だ。至近距離からの勢いに、紗奈は声もなく吹き飛んだ。
「おい!」
俺の声に、ボウガンを撃った奴が振り返った。俺は相手の頭に銃口を向ける。
だが奴の手には、鉈のようなものが握られていた。振り返った勢いのまま、俺の脚を狙っていた。
それに気づいて、引き金を引きながら、思わず後ずさる。
銃弾は空にそれた。不自然な体勢で撃ったせいで、銃の反動で手が跳ねあがる。
上半身がぶれた。奴が鉈を振るかぶる。俺はそのままひっくり返って、刃を避けた。
――やばい。
でこぼこのアスファルトの上に、背中から落ちる。痛みで息が詰まる。
奴がまた鉈を振りかぶる。横に転がって避けるが、切っ先が腕をかすめて、ブルゾンが裂けて血が噴き出た。激痛が走る。
体勢を整える余裕がない。転がったまま、一か八かで銃を構える。男の鉈が、振り下ろされる。
――と思ったと同時、男の頭がぐしゃりをつぶれた。
血が噴き出し、俺に降りかかったと思ったら、吹っ飛んで行った。俺の視界から消える。
どしゃりと、遠くに落ちた。
赤いフードをかぶった紗奈が、逆光で陰になって立っていた。両手でパドルをフルスイングした格好で。
吹き飛ばした奴も、周りの奴も、もう動かない。
低いエンジンの音があたりに響いている。
「生きてるか」
紗奈はパドルを下ろすと、俺を見下ろして言った。その脇腹から、矢が突き出ている。
「お前、正気か」
ついあきれた声が出た。
また背中を打った。痛みをこらえながら起き上がり、近くに転がってる奴らの服で顔をぬぐう。血が気持ち悪い。
そうしてる間に、紗奈は自分の脇腹から、無造作に矢を引き抜いた。血が滴る。
「おい」
なんて乱暴な奴だ。驚いた俺の声に、紗奈は言った。
「動けるなら急げ」
すっかり仏頂面に戻っている。淡々とした様子は、痛みをこらえているのか。
亨悟を追わないといけない。
それは言われなくてもわかってるが、何を言ってるんだこいつは。
「傷を見せろ」
「なんでもない」
ボウガンの矢を捨てて、紗奈は脇腹を押さえた。
「なんでもないわけがないだろうが。手間取らせるな」
俺が踏み出すと、紗奈は腹をかばって後ずさった。
「あたしに構ってる間にあいつを追え」
そうは言うが、あんなもので撃たれて平気なわけがない。
目の前で撃たれやがって、さすがに放っておけない。
いや普段ならよそ者なんて放っておくけど、なんかもう放っておけなかった。
それに、一昨日感じた違和感。
「止血くらいしろ。死ぬ気か」
手を伸ばすと、振り払われた。手首に激痛が走る。
一昨日のことを思い出して、ムカついた。
俺は意地になって足を踏み出した。
急に近寄られて驚いたのか、紗奈の反応が遅れる。また振り払われる前に、強引にストールポンチョを掴んだ。
無理矢理めくると、下に着ていた長袖のシャツが破れて、肌が見えている。
そこに血の跡もある。なのに、何もない。
傷口がない。
俺は瞬間、紗奈を突き飛ばし、後ずさった。
拳銃を握る手に力がこもる。まだ、銃口は下を向いたまま。だが、迷って震える。
「お前……!」
言葉が詰まった。
そんな馬鹿なとか、いや最初から変だったとか、だから他人に構うんじゃなかったとか、一瞬で色々頭の中がめちゃくちゃになった。
「だましやがって!」
――吸血鬼だ。
「だから、放っておけって言ったじゃないか」
紗奈は無表情だった。はじめに会った時のように。
さっき泣いていたのが嘘のようだ。
「こんなことをしてる場合か。あいつを追うんだろう」
「俺を油断させて襲う気だろ」
「今でなくてもとっくに殺せた。見殺しにもできた」
実際、命を救われたのは三度目だった。
紗奈は鼻のあたりまでフードを引っ張って、顔を隠した。日を避けて。
「とにかく、あいつにはニワトリの恩があるから、助ける。それだけだ」
銃を握る手がまだ震える。
こいつ、信用できるのか。今更考える。
信用なんかできるわけがない、吸血鬼だ。
俺を助けたのだって、油断させて情報を聞き出すつもりに違いない。俺の隠れ家だとか島のことを。――だけども。
さっき、おにぎりを食べてコーヒーを飲んでいた。吸血鬼は食料を必要としない。
それ以前に、食べられないはずだ。だけども。
逡巡する。吸血鬼は絶対に許せない。
だが、こんなことしてる場合じゃない。間に合わなくなる。
強く、腹から息を吐きだした。
銃をヒップバッグにしまって、俺はスワンボートに置きっぱなしだったリュックを拾い上げる。
ついでに、地面に転がっている鉈を拾い上げて、ベルトに差し込んだ。
「妙な動きしたら、いつでもフード引きはがして、日の下に引きずり出してやるからな」
転がった改造バイクを力いっぱい引っ張り上げ、俺は迷わず跨った。
ハンドルのアクセルスロットルを回す。エンジンがひときわ大きな音を立てた。
パドルを持った紗奈が、後ろの座席に飛び乗る。
市民美術館側の出口から公園を出ると、目の前に巨大な鳥居がある。鬱蒼とした森に護られた護国神社だ。
その前を曲がって天神方面へ向かう道はV字になっていて、別の道と合流している。
そっちは、地下鉄駅に続く道だ。地下鉄の廃線は吸血鬼どものなわばりだ。油断できなかった。
この先のけやき通りは、けやきの街路樹が植えられた道だ。
その脇にはしゃれた建物が並ぶ。もうすっかりコケや蔓に覆われているが。
「あっちの先には何があるんだ」
爆音に負けないよう、紗奈が後ろから大声で言った。
崩壊から20年、けやきはすくすくと育ち、根は煉瓦の歩道をひっくり返して、巨木から伸びた枝は道の中空を覆っている。
巨木の立ち並ぶ下は影が濃い。そしてけやき通りは天神へ向かって伸びている。地下街ほどではないが、ここも危険な場所だ。
しかも、徐々に空が曇ってきた。雲行きが怪しい。
太陽が隠れたら、こんな場所、地上だからって少しも安全じゃない。
俺は後ろに向けて怒鳴った。
「いちかばちか、あいつらを天神に誘導して吸血鬼どもにぶつける気だ」
天神までたどり着けるか。
それ以前に炭鉱ヤクザにやられる。切り抜けても吸血鬼にやられる。
通りの向こうから、爆音が聞こえてくる。車が三台走っていた。箱乗りした奴らが、何かをはやし立てている。
追いつくのは簡単だった。奴ら、スピードを落として走っていたからだ。
「亨悟!」
やっぱり掴まっていた。
首に縄をつけられて、車の前を走らされている。
先頭の車の助手席の奴が、縄を持っているようだった。亨悟が歩道へ曲がろうとすると、容赦なく銃が足元を撃つ。
弾は地面にめり込むが、亨悟は慌てて道路を進む。
車はいたぶるようにゆっくり走っているが、亨悟が足をもつれさせて転んだら轢かれて終わりだ。奴らが止まるわけがない。
よたよたと走る亨悟を、炭鉱の奴らがはやし立てる。馬鹿笑いが聞こえる。
多勢に無勢すぎる。
奴らのほうが武器が多い。亨悟をかすめ取って逃げるような芸当もできない。どうしたらいい。
考える間に、バイクは奴らの群れに近づいた。
群れの後尾の車で箱乗りしてた奴らが振り返る。気づかれた。
「このまま突っ切れ!」
後ろから紗奈が叫ぶ。
俺はもうやけくそに、バイクのスロットルを回した。
スピードと黒煙を上げてバイクが奴らの群れに突っ込んでいく。紗奈は俺の肩に捕まると、椅子の上に立ち上がった。
俺のリュックから突き出たボウガンの矢を掴んで、力いっぱい投げつける。
弓を使いもしないのに、矢はまっすぐに飛んで行って、箱乗りの男の頭に突き刺さる。
吸血鬼の怪力たるや。
頭を貫かれた男が落っこちる。ハンドルを切ってそれを避ける間に、他のヤクザたちが、俺たちに気づいた。
その間に、バイクは車に追い抜いていた。ついでに紗奈はパドルを振り回し、別の箱乗りの男を叩き落としている。
「なんだてめえらああ!」
怒声が入り乱れた。
俺は銃を取り出して、先頭の車のタイヤを狙った。銃声が鳴り響く。
だが、当たらない。しかも反動でバイクがぐらついた。
慌てて銃を持ったまま、ハンドルを支えた。こんなでかいバイクに二人乗りで、片手運転の上に、何かを狙って撃つなんて、俺には無茶だ。
わかってるが、撃たなきゃならない。
「転んだらどうする、お前はおとなしく運転してろ! スピード落とすな!」
俺の耳元で、紗奈が怒鳴った。
「うるせえ!」
左横から車が迫ってくる。
開いた窓から、運転手が何かわめいている。体当たりする気だ。
紗奈は窓にパドルを突っ込んで、容赦なく男の顔面をぶっ叩いた。
いや叩くなんて生易しいものじゃない、顔面ごと椅子のヘッドレストも貫いていた。即死だ。
紗奈がパドルを引き戻すと、運転手の男の体が倒れて、ハンドルが反対側に回った。車は急カーブして、けやきの木に激突する。
それから間髪入れずに俺の腰の鞘から包丁を抜き、先頭車の助手席の男の顔に投げつけた。
包丁は男の喉を突き刺して、男がひっくり返る。手から縄が零れ落ちた。
「亨悟逃げろ!」
猛スピードで進んでいた俺は、そのまま先頭車と亨悟の間を走り抜けた。
言われるまでもなく、亨悟はけやきの陰に駆けて行く。
後ろからものすごいクラクションの音が鳴り響いた。
思わず振り返る。
俺たちが来た大濠公園からのとは別の道から、V字路に合流してくる奴らがあった。
俺はそっちの道の地下鉄からやってくるかもしれない吸血鬼を警戒していたが、まさか――まさか、さらにヤクザどもがやってくるなんて。
冗談じゃない。蒸気トラクターとセダンが一台、向かってくる。
しかも、セダンに箱乗りの男の一人が、何かを担ぎ出した。デカい筒状のもの。
――――おい、なんだそれは。
俺はヒヤリとして、急ブレーキをかける。タイヤが滑ってバイクが転倒する。
俺も紗奈も地面に投げ出された。
煙を上げて、でかいものが俺たちの横を通り過ぎていく。進行方向で着弾して、爆発した。
間近を走っていた車が一瞬爆風で持ち上がり、大きな音を立てて地面に戻った。
「なんなんだよ!」
俺は転がったまま喚いた。
間近で弾けた爆発のせいで耳が痛い。とにかく身体中が痛い。
幸いバイクの下敷きにはならなかったが。横を車が行き過ぎていった。
「ロケットランチャーとか! 馬鹿じゃねーのか!」
しかも、自分たちも巻き添え食うような距離で!
早く逃げないと。
俺は慌てて起き上がろうとしたが、身体中が痛くて思うように動かない。
「早く立て!」
紗奈がバイクを軽く起こした。
さすが吸血鬼は傷の回復が早い。反対の手で俺の腕を引っ張り上げようとする。
その手が触れる前――俺は思わずその手を叩き落とした。
紗奈が驚いた顔で俺を見る。
「触るな」
地面に両手をついて、何とか立ち上がる。
逃げようと顔をあげると、路地に逃げたはずの亨悟が、後ずさりするように戻ってきていた。そっちにも銃を構えたヤクザたちが先回りしていたようだ。
「待てよ亨悟。逃亡兵は死刑だって言ったよな」
蛇行しながら追い立てるように路地をやってくるバイクに、亨悟は血まみれの手をかざして弁明した。
「だから、俺は逃げたわけじゃなくて、和基さんに言われてここに潜伏してただけで」
残った車が追いついてきて、俺たちの後ろに停まる。二台分のエンジン音と黒煙が俺たちを取り囲む。
逃げないとまずい。殺意まみれの視線と銃口やボウガンの矢の狙いが俺たちを狙っているのは分かっている。
だがそれよりも、痛みと血に昂ぶった感情を、さっきの亨悟の言葉が煽っていた。
「お前、やっぱりそうだったのか」
出た声は、思ったよりも低く怒りにまみれていた。
「やっぱり、裏があったんだな」
島の人間じゃない奴の方が気楽なところがあって、多分それはお互い同じで、それで気があった。
誰も信用しないと思っていたけれど、やっぱりどこかで俺は油断していた。
それにつけ込まれたようで、紗奈のことが重なって、誰も彼もに馬鹿にされたような気がして、むかっ腹が立つ。
「いやそうじゃない、違う」
亨悟は慌てた様子で振り返る。この期に及んでまだ否定するのか。
「今そう言ったじゃねーか!」
「だから、そうじゃなくて」
亨悟はヤクザたちをチラチラと振り返り、俺をうかがい、オドオドと言った。その態度が余計に俺をイラだたせる。
さっきロケットランチャーを撃った奴が乗っていた車が追いついてきて停まった。
エンジン音が増えて、さらに俺たちを取り囲む。こんなことをしている場合じゃないが、俺はどす黒い気持ちのまま吐き出した。
「別にいいんだよ、どうだって。俺は別にお前のことだって信頼なんかしちゃいなかった」
他の土地からやってきた奴には何か理由がある。気が合ったって、それは関係ない。
この町には略奪者だらけで、俺は誰も信頼なんかしちゃいない。
吸血鬼、こいつらヤクザども、親切なふりで騙そうとする偽善者、それから気のいいふりをして近づいてくる嘘つき。
裏切り、なんかじゃない。最初から、別に、仲間でもなんでもない。
「――知ってるよ」
亨悟は唇を歪めて笑った。
その後ろからやってきたバイクが亨悟の頭を掴んだ。亨悟の顔が引きつって真っ青になる。
「逃亡兵は引き回しの上、死刑だ」
バイクに乗っていたスキンヘッドの男が楽しそうにデカい声を出した。ゲラゲラとまわりで笑いが起こる。
「待て」
V字路から合流してきた車から、男が一人降りてきた。一斉にヤクザどもの注目が集まる。
背が高く、革のジャケットを着た男は、仁王立ちで俺と紗奈を見る。
「亨悟は兵隊に向いていない。だから諜報をやるように俺が言ったんだ」
どうやらエラい人らしい。三十半ばに見える男は、あきれた顔で亨悟に言った。
「なんでこんなところをうろうろしているんだ」
「和基さん……」
亨悟は情けない顔でつぶやいた。スキンヘッドの奴が、本当だったのかというガッカリした顔で舌打ちした。
俺と紗奈に興味が移るのに、わずかの時間もかからなかった。
「こいつらはなんなんだ」
和基と呼ばれた男が亨悟に問うた。亨悟が生唾を飲む。すぐそばで紗奈が身構えたのが分かった。ハドルを握る手に力がこもる。
束の間、奇妙な沈黙が落ちる。低く響くエンジン音に囲まれた俺たちに、緊迫した空気が流れる。
その時だった。
「前を見ろ!」
ヤクザたちの誰かが叫んだ。
周りでアイドリングのエンジン音を響かせていた蒸気トラクターのうち一台が、急発進した。
けやきは鬱蒼と伸びて、緑の葉が路の上を覆っている。その向こうで、空は陰って、雲が太陽を隠している。
道の真ん中に、小柄な人影が立っていた。
車はアクセルを踏み込んだようだった。エンジンが爆音を上げ、人影に向けて爆走する。
車が衝突して人影を跳ね上げる、はずだったが。
ドンと心臓にくるような音を立てて車がぶつかり、止まった。
衝撃で運転席と助手席がつぶれ、後部が跳ねあがる。少しして、また大きな音を立てて地面に落ちた。
残った一台に乗った奴が、散弾銃をぶちかました。けれどその時には、人影は消えている。
大きく跳躍して、ボンネットに着地した。上から杭を打たれたような状態になった車は、つんのめる。
人影は素手でフロントガラスを叩き割る。バキバキに亀裂の走ったフロントガラスをはがして後ろに投げ捨て、悲鳴を上げた運転手を引きずり出し、また無造作に投げ捨てた。
再び散弾銃を向けた助手席の男の顔を掴み、顔面を握りつぶす。
悲鳴すらあげられず、血をあふれさせる男に、つまらなそうに言う。明るい声。
「こんなことで死ぬなよ」
――ゾッとした。
首筋から背中にかけて、おぞけが走る。
「血をもらわないといけないんだから」
身動きをとれずにいた俺の心臓が、嫌な音をたてた。
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