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「終わりの町で鬼と踊れ」8話

夕闇の記憶

 杏樹と史仁が去って、あたしたちは狭い部屋に取り残された。外は曇天の上に暗い色のカーテンが閉めきられて、部屋は薄暗い。

 緊張が少しゆるんで、どっと体が重くなった。
 ただでさえ血が足りていないのに、出血しすぎたかもしれない。
 傷を負ってもすぐに治るかわり、体が無理をしているのが感じられるくらい、だるくなっている。パドルを杖かわりにしてなんとか体を支える。

 外からざわざわと声が聞こえて、あたしは窓辺に寄った。
 フードを深くかぶる。曇天とはいえ日光に気をつけながらカーテンをめくると、外からやってくる集団が見えた。
 子供達が出迎えに駆けていくのを見ると、この建物で生活をしている人間か。外で働いていた人達が戻ってきたのかも知れない。

 人は皆、吸血鬼を恐れて、夜は住処に閉じこもる。
 そして明かりを節約するためか、日が暮れる前に仕事を終えて、暗くなると同時に眠る。それはどこでも同じようだった。

 曇天の向こうで、長い日が沈む。暗くどんよりした夕闇。
 夕空を見ると、いつも体が冷えていくような感覚に襲われる。寒さなんてもう感じることはないのに。

 同時に、いつも脳裏によみがえるあの赤い夕日。
 あの日の夕空は、こんな雲に覆われた空とは違って、真っ赤な太陽が沈んでいくのが見えた。あのときのあたしには、それを見ることが出来た。

 海に照り返す真っ赤な夕日、肌を焼く熱、むせかえるくらい息苦しい夏。
 首に触れる冷たい手。――思い出して、あたしは身体中の血が下がるような感覚に襲われた。

 ――紘平こうへい
 怯えて声をあげた。震えて大きな声にならない。
 どうしよう。紘平。

「ああーもう最悪だ」
 
 大きな声にびくりとする。過去から現実に引き戻されて、あたしはカーテンを閉めた。
 
 亨悟は抱えてベッドに座りこんでいる。額を膝に押し当てて、大きなため息をつく。くぐもった声で言った。

「あんた、吸血鬼なんだろ」
 そう言えば、傷口を見られたのは榛真だけで、こいつは何も知らないはずだった。だけどさすがに、さっきの戦闘や、杏樹の言葉で察したんだろう。
 あたしが答えずにいると、亨悟はため息一つ、顔を上げる。

「怪しいと思ったんだよ。……なんで俺のこと助けようとしてくれたんだよ。榛真のつきあいか」
「あんたのニワトリをもらったから」
 亨悟はきょとんとした顔をして、それから、目を見開いた。

「あ――やっぱりお前か!! 俺のニワトリ! 隠れて育てるの大変なのに! 貴重な卵と肉!」
「大きな声を出すな」
「出すだろ! このご時世で人の食料、しかも、家畜を盗むなんて、殺されても文句言えないぞ!」
「だから、命を助けてやっただろ」

 亨悟は憮然として口を閉ざした。
 それからまたため息をついて、手足を投げ出すようにしてベッドにひっくり返った。天井を見上げて「寝床がやわらかい……」と呆けたようにつぶやく。

「あんな無茶苦茶して追っかけてくるなんて、あんたも榛真も、おかしい」
「そうかもな」
「俺を助けるために死ぬなんて馬鹿だろ」

 榛真は死んでない――、一瞬思ったが、亨悟が言いたいのはそれじゃないだろう。
 和基と呼ばれていた大柄な男。吸血鬼の少年に殺された。

「お前だけを助けようとしたわけじゃないんじゃないのか」
 弟分を見捨てられない、と言ってはいたが。もちろん、それも本心だったのだろうが。
「仲間を逃がすためでもあったんだろ。ああでもしないと逃げないだろ、ああいう、お前達みたいな奴らは」

 自分が残って特攻することで、彼らの面目を保った。その勇姿をみせつけて、ひとり立ちはだかることで、仲間をうながした。そういうことじゃないのか。
 亨悟は今度はがばりと起き上がる。同時に「いてててて」と声をあげた。顔をしかめたまま、つぶやく。

「……そうかもしれないけど」
 どこか気の抜けた声をしていた。
「でも俺はもうあの人達とは関係ねーよ。それは和基さんだって分かってたはずだ」
 一緒にするなよ、と亨悟はむくれて言う。

「別に連絡手段もないし。榛真にはじめて会ったとき吸血鬼に襲われてたのも本当だし……みっともないけど。別に榛真を油断させようとかしてたわけじゃないんだ。俺は奴らに情報流したりしてない。奴らが来るのも知らなかった。知ってたら、榛真には教えてた」
「なんでさっき榛真に、ヤクザと仲間じゃないと否定しなかった」
「さっきのあの状況で、『本当にこいつらは嫌なんだ、逃げてきたんだ』なんて言えると思うか? 嬲り殺されるだけだよ」

 それもそうだ。
 逃亡兵は死刑だとしきりに言っていた。人をいたぶる機会を逃さないようにと、虎視眈々と狙っているようだった。
 特に亨悟は餌食になりやすいのだろう。

「ほんと榛真はバカだから、そういうの察しがつかねーんだよ。自分のことで手一杯だから。ほっとけねーんだけど」
 そうだろうな、と。なんとなく思った。
「別に榛真をだましてた訳じゃないんだ。諜報で出されたのは本当だ。だけど、俺の兄貴分の人が、俺がああいう集団が肌にあわないの知ってて、諜報っていう体で逃がしてくれただけでさ」

「さっきの奴か。和基とかいう」
「俺の親父に世話になったとかで、俺のことは特に気にかけてくれてたんだよ。俺なんか、どんくさいだけで役にも立たねーのに。いい人だった」
 言葉は過去のものになって、ぽつりぽつりと落ちていく。

「誰かを襲ったりするの、性分じゃないんだよ。ああやって集団で外に出て町に着くたびに、誰もいないでくれっていっつも思ってた。炭鉱掘りも、暗闇で吸血鬼を警戒しなら、神経すり減らして息苦しかった。何人も死んでいったし、外で略奪しては何人も死んでいった。俺の母親も父親もそうだ。そういうのもうウンザリなんだよ」
 生きてきた場所を捨てた。
 それはあたしも同じだった。同じだが、亨悟とは違う。

 あたしは、捨てたくて捨てたわけじゃなかった。いられなくなっただけだ。生まれ育った場所に戻りたくても、戻れない。
 いられるのに捨ててくるなんて、贅沢だなと思う。――だが、捨てたくなる気持ちも、分からなくはない。

 へら、と笑って亨悟はあたしを見る。あの集団に混じって生きていくのは、確かに亨悟には苦しかったのかも知れない。
 それに大人達は怯えや義務意識でたしたちを抑えつけて、あたしたちは昔の便利さも、これからの希望も何も知らないまま、窮屈に生きて死んでいく。

 ――だからあたしが、あたしたちが、近くの町へ時々出かけていって、外を見たりしていたのは、仕方ないと思う。
 素直に従っていれば良かったのかも知れないけれど、もう今となっては、考えても仕方がない。

 榛真みたいに危ないところにツッコんでいって、自転車であちこち走り回って、自由に動き回るのがうらやましくもある。

「吸血鬼は食べるために、生きるために殺すけど、あの人たちはそうじゃない。嬲るために殺すし、奪うために殺す」
 あいつ――榛真を付け狙っていた奴は、そういう風でもなかったが。

 結局、吸血鬼だって、人間だって、同じように、やるやつはやるし、そうでないやつは違うと言うだけだ。
 だけど、亨悟の言うことも分かる。捕食するのと、略奪するのとは違う。
 でも、まるで肯定するような言葉を人間に言われるのは、なんだか奇妙だった。

「お前はあたしが恐くないのか。人間を襲って、食料にしてるのに」
「こえーよ、吸血鬼なんて嫌いだよ。身体能力おかしいし、いつ殺されるか分からないし。でも吸血鬼は違うだろ、ヤクザ達とは。生きるために生き物を食らうなんて、今更だろ」
 ニワトリ、と亨悟はつぶやく。
 それから、あーあー、と大きな声を上げた。

「はじめてのダチだったのに」
 バカ榛真め、と亨悟はブツブツぐすぐす言っている。

「奴らに小突き回されて、こき使われるのは楽しくないし、略奪も楽しくない。俺、今の生活が好きだよ。自由だし、自分の力で自分のことだけ気にしてればいいのが気楽でさ。明日の飯がどうなるか分からなくたって、ここにいるほうが楽しかった」
「きっとあいつは分かってる。お前のこと信頼してないとか言いながら、あんな無茶苦茶して助けようとした奴だ」
「分かってるよ。でも榛真は馬鹿だから、認めないんだよ」
「拗ねてるんだろう。会ったばかりのあたしにコーヒーとおにぎりをくれたようなお人好しだ」

 あたしは、吸血鬼に襲われていた人間をただ助けただけだった。
 それにこだわって、恩を感じて、食料と薬をわけてくれるなんて。誰だって自分のことに精一杯のこんな状況で。
 かといって素直にありがとうを言うわけではない。律儀で不器用な奴だ。

「あんたとそのうちまた会った時には、何にもない顔してるよ」
 気まずくて、かえって話題に出来ずに、傷ついてもいないし傷つけてもいないような顔をしているだろう。
 そのかわり、必死に助けてくれるのかも知れないし、何か食べ物をくれるのかもしれない。――少なくとも、亨悟にはそうだろう。

 あたしを見た憎しみの目を思い出す。あたしもずっとあんな目をしていたんだろう。
 なんだか放っておけなかった。

「コーヒー俺にくれるって言ってたのに」
 亨悟は不満でいっぱいの声をあげた。
「おにぎり俺だってもらったことないのに」
 なんだよ、女は別かよ、と不満たらたらぶつくさ言っている。

 しばらくすると、廊下からざわざわと声が聞こえだした。
 コンコン、と誰かがドアをノックする。びくりと震えて亨悟はベッドの上で縮こまった。

「おい」
 ドアを指さしてあたしをうながした。なんて横着な奴だ。

 あたしは大仰にため息をついて、窓辺を離れてドアに寄る。扉の向こうに耳をすませた。
 ちいさな息づかいがいくつか。ひそひそと何か話している。敵意のある雰囲気ではない。

 ドアを開けると、三人分の視線があたしに集まった。腰よりも低い位置で。
 子供達はにっこり笑って、声をそろえる。

「ご飯だよ!」

  子供達に手を引かれていく。
 一度建物を出て、別棟になったコンビニエンスストア跡の二階。食べ物の匂いがただよってくる。子供達はあたしたちをレストラン跡まで連れてくると、わっと散っていった。
 どうやらあたしたちが最後なのか、後ろからくる人間はいない。

 なんとなく入り口で立ち尽くす。
 亨悟はあたしの後ろに隠れながら中をうかがっているが、腹の音がグルグルと響いている。

 ここも窓はしっかりとカーテンで覆われていた。小さな明かりが壁際やテーブルの上に置かれて、ほの明かりが広い室内に満ちている。
 たくさんのテーブルと椅子には、すでに数人が座っていた。

 奥には調理場があるのか、お盆を持った人達が並んでいて、順番に食料の乗った皿が置かれていく。
 ここに集まっているのが全部なら、人間だけで、二人から四,五人のグループが十くらいか。
 大きめの集落くらいの人間は集まっているようだった。あたしの住んでいたところよりも多いかもしれない。

 何よりも、広い場所で一緒になって食事をとる人達を見て、あたしも亨悟も驚いた。
 誰も怯えたり警戒したりせず、ゆっくり座って食事をとることが当たり前になっているのか。

 ざわざわとしゃべっている人々を遠巻きに、何人かが壁や分厚いカーテンの前に立っている。
 たぶん吸血鬼だろう。人々を見張っているのか。

「はいはーい」
 突然近くで明るい声があがった。杏樹だ。今はツバの大きな帽子を脱いでいる。
 すぐそばで、影のように史仁が立っていた。あたしたちを警戒して睨みつけてくるが、あたしは無視した。

「新しいお友達を紹介しまーす」
 杏樹があたしの腕を引っ張って、人々の前に連れて行く。
 亨悟はおっかなびっくりついてくる。杏樹はそれを見てにんまりした。あたしの手を離して、ふわふわのスカートを踊らせながら、亨悟の前に立つ。

「こっちは、亨悟君。怪我してるから優しくしてあげて下さい。そっちは……なんだっけ」
「紗奈」
「紗奈ちゃん。仲良くしてあげて下さーい」
 はーい、と子供達が声を上げる。

「亨悟くんにはご飯を分けてあげてくださいねー」
 分かっているのかいないのか、また子供達が、はーい、と手をあげる。
 だが、大人はだいたい察したようだった。顔を見合わせるが、何も言わない。あたしの持っているパドル――血のついた、場違いに大きな得物をチラチラとみている。

「ほら、座んなさいよ」
 杏樹が亨悟の腕をひっ掴んだ。びっくりして亨悟が腕を引っこめようとするが、びくともしない。
 吸血鬼に腕を掴まれて、死にそうな顔になりながら、亨悟は連れ去られていった。仕方がないのであたしもついていく。

 杏樹は、人々から少し離れて、空いていた場所に亨悟を力ずくで座らせる。
 するとすぐに、前にトレイが置かれた。亨悟がガバッと顔をあげて見ると、トレイを持ってきた女の人は、びっくりした顔で笑って「どうぞ」と言う。

 トレイにはお椀がひとつ乗っている。
 そこに茄子の煮付けのようなものと、おかゆのようなものが入っていた。湯気がたっていて、できたての優しく暖かな匂いがする。
 亨悟はぽかんとして言う。

「缶詰じゃない……」
 杏樹は亨悟の向かいに座って頬杖をつき、にんまりと湯気の向こうから笑う。
「いいでしょう。あんたもがんばって家畜育てたり、野菜を育てたりしてるみたいだけど。こそこそしないでいい分、ここのは日をたっぷり浴びているし、手をかけられているし、おいしいわよお」
「……うるせえ」

 亨悟はガツガツと食べながら悪態をつき、頬張りながら「いただきます」と言った。

「あんたはどうするの?」
 杏樹は背もたれにふんぞり返って、亨悟の後ろに立ったままのあたしに肩をすくめる。
「他の人をこわがらせるといけないから、あたしたちは別のところで後で食事をするんだけど」

 食事。わざと歪曲に言ったんだろうが、かえってそれがあたしにとっては嫌な響きだった。
 人間の血。

 ――俺の血を飲め。
 そう言った幼なじみの声がよみがえる。
 あの、赤い命の源。

「いらない」
 亨悟のニワトリをもらったばかりだ。だから、もう少しもつはず――だけど、思った以上に体が重い。
 榛真に再会したときから、だいぶ息苦しさは感じていたが、ひどくなりつつあるのは分かっていた。

「あ、そう。まあ、ほしくなったら言えばいいわ」
 杏樹はあたしの空腹も、体のだるさも、こだわりも見透かしたような顔で、あっさりと言った。

 食事が終わると人々は後片付けをしながら少しだけ雑談をしてから、各々の部屋に帰っていく。

 病院の中では、入院の大部屋や小部屋で、家族や一人のものなどに分かれて生活をしているようだった。
 人間と吸血鬼と階をわけたりということもない。人間をひとまとめにして、交代で見張るような手間を省いているのかも知れない。

 人々の様子を遠巻きに見ていた亨悟は、皆が引き上げ始めると、慌てて席を立った。
 取り残されるのが嫌なんだろう。またあたしを盾にして、レストランを出た。

「満腹って最高だな」
 夕闇の中、となりの建物に向かって歩きながら、ほくほくとした声を出した。怯えるのか喜ぶのか、忙しい奴だ。あたしは後ろに向けて言う。

「どうするんだ、お前は」
「何が」
「逃げたいのか、どうなんだ」
 隣の建物から移動してくる間に、あたしたちを見張っていそうな者はいなかった。寝床を与えて、食料を与えて、試しているのか。

「それ今ここで、デカい声で言う?」
 部屋を割り当てられた建物に戻る。ここもほのかな明かりがあちらこちらに灯されている。

「外にいる理由なんてないんじゃないのか? ここは安全だし食料もあるし寝るところもある」
「朝早く起きて、吸血鬼とか史仁みたいな奴に見張られながら働いて、日が暮れる前に帰ってきて、暗くなったら眠る。たまに吸血鬼に血を抜かれて。それもまあ、いいのかもしれないけど。でも俺は嫌なんだよ」
「命懸けで逃げるほどの理由なのか?」

 亨悟は黙り込んだ。
 最初に割り当てられた部屋に戻ってくると、真っ暗な室内に足を踏み入れて、立ち止まる。それから、振り返った。
 へらりと笑う。

「まあ、いまはしんどいからいいや。うまいもの食って怪我が治ってからにする。こいつらがどういう人数で固まって、どういうローテションで動いてるのか、チェックしないと逃げるのも逃げられないし」
 明るいテンションで言って、じゃあな、とひらひら手を振ってドアを閉めた。

 榛真みたいなわかりやすい奴と比べて、亨悟は本心を隠そうとする。
 迷っているのか、誤魔化しているのか、本心を知られることが恐いのか――そういう、わかりにくいところが、榛真が亨悟を信頼しきれない理由なのかも知れない。

 あたしは隣の部屋のドアを開ける。亨悟の部屋とまったく同じ作りの、質素な場所だった。分厚いカーテンにさえぎられて、部屋の中は暗い。

 与えられた部屋に一人になると、まわりのざわめきから切り離されて、急激に疲れが襲ってきた。パドルを壁にたてかけて、ベッドに横たわる。

 徐々に話し声が途絶えて、あたりが静かになる。日は落ち、明かりも消えて、建物の中も外も真っ暗になった。

 体が重い。頭も重い。息苦しい。
 ただただ、空腹で胃が締め付けられるようだ。

 山間の住宅地から少し離れた、さらに山の方にあたしたちの家はあった。
 先を登ればダムがあるような、川の近くの集落だった。

 山菜をとったり、畑を耕したり、時々住宅街におりて物資をとってきたり。
 山だけど海も近くて、幼なじみの親戚がもともと漁師だったから、時々海に出ては魚を獲ったりして暮らしていた。

 少し遠出すれば大きな町もある。
 あたしと幼なじみの紘平は時々、大きな町に出かけるのが楽しみだった。

 暑いさなかのその日も、あたしたちは、朝早くから家を抜け出した。
 夏の暑い日も、冬の寒い日も、朝早く出かけないと動き回れない。
 真夏の日中は暑すぎてとても外をうろついていられないし、冬はすぐに日が暮れてしまう。

 町は混乱の後が残ったまま、いつもひっそりと静かだ。
 人はほとんどいなくなって、どこかに隠れているか、食料を手に入れやすい山や川沿いに移り住んでいる。

 紘平こうへいとなるべく離れないよう、同じブロックの一緒の家を、端から順番に見て回る。
 この日、何件か目に侵入したのは、二階建てのこじんまりした一軒家だった。

 気がつくと空の端が藍色に染まり始めている。夕日が西の山に落ちていく。
本当ならもっと早く引き上げて帰らなくては行けなかったのに、探索に夢中になっていて気づかなかった。
 今日はこの家で最後にして、隠れる場所を探さないといけない。明日帰ったら親にこっぴどく怒られると思ったが、仕方ない。 

 家の外に子供のものらしき乗り物やおもちゃは転がっていないから、大人だけが住んでいたのか。集落の子供達に持って帰れるものは無さそうだ。
 汗を拭いながら小さな門戸を開けた。
 のびきった雑草に足をとられないよう気をつけながら、身をかがめて進む。

 大きな木の扉のドアノブをそっと回すが、ガチリと抵抗があって、開けられない。鍵がかかっていた。
 あたしたちは警戒しながら、持参した工具で壊して侵入した。
 大きな音をたてると、吸血鬼や良くない人間に聞かれて危険だから、なるべく息を潜めて。

 家の中は蒸せるような空気が満ちていた。だけど日陰は少しだけ、ほっとする。
 暗い玄関を靴のままあがって中に侵入した。

 すぐそばの台所に入って、巨大な冷蔵庫をおっかなびっくり開けると、大抵中身は腐っていて、ひどい臭気が広がる。
 おえっとえずきながら鼻を詰まんで、慌ててドアを閉めて、くすくすと笑い合う。あたしはそのまま、家の奥へと進んだ。

 閉めきられた部屋のドアノブをゆっくり回して、少しだけ開ける。
 中を覗いてみるけど、遮光カーテンが閉め切られて、まだ日は沈みきっていないのに真っ暗だ。

 さらにドアを開くと、キイ、と蝶番ちょうつがいがきしんだ音をたてた。ドキリと心臓が跳ね上がる。
 身を低くしたまま、あたしはそっと部屋の中に入った。

 寝室だった。
 大きなベッドが壁沿いの真ん中に置かれている。反対の壁一面にあるクローゼットはぴったりと閉まっていた。

 大きな収納だ。何か使えるものがあるかもしれない。
 少なくとも、着替えは持って帰れる。靴とか、冬向きのコートとか。暑くてあんまり持ち歩きたくないけれど。

 暖房器具や扇風機が出てきても動かないけど、針金を外したり、プラスチックの羽を何かに使えるかもしれない。
 思って、大きなクローゼットの前にそっと近寄る。
 中に何か隠れているかも知れないから、取っ手を掴んで、深呼吸して一拍ずらしてから、ぐっと腕に力を入れた。
 折れ戸をスライドさせた――と思った。

 首を掴まれた。それから腕を。
 何が起きたかわからなかった。パニックになりながら自由な方の手を振り回すと、指に、爪に、手応えがあった。何かをひっかいて、爪の中に詰まる感じ。
 やわらかい。生暖かい。生き物だ。毛は触れなかった。多分、人間の皮膚。

 後ろからだ。しまった、クローゼットに気を取られて、ベッドの影を確認しなかった。
 ――紘平。
 呼ばないと。思った時には、視界が反転していた。

 ガンと後頭部に重い衝撃がはしる。
 頭の中をぐわんぐわんと揺さぶられるようだった。目の前が揺れて、暗闇がさらに濃くなる。

 突然、視界いっぱいに男の顔があった。
 青白い顔が見下ろしてくる。
 浅い呼吸を繰り返しながらあたしの肩を押さえる手が容赦なく、握りつぶされそうだった。

 すごく悲しそうな表情かおをしていた。
 なんでこんな、人に暴力をふるって、そんな表情するなんて、冗談じゃない。つらそうにしたって、何もかわいそうじゃない。

 思った時、男が口を開けた。鋭い犬歯――牙が見える。ゾッとした。

 恐怖で悲鳴も出なかった。
 吸血鬼だ。思うと同時だった。

 首に激痛がはしる。何かが皮膚を突き破って、侵入してくる。
 ぬるりとしたものが肌を伝う。身体中が震えた。

「あ、あ、あ、あ、あ・・・・・・」
 痛みに声が漏れた。でも、言葉にならなかった。

 噛まれた。
 血が溢れる。痛みと恐怖で、もう訳が分からない。こわい。どうなるの。どうするの。

 ――噛まれた。
 痛い。涙がこぼれる。ぬるいものが頬を伝う。
 肌を塗らすものが、血なのか涙なのかわからない。
 吸血鬼に噛まれた。

 ガツン、と鈍い音がして、吸血鬼の牙があたしの首から離れる。
 また、ガツンと大きな音。

 紘平が手にフライパンを持って立っていた。
 吸血鬼が振り返る、その額めがけて、縦に振り下ろす。血しぶきが散った。

 吸血鬼は何かを叫びながら紘平に飛びかかった。
 あんな怪力に、かなわない。逃げて。思う心と、助けて、という叫びが頭の中に渦巻いている。
 あたしは血の溢れる首を抑えながら転がっていた。

 紘平は繰り出される手を避けながら、重いフライパンを放り捨てる。
 腰にさしていた鉈を振りあげ、吸血鬼の目を狙って突き出した。
 ぐしゃりと音がした。それから何度も。

 吸血鬼はすぐに傷が治る。
 殺すには、日光にさらすか、頭をつぶすか、再生できないほどにめちゃくちゃに打ちのめすか。

 ――あの吸血鬼は、血をあまり飲んでいなかったのかも知れない。

 暗闇の中、力を十分に発揮できたはずなのに、紘平に打ちのめされて動かなくなった。

「紗奈!」
 吸血鬼が起き上がってこないのを確認して、紘平が駆け寄ってくる。
 床に転がったままのあたしの横の、血だまりのそばに膝をついた。

 肩で息をして、汗をながす見慣れた顔が、あたしを見ている。その目はひどい悲しみでいっぱいだった。
 涙が止まらない。

「いたい」
 ――噛まれた。
 吸血鬼に噛まれた者は死ぬ。

「死にたくない」
 震えが止まらない。
「紗奈、落ち着け。大丈夫だ」

 大丈夫じゃないのは、ふたりともわかっていた。

 息が苦しい。
 泣いてるからなのかもしれない、もう吸血鬼の菌がまわってきているからかもしれない。
 どっちでも関係ない。うまく息ができなくて、それが余計にパニックをあおる。

「紘平」
 声が揺れる。

 こわいこわいと繰り返し震えながら、あたしは暗闇に飲まれた。

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