「終わりの町で鬼と踊れ」11話
生への執着と欲望
俺はひたすらソーラー自転車を漕ぐ。
風が強くて思うように進めない。空は白んできたが、曇天のせいで太陽光はあてにできない。
紗奈はパドルを肩に担いで、走ってついてくる。
「いつまでついてくる気だ」
「そいつを安全なところに避難させるまでだ」
福大病院でのあいつの言葉が引っかかって、すぐにでも島に向かいたい。でも、紗奈も亨悟もつれていけない。
どこかで亨悟の応急処置をするにしても、ゆっくり休ませてやらないといけない。だが、安全な場所なんてない。
――どうせ居場所がばれてるなら、まっすぐに島へ行って、手当てをすべきだ。
今度は吸血鬼の警告をして、もっともっと警備を厳重にしないといけない。
でも「能古島」と口にしたあいつの言葉は、ただのひっかけかもしれない。つけられてる可能性がある。
どうすりゃいいんだ。
とにかく、俺は住宅街の方へ進んだ。
豪華なマンション群を通り抜けると、今度は一人暮らし向けのアパートの多いあたりにでる。
もっともっと遠くに逃げたほうがいいんだろうが、島から離れすぎるのも不安だった。
あまり進みすぎると、団地に出る。日影が多すぎて、今は余計に行きたくない場所だ。
俺は手近なマンションの駐輪場に、ソーラー自転車を紛れ込ませた。
リュックを腹に回して持ち、亨悟を背負った。
「あたしが背負う」
紗奈の手を振り払う。
「いい、もうついてくるな」
顔も見ずに言った。
だが俺が歩き出すと、ヒヨコみたいに後ろをついてくる。
イラだつのと同時に、ホッとした。どういう感情なんだ、これは。
とにかく焦りで頭の中がぐちゃぐちゃだった。
近くのぼろい木造アパートの二階に上がる。角部屋の戸を開けて、中を見回す。
カーテンで閉め切った部屋は、ますます暗い。
靴のままあがって、開け放しておいた風呂やトイレの中を覗き込む。
押し入れの中も確認する。天袋までは見られなかったが、開け放してあるし、あそこで見えないように隠れるのは無理だ。
ここも俺たちの隠れ家だった。
カーテンさえ開け放てば、日当たり良好、西南向きで西日のきっつい部屋だ。
とりあえず吸血鬼はやって来にくい。昼間、天気のいい時ならだけど。
畳に亨悟を座らせてから、リュックを下ろし、水のペットボトルとタオルを取り出す。
昼間見かけたとき、亨悟は傷だらけだったが、あちこちに包帯が巻かれて手当をされていたようだった。
「さっさと行けって」
絞り出すように、亨悟が言った。
「しゃべるな」
「お前、早く行かないとまずいんだろ。西の方の島」
「……どういう意味だ」
「お前の家があの島だって、なんとなく知ってたよ。能古島《のこのしま》。あいつも言ってたじゃねーか。ばれてないって思う方がどうかしてる」
あいつ。――吸血鬼たち。
とっくに分かっていて、島へ渡るのは多少手間だから、後回しにしていたのかもしれなかった。
だけど、一度辿り着いたら、奴らはあの楽園を踏みにじり、二度と手放さないだろう。
荒廃した街よりも、海に囲まれた場所は守りやすい。だが、逃げにくい。
支配者として君臨すれば、人間を飼っておくには最適の場所になる。
「なんとかする。いいから、痛み止めを飲め」
ペットボトルを亨悟の口に押し付ける。ついでに、痛み止めの錠剤もつっこんだ。
それから、隠れ家に隠しておいた焼酎の瓶を持ってきて、亨悟の傷口にぶっかけた。
亨悟はもうあまり気力もないようで、ちからなく呻いただけだった。芋焼酎の重い酒の匂いがただよう。
「あー、黒霧島。もったいない」
亨悟が悪態をつく。
「黙れ。ペニシリン打ってやる」
昨日天神の病院から拝借してきた注射器と、母さんにもらったペニシリンの瓶をとりだした。
「用意がいいな」
亨悟は、いつものように、へらへらと笑った。
「お前用じゃなかったけどな」
「ラッキー」
どんな冗談だ。こんな状態でラッキーなもんか。
――だけど俺たちは、やっぱり、こんな世の中に生まれたにしては、恵まれた方なんだろう。
とりあえず肩の傷に布を押し当てて、包帯をぐるぐる巻きにしてやる。
処置をしてる間に、亨悟は気を失うように眠ってしまった。
俺は棒立ちになって見ていた紗奈を振り返る。
もう出ていけ、と言おうとした。
でも口が違うことを言っていた。
「亨悟を休ませてやらないといけない。こんなとこじゃ落ち着けない」
どうしたらいい。もうぐちゃぐちゃだ。
とにかく島に警告しないといけない。
急がないと手遅れになるかもしれない、でも亨悟をここに置いていくことも、担いで行くのも厳しい。
もし、奴らと戦闘になったら。
でも、何より、島を守らないといけない。だからすべきことは決まってる。――だけど。
紗奈は俺を見て、表情を変えずに言った。
「あんたも怪我してる」
忘れてた。ヤクザに鉈で切られた腕が。
亨悟を担いだり、無茶をやっていたせいで血が止まってない。思い出した途端、激痛が襲ってくる。
「放っておけ。このくらい、死にゃしない」
「目の毒だから、手当てしろ」
言われて、改めて、ああそうかと思った。こいつは吸血鬼なんだった。人の血を飲む奴だ。
血まみれのご馳走を二人も目の前にして、仏頂面で、狭い畳の部屋で仁王立ちしてる。
赤いふちの眼鏡の奥の感情が読めない。
俺はもう髪をむちゃくちゃに掻きむしってから、大きくため息をついた。亨悟の横に、壁にもたれて座りなおす。
「疲れた」
腹の底からの言葉が口をついてでた。
こんなとこで落ち着いてる場合じゃないんだけど。なんか急にどっと疲れが襲ってきた。
そんな俺を見て、紗奈は困惑している。
「お前、いつから吸血鬼なんだ」
ため息交じりに問うと、俺が動くつもりがないのを悟ったんだろう。
でかいパドルを置いて、部屋の真ん中にあぐらをかいて座った。
「最近」
「どっから来た」
「本州。下関の方」
「どうやって本州から来たんだ。橋は落とされてるし、トンネルは沈んでるって聞いた」
地下鉄と同じだ。闇の中には奴らがいる。だから、関門トンネルは遠い昔に沈められた。
「船を拝借して、知り合いにこっそり渡してもらった」
「……人間か」
「そうだよ。幼馴染みだ。無事に帰れていればいいけれど。帰るときもう暗くなってたし」
吸血鬼と二人で船に乗るとは。無謀な奴だ。
「バカじゃなければ、日がのぼってから陸地に帰るだろ」
そのくらい、誰だって身に染みた生きかただ。そうだな、と紗奈は自嘲気味につぶやく。
「なんで福岡に来たんだ」
「住んでたとこにいられなくなったから」
「まあ……そうだろうな」
吸血鬼の集団を追い出されたわけじゃなくて、吸血鬼になったのが最近だっていうのが、本当なら。
「あたしの生まれたとこは、海近くの山に隠れて住んでる集落で。山菜を拾ってきたり、たまに海で魚をとったり、町の方へ行って物を拾ってきたりして暮らしてた。そしたら、うっかり噛まれた。あたしも死ぬんだと思った」
噛まれた瞬間に襲ってきたのは、痛みと絶望だっただろう。そのどちらが強かっただろうか。
噛まれたら死ぬ。ほとんどの人間は。
もし生き残ったとしても、前と同じではいられない。
自分自身も、まわりの人間も。
「ずっと、吸血鬼なんて死ねと思ってた。奴らに知り合いをたくさん殺されて、恨んでた。あんな奴ら死んで消えて滅びるべきだと思ってた。だけど」
声が途切れた。紗奈は、唇を噛み締める。
堰を切ったように、眼鏡の奥の瞳からぼろぼろと涙をこぼした。
暗い部屋に、うめくような声が落ちた。
「だけど、生きたい」
顔をうつむける。フードで顔が隠れた。
「あたしも、生きたい」
他者を、死ねばいいと、消え去ればいいと願った報いなのだろうか。
「自分の育った場所から離れてみたら、人を襲うの平気になるかなって思ったんだよ」
でも――できなかったんだろう。
ニワトリを持ってった上に、ふらふらで歩いてたところを見ると。
その意地がいつまで続くのかわからないが。空腹に勝てる奴なんて、そうそういない。
紗奈はぽつりと言った。
「あんたにもらったおにぎり、まずかった」
「……おい」
「コーヒーもまずかった。こっそりあとで吐いた」
「おい」
「こんなになる前に食べたかった。コーヒーも、飲んでみたかった。どんなに美味しかったか」
口を歪めて笑った。その頬を涙が零れ落ちていく。
俺たちは奴らを吸血鬼と呼ぶけど、あいつらは化け物じゃない。
知ってる。ただの人間だ。
ちょっとばかし狂暴で、身体能力が強くて、傷の治りが早くて、ぜんぜん老けないだけの。
日の光で火傷を負うようになり、他の生き物の血でしかいきられなくなったとしても。奴らの寿命がどうなってるかは、今のとこ分かってないけど。
まあ、十分化け物じみてるけど、もともとは人間だった。
母さんが、俺が吸血鬼を狩るのを嫌うように。ただの病気だ。
これが広まる前に、暴動が広がる前に、誰かがどこかで食い止めて、きちんと研究していれば、なおるものかも知れなかった。
物語の吸血鬼は、狂犬病がモデルなのかもしれないという説があるのと同じように、これも新しい病気で、そういった物語の怪物に見えるだけなのだろう。
――なんでだよ。今更。
俺は奴らが憎い。
俺たちはいつだって閉塞感でいっぱいで、人間の数は減る一方だ。
子供の数は少なくて、食料が無ければ吸血鬼だって、いつか滅びるしかない。
どちらかが滅びるのなら、奴らを消すしかない。
俺はいつも、あいつらをみんな消し去って、浄化して、大手を振って街で暮らせることを願ってる。
父さんの敵を討って、七穂が窮屈な思いをしなくていいように。
なのに、なんだよ、今更。
なんで、ちょっと苦しい。いたたまれない思いが湧いてくるんだ。
「俺はお前らが嫌いだ。あの黒い奴が俺の父さんを殺した。俺は、母さんと妹を守るって、父さんと誓った」
――父さんは俺が十二の時、吸血鬼に襲われて死んだ。
俺は、俺のせいで父さんが死んだのを、奴らのせいにしてるだけだ。知ってる。
「お前らなんて、消えればいいって思ってる」
「ああ」
覚えのある感情なんだろう。紗奈はうなづいただけで、俺を責めたりしなかった。
姪浜《めいのはま》駅は地下鉄駅だが地上にある。
他の電車と連絡しているかららしい。だから、吸血鬼たちがやってくる心配は、ほかの沿線よりもずっと少ない。
駅にはシャッターが下りて、中に入れないようになっている。
俺は浮かれていた。
島から出るのは、三度目だった。父さんも他の人たちも、用心はしていたけれど、ここは能古渡船場から歩いて二十分くらいの距離だし、勝手知ったる場所だから、ちょっとは油断があったのかもしれない。
――もう三度目だったから。
慣れてきて油断して、一番危ない時期だ。
近づかないように言われていたシャッターに、俺はのんきに近づいた。
一緒に来ていた志織《しおり》さんが、あー悪いんだー、と茶化した。
ふいに、日陰から少年が姿を見せた。
黒いケープコートを着て、チェックのストールをぐるぐるに巻いた少年だった。
さらさらの黒髪の下から、白い肌が見える。黒々とした目が、俺を見て笑った。
日に焼けた俺たち島の子供とは大違いの、見たこともない、きれいな少年だった。
唖然とした俺の横で、志織さんが叫ぶ。大人たちが駆けつけた。
父さんが、俺に襲いかかった奴の手から俺を引っ張って、後ろに放り投げた。
俺は地面にひっくり返った。
その俺の目の前で、父さんは奴に噛みつかれた。
そして血を流しながら、地下鉄駅のシャッターの奥に引きずり込まれそうになっていた。
奴らは人間を狩ると、連れて行って血を抜き取って保管する。
俺は滅茶苦茶にわめきながら、奴の方へ突進した。それからよく覚えてない。
父さんは連れていかれなかったけど、死にかけて地面に倒れていた。何人かの大人たちも。
志織さんはロータリーのど真ん中で震えてた。
――妹と、母さんを守れ。
それが、父さんの最期の言葉だった。
わかってる。言われなくても、わかってる。
吸血鬼たちをみんな滅ぼして、家族と島を守る。そのつもりだった。
だけど、さっきの史仁と杏樹が脳裏から離れない。吸血鬼だって好きでなったわけじゃない。
「飲めよ」
俺は憮然と腕を突き出した。血がどくどく流れてく。
紗奈はきょとんとして顔をあげる。わかってる。俺だっておかしなこと言ってるの、わかってる。
「……いらない」
青白い顔で紗奈は言う。
死にたくないと言うくせに、かたくなに人間の血を絶って、どうするつもりなのか。
多分、自分でも分かっていないんだろう。
「どうせ流れてくんだから、もったいないだろ」
ぶっきらぼうに言うが、紗奈は少し身じろぎしただけだった。うつむいて言葉を落とす。
「いらない。人間の血を飲んだら、あたしも本当に、ただの化け物になる気がする」
「お前、杏樹たちを見て化け物だって思ったのかよ」
「いや――でも……」
紗奈の声は弱々しい。
血を与えることは、そいつの命の糧になって、その体の一部になることだ。それで死んだのだとしても。史仁が言ったように。
――シャクだけど、確かにそうだ。
そんなの、いきなり襲われて噛みつかれて死んだ人間からしてみれば、理不尽で仕方ないけど。
弱者は死ぬべきなのか。そんなの、許せない。それを肯定したら、七穂は生きていけない。
適者生存なら、俺たちか吸血鬼か、どちらが生き残るのか。
俺たちが全滅すれば、捕食するべきものがいなくなって、吸血鬼は滅びる。共倒れだ。だから意味がない。
俺たちが生き残るべきだ。やっぱり思いはここに帰結する。
吸血鬼はいなくなるべきだ。血なんか与えるべきじゃない。
だけども。
顔を合わせて、知り合った奴に、簡単に死ねなんかもう言えなかった。
不器用に駆け回って、ニワトリの恩だとかに固執して、俺たちを助けた奴に、死ねなんて言えない。
「襲って殺してないなら、まだ化け物じゃねーだろ」
少なくとも、黒いコートのあいつとは違う。狩りを楽しんで、俺たちを嘲笑うあいつとは。
早くしろ、と腕をもう一度突き出す。痛いからさっさとしろよ。
紗奈はためらいがちに膝立ちで近寄ってきて、俺の腕をとった。
血まみれの腕を見る。
紗奈も、さっきの史仁のことを考えているのかも知れない。
「牙たてるなよ」
白い顔が近くにある。
おずおずと、傷口ちかくに唇を寄せた。やわらかい感覚が触れて、思わずびくりと腕が震える。
舌が腕を這う。ぬるりとした感触。
噛まれて、傷口から感染するんなら、キスしたらうつるだろうか。
一瞬、そんなバカバカしいことを考えた。
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